包んで食べる。

植松眞人

 いつも、居てほしいときに居てくれない。

 昨日、裕作から言われたことを節子は思い返していた。確かにこの一年ほどの間、節子は忙しく働いていて裕作と一緒の時間をほとんど取れていなかった。でも、今日は久しぶりに裕作が夕食を終えた頃に帰宅できた。いつもより少し早めに帰ってこれたことを喜び「ケーキ買ってきたから、一緒に食べよう」と笑顔で話しかけたのだった。それに対する裕作の答えが「いつも、居てほしいときに居てくれない」だった。
 小学三年生にしては大人びた言いようだったことに、節子はどきっとして裕作の顔をまじまじと眺めた。すると裕作は立ち上がり、子供部屋へ入ってしまったのだった。
 まず、落ち着こうと節子は裕作のために作り置きしてあったカレーの残りを温めて少し食べた。お腹が温まると気持ちが落ち着いてきた。同時に、だんだんと裕作の理不尽さに腹が立ってくるのだった。
 一昨年離婚して、私は一人で裕作を育ててきたのだ。節子はそう思いながら、子供部屋のドアをにらみつけた。わずかな養育費はもらっているが、決して充分な金額ではなかった。節子は結婚前に勤めていた出版社でパートとして働かせてもらい、取材記事のリライトや校正の仕事をしていた。しかし、それだけでは食べていけず、近所の居酒屋のランチメニューの仕込みの手伝いもしていた。二つの仕事のかけもちで、正直、節子はかなり疲れる毎日を送っていた。裕作と一緒に夕食をとれる日はほとんどない。
 しかし、それも生活が落ち着くまでの辛抱だと節子は自分に言い聞かせていたし、裕作にもそう話をして聞かせた。もちろん、裕作もわかったと返事はするのだが、そこは子供だ。ときおり寂しそうな顔をしたりもする。
 三月ほど前のことだった。夏の暑い日に風呂上がりの裕作を見て、節子は子供の成長の早さに改めて愕然としたのだった。たった数ヶ月、我が子との暮らしをおざなりにしたと自覚している間に、この子はこんなにも大きく成長したのか。そう思うと、節子は生活のためだと、仕事に精を出していることが罪悪であるかのように思われてしまうのだった。
 節子の視線に気付いた裕作は「なに見てんのよ」とおどけて自分の部屋に逃げ込んだのだが、あれから数ヶ月で、また裕作は大きくなっていた。節子は急に母として、何か大きな間違いを犯しているのではないかという焦燥感にとらわれてしまう。そして、裕作の言う「居てほしい時」がいったいどんな時なのだろうかと考え込んでしまったのだった。
 開けっ放しのベランダの窓から、冷たい風が吹き込んできた。節子は煙草とライターを手にベランダへと出る。子供ができたとわかったときに辞めていた煙草だが、離婚後に再び吸うようになってしまっていた。いまだに裕作の前では吸えず、こうしてベランダで隠れて吸っている。たぶん、裕作は気付いているのだろう。幼稚園の頃から匂いに敏感な子だったから。
 まだ幼稚園の年少だった頃、節子は月に一度は餃子を作っていた。ある日、いつものように餃子を焼いて家族みんなで食べていると、裕作が「いつもの餃子じゃない」と言いだした。いつもと同じ材料で、いつもと同じように作ったのに、といぶかしく思っていると、その日はスーパーでニンニクが売り切れていたことを思いだした。
 たまにはニンニク抜きでもいいかと作ったのだが、夫もそのことに気付かず、節子自身も忘れてしまっていたくらいだった。そのとき、幼稚園の裕作だけが気付いたことに、節子はとても驚いたのだった。
 ふと窓から部屋の中をのぞくと、裕作がこっちを見ていた。節子は慌てて煙草の火を消す。ベランダの窓を開けて、裕作が声をかけてきた。
「いいよ。そんなに慌てて消さなくても」
「吸ってるの、知ってた?」
「うん」
 裕作はそう言うとベランダに出てきた。
「ねえ、居てほしい時って、いつ?」
 節子は笑顔で聞いてみた。
「もういいよ」
 裕作も笑顔で答えた。笑顔で答えた小学三年生を見て、節子は涙を流しそうになった。しばらく、二人は黙ってベランダに立っていた。三階のベランダから見える風景は、それほど美しくもなく、それほど切なくもなく、それほどおもしろくもなかった。それでも、なんとなく節子の気持ちを落ち着かせ、裕作を優しく見つめさせる空間にはなっていた。
「本当にもういいの?」
 節子は聞いた。裕作はうなずいた。うなずく裕作を見て、節子もうなずく。
「ねえ、餃子つくってあげようか」
「久しぶりだね。餃子つくるの」
「ちゃんとニンニク入れてね」
「ニンニクは入っているほうが好きだな」
 なんとなく大人びた答えをしてしまい自分で照れてしまったのか、裕作は節子から視線を外した。
 大きな新しいマンションが建ってしまってから、この部屋のベランダからは、通りの向こうが見渡せなくなった。以前は商店街の灯りが見えていたのに、いまは真向かいの知らない人の部屋の灯りしか見えない。それでも、この灯りの向こう側で、まだ小さなスーパーが煌々と照明をつけて営業を続けているはずだ。
「材料、買いに行こうか」
「いまから?」
 裕作は少し驚いた様子だったが、うれしそうだった。
「まだ、食べれるでしょ?」
「もちろん」
 いい材料があればいいいな、と節子は思った。もし、スーパーでニンニクが売り切れていたら、今日はもう少し先にある大きいほうのスーパーに行ってもいい。ちゃんと材料をそろえて、丁寧に材料を切って、丁寧にこねて、二人で皮に包んで餃子を作ろう。そして、いい火加減で、じっくり焼いて、明日のことなんて気にせずにお腹いっぱい食べよう。
 節子はそんなことを考えながら裕作を玄関へとせかした。(了)