吾輩は苦手である 2

増井淳

 吾輩は苦手である。何を隠そう、字を書くのが苦手である。
 なんとか字をうまく書けるようになりたいと思うのだが、そもそも日本の文字というのは、漢字・ひらがな・カタカナと数が多すぎる。
 特に漢字はほとんど果てしないほどあるではないか。そんなものを覚えられるわけがないし、正確に書くのも大変なことだ。
 たとえば、「飛」という字は、何度書いても変な形になってしまう。
 シンニョウもそうだ。ふにゃふにゃとしていて形が整わない。さらに、「辻󠄀」と「辻」のように点が一つのものと二つのものがあり、どちらがいいのか判断に困る。
 吾輩は新潟県出身だが「潟」という字は何度書いてもうまく書けない。越後の「越」も同様、辞書を引いて拡大鏡をながめないと正確に書けない。
 ひらがなの「ゆ」もむずかしい。「ゆ」という字はまるで絵のようではないか。
 数年前、母親が「要介護」状態になり、施設に入所することになった。その際、各種書類に署名をしなければならなかったのだが、その数があまりに多く、しまいには自分の名前をどう書くのかさえわからなくなるほどであった。吾輩の名字の最初の漢字「増」の字の右側にある「田」と「日」はどちらを大きく書くべきなのか、悩んでいるうちに字を書くことが激しく苦痛になってしまった。ことばと文字が乖離して吾輩のものではないような感覚に陥った。
 ワープロやパソコンを使うようになり手で書く機会が少なくなった。そういうことも影響しているのだろう。それにしても、自分の名前さえ書けなくなるというのは困ったものだ。
 斎藤茂吉にこんな歌がある。

 あつき日に家ごもりつつもの書くに文字を忘れていたく苦しむ

 これは昭和4年の歌だから、茂吉は40代後半、この頃のことを「ようやく初老を過ぎて」(『作歌四十年』)と書いているからすでに物忘れに苦しんでいたのだろうか。たくさんの字を書いただろう茂吉も字を忘れて苦しんだ経験があるのだ。ろくに字を書かない吾輩が苦しむのも当然のことかもしれぬ。
 
 小学生のころ、書道教室に通っていた。まだ低学年だったと思うが、大きな教室でたくさんの生徒が通っていた。教室に行くと先生のお手本を見ながら自分で書いてみて、完成したら先生に見てもらうというやり方だった。先生に丸をもらうと級位が認定されて、最低は9級で最高は3段くらいだった思う。級位をもらうと短冊状の木の名札が、教室の壁のその級の位置に張り出される。何ヶ月通っただろうか、今となってはまったく思い出せないのだが、ともかく何度書いてもなかなか丸がもらえず、7級になった時点でやめてしまった。そのころから、字を書くのが苦手だなという自覚がうまれたのだと思う。
 字が苦手な我輩でも日記や読書記録を書いていたことがある。最初の頃はていねいに一字一字書いていたのだが、そういう方法は時間がかかる。それでだんだんと早く書くようになったのだが、その結果、自分で書いた字が判読できないということになった。それでは書いている意味がない。
 そういう経験があるので、新保信長『字が汚い!』(文春文庫)はおもしろく読んだ。自分の字が汚い、というか、年相応の字が書きたいと願う著者が、ペン字練習帳で練習したり、ペン字教室に通ったりした経験を綴ったもの。いろんな人の筆跡も載っていて興味深い(特に政治家の筆跡は必見)。
 しかし、吾輩と同じように大人になって字をなんとかしたいと苦慮する姿には、そこはかとない滑稽感が伴う。この本の帯には「50歳を過ぎても字はうまくなるのか?/情熱と執念の右往左往ルポ!/なぜか、朝日・読売・産経・東京・日経各紙も絶賛!」とあり、かすかに著者をからかっているようにも感じるではないか。
 字が苦手というのは、滑稽でわびしいものなのだ。
 書家の石川九楊は、「声とは肉声である。同じく文字とは肉筆以外ではありえない」(『「書く」ということ』文春新書)と書いていて、もっともな意見だとは思うが、苦手なものは苦手なのですよ。