1961年インドネシア舞踊団来日

冨岡三智

インドネシアの初代大統領スカルノは、1953年から1965年に失脚するまで、海外に芸術使節団を派遣してインドネシアを国際的にアピールする政策をとった。日本には1961年と1964年に来ているのだが、1961年には私の亡き師匠の義弟のジョコ氏、義妹が来ているということが、2010年の師匠の1000日法要の場で分かり、ええーとなって今回の滞在で2人にインタビューすることになった。というわけで今回は、1961年のインドネシア舞踊団の足取りについて書きとめておきたい。この公演を見たという人が読者の中にいれば、どうかご連絡ください!

なおこの初の来日公演の主催はインドネシア大使館と朝日新聞社である。というわけで、朝日新聞になんども詳しい記事が出ている。

この芸術使節団の来日はインドネシアの巡航見本市船タンポマス号の公開とセットで、一行は東京湾の晴海岸壁に停泊するタンポマス号で寝起きしていた。1月23日夕方にタンポマス号の披露レセプションが開かれ、その翌24〜28日の朝から夕方まで、船内でさまざまな工芸品の展示が行われた。

24〜25日の夜は朝日新聞東京本社講堂での公演。朝日新聞の記事によると、切符が完売したため、急きょ25日の追加公演を決定したらしい。26日昼には高松宮妃が会長を務める「なでしこ会」の慈善公演で、皇族方の臨席があり、これは一般には告知されていない。そして同日夜には神田の共立講堂で公演。そして28日にはNHKで1時間の公開放送が行われている。ジョコ氏は、インドネシアでテレビ放送が始まるのは1962年で、その前に日本でテレビに出演したということが非常に誇らしかったと言う。その後は大阪に移動し、1月31日と2月1日は朝日会館で公演。そして2月4日には日本をタンポマス号で出国して、香港、マニラ、シンガポールを廻って帰国している。ちなみに舞踊団一行は大阪では宝塚の公演も見ていて、そのあと、あの雛段で宝塚の出演者たちと写真を撮っている。

舞踊団の編成だが、なるべく多民族性を反映するよう、一行はバリ42名、ソロ(=スラカルタ)13人、ジョグジャカルタ5人、バンドン12人、ジャカルタ4人(たぶんこれは役人だと思う)の一行から成っている。その回により、舞踊団の参加地域の顔ぶれは少し異なる。持って行ったガムラン楽器はバリのセットと中部ジャワ、ソロ様式のセット。実は中部ジャワのソロとジョグジャカルタ、西ジャワのバンドンの演奏では楽器を共有し、ジョグジャカルタからは踊り手だけ、西ジャワのバンドンからは踊り手と2,3人の主要楽器演奏者のみが来ていて、基本的にジャワ島グループの音楽伴奏はソロの人達が演奏している。そういうわけで、出発前にジャカルタのホテルでジャワ島組は合同練習したらしい。

西ジャワの人に言わせれば、中部ジャワと西ジャワの楽器では音も雰囲気も異なり、踊りにくかったようだ。ソロから行った演奏者たちは皆、1950年に設立された国立の音楽学校(コンセルバトリ)関係者で、この学校ではジョグジャカルタやスンダ、バリなど他地域の音楽の実習もあったので、一応、他地域の舞踊の伴奏にも対応できたようである。

朝日新聞に掲載された公演評(保という署名がある)では、「これがインドネシアの舞踊だといったものがつかめない」、「海外公演にはもっと端的な特色を主にした演出がほしい」とあるのだが、それは無理というものだろうと、私は思う。多民族すぎて、特定の民族の舞踊だけを「これが、インドネシア舞踊」だと端的に打ち出せないのだ。むしろ、端的に打ち出せないところがインドネシア舞踊なのだということを、汲み取ってほしかったと残念に思う。まあ50年前の記事に文句を言っても始まらないのだが…。

で、上演演目は、ソロの場合はルスマン氏(有名なスリウェダリ劇場の舞踊家)十八番のガトコチョ(マハーバーラタに出て来る勇猛な武将)、女性舞踊は単独舞踊の「ルトノ・パムディヨ」、これはジョコ氏兄妹の父親であるクスモケソウォの創った舞踊。たぶんガリマン氏作の「バティック」を3人の女性の踊り手で。たぶんというのはジョコ氏は「バティック」を上演したと言うのだが、踊った本人のはずの妹の方が演目を忘れているから。

ソロの舞踊以外に、ジョコ女史兄妹のペアと、もう1組ソロの男女のペアが、スマトラ島の舞踊「スランパン・ドゥアブラス」も踊っている。ちなみにジョコ氏は音楽演奏担当なのだが、この舞踊が踊れる人が少ないということで駆り出されたらしい。この舞踊はスカルノ大統領がインドネシアの国民舞踊にしようとして、うまくいかなかった演目である。ところでソロの2組がなぜスマトラ舞踊ができたのかというと、ソロのコンセルバトリの校長が個人でやっている舞踊活動で、「スランパン・ドゥアブラス」の講習があったかららしい。ちゃんとスマトラから先生を呼んだみたいである。

ジョコ氏も、その妹も、50年後に私からインタビューされるとは思っていなかったみたいだ。ジョコ氏は日本から帰国後すぐ就職のため、妹の方は1963年に結婚のためソロを離れ、2人とも現在は直接芸術に関わっていないので盲点だったが、身近な所に1961年の日本を見ている人がいたのだ。今、いろいろ話を聞けて良かったと思っている。