ちんけな男

植松眞人

『ちんけ』という言葉がある。辞書を引くともともと賭博用語で「最低」とある。つまり、『ちんけな男』と言えば、最低な男という意味になる。それに語感からのイメージからなのか「小者」的な印象も与えられる言葉である。

とまあ、意味を調べれば調べるほど、『ちんけな男』という貶し言葉は、かなりの威力を秘めた言葉だということがわかる。どうしても馬の合わない男同士の喧嘩や、場合によってはヤクザ者同士の喧嘩にだって登場しそうなくらいに毒を含んだ言葉だということに異論はないでしょう。ありますか? きっとないはずです。あれば言ってください。

さて、ここにこの最大級とも言える貶し言葉を面と向かって吐かれた男がいます。はい、僕でございます。吐いた相手は嫁。高校三年生、十七歳から付き合い始めて今年で三十一年目。結婚してから二十一年目を迎えた同い年の嫁がつい先日の夜中に、酔っぱらって私に言った言葉が「ちんけな男!」という言葉である。

聞き間違いではない。酔っぱらい特有の語尾がわかりにくい言い方であったなら、「ちんけ」ではなくもう少しエロス方面の言葉を言ったのかもしれん、という疑いも頭をもたげるが、それはない。そう確信できるほどに、はっきりくっきりおっしゃったわけである。「ちんけな男!」と。

確かに、ここ数年。リーマンショック以降、嫁には苦労のかけ通し。不景気の大打撃を受けている広告制作の個人事務所の金銭的な苦労もすべて嫁に背負わせ、「作ることと金の計算を一緒に出来ると思っておるのか」などと立場も考えずに言ったこともある。

しかし、しかしである。これまでに「ちんけ」という単語が彼女の口から出るのを聞いたことがない。口癖のように言っているならともかく、聞いたことのない言葉が、パーティで酒を飲み、いつもは酒に強く酔っぱらったりしない嫁が、どうしたことが悪酔いしてしまい、夜遅くに帰ってきて吐いた言葉が「ちんけ」である。

さて、ここで僕は考えるのである。嫁はずっと「ちんけな男」という評価を僕に下していて、ついに酔った勢いで言ってしまったのだろうか。それとも、本当に心にもない言葉を酔った勢いで言ってしまったのだろうか。

数日後、何食わぬ顔で「酒に酔ったときの言葉が本音だというのは本当なんだろうかね」と話をふってみたのだが、「そうとも言い切れないんじゃないの」と明るい笑顔で答える嫁。これではらちが明かない、というので、さらに訊いてみた。「いやいや実は君は僕に向かって『ちんけな男』と言ったのだよ」と。すると答えは「あの日のパーティであった誰かのことだと思うよ」の一言で終了。

それからほぼ二週間経っているのだが、一日に二度は「ちんけ」という言葉が思い浮かんでくる。そして、だんだんとその言葉に飲まれそうな気がして、奮起しなければと思ったり。
さては、これが嫁の戦略だったのか、と思うと、恐ろしくて夜も眠れない。