先月末、ライブ配信を通じて15年ぶりくらいにこの舞踊曲を見て、いろいろ感じるところがあったので、今回はこの舞踊曲について紹介したい。なお、ここに書いた内容は本人へのインタビューに基づいている。
『チャトゥル・サゴトロCatur Sagatra』はジャカルタ在住のスリスティヨ・ティルトクスモが1973年、弱冠20歳の時に創ったスリンピ(ジャワ宮廷舞踊、4人の女性で踊る)形式の舞踊曲で、初めて振り付けた作品である。
●振付家
氏は1953年にスラカルタに生まれた。幼少より複数のスラカルタ宮廷舞踊家に男性舞踊を師事し、特にクスモケソウォの弟子として1969~1971年に『ラマヤナ・バレエ』(1961年に開始し現在まで続く大型観光舞踊劇)で2代目ラーマ王子をつとめた。その間、全国ラマヤナ・フェスティバル(1970年)、国際ラマヤナ・フェスティバル(1971年)に出演し、その後1971年に大学教育を受けるためジャカルタに移った。ジャカルタではジャワ舞踊優形の名手として活躍する一方、兄がマネジメントを務めるバラウィディヤ舞踊団でジャワ舞踊を指導し、この曲を嚆矢として以後様々な舞踊作品を振り付けている。
●作品のコンセプト
曲名は、チャトゥルが4、サが1、ゴトロが塊を意味し、4つのものが1つにまとまるという意味。その名前およびコンセプトは氏が1970年にジョグジャカルタ王家のパグララン・ホールで見た同名のイベント(公演&展覧会)に由来する。そのイベントはジャワの4王家(マタラム王国から派生したスラカルタ王家とその分家のマンクヌゴロ家、ジョグジャカルタ王家とその分家のパクアラム家)が共催して回り持ちで開催していたもので、明らかにこのイベント名は4王家の結束を象徴している。それまでスラカルタ王家の様式しか知らなかった氏は、4王家が各様式の舞踊を上演しているのを見て大いに驚き、目が開かれるような思いだったと言う。1973年、氏は「ミジル・ウィガリンテャス」の曲を聞いていたときに、ふと3年前に見たイベント『チャトゥル・サゴトロ』を思い出し、それを見たときに抱いたイメージを体現するような作品、すなわち4王家の様式をすべて取り込んだスリンピ作品を作りたいと思いつく。それも単に各様式の動きをモザイクのようにつなぎ合わせるのではなく、全体として4王家の様式が溶け合ったものを目指した。その結果生まれたのがこの舞踊曲である。
●作品を生み出した背景
とはいえ、20歳の若者がスリンピを作りたいと強く思った動機は何なのだろうか。氏が言うには、当時舞踊を習うのはほぼ女性のみであったため、女性舞踊のレパートリーを増やしたかったというのが第一の動機だという。さらに、当時、ホテル・インドネシア内にあったレストラン『ラマヤナ』では毎週土曜夜に伝統舞踊の上演があり、ジャカルタの各舞踊団に回り持ちで上演依頼があった。氏が指導するバラウィディヤも月に一回程度公演していたが、互いにしのぎを削っているジャカルタで、他の舞踊団にないオリジナル作品を上演して舞踊団のクオリティを高めたい、それによってより多くの上演機会を得たいという強い思いがあり、それが第二の動機だという。というわけで、本作の初演はこのレストランであり、以後上演のたびに改訂を続けて現在の振付に落ち着いたという。
1970年代というのは、実は門外不出だったスラカルタ王家の宮廷舞踊が初めて一般の人に解禁された時代である。ジョグジャカルタ王家が早くも1918年に宮廷舞踊を解禁したのに対し、スラカルタ王家はPKJT(1969/1970年度から始まった国による中部ジャワ州芸術発展プロジェクト)の依頼に応じて、初めて一般の人々に宮廷舞踊を解禁した(王家の宝物とされる『ブドヨ・クタワン』を除く)。スラカルタではPKJTを中心に伝統舞踊の復興と創造の時代を迎えていたが、ジャカルタでも同様に知事が芸術政策に力を入れており、指導者としてスラカルタからガリマン氏を招聘するなどジャワ伝統舞踊の活動が盛んだった。つまり、この舞踊曲はPKJTと同時代に生まれた作品であり、似たような傾向が見られる。
PKJTプロジェクトでは上演に1時間近くかかる宮廷舞踊も約15分の長さに短縮され、様々な機会に上演されるようになった。さらに、若い人に受け入れられるようテンポを早くして緩急をつけるなど、演出の手が加えられた。つまり上演芸術化したのである。ジャカルタという都市で上演芸術=見せる芸術として創られた本作もまた、PKJT作品と同様に約15分と短く、早いテンポで一気にクライマックスに向かう性急さと華やかさがあり、私はそこに70年代特有の雰囲気を感じ取る。
●作品の振付
スリスティヨ氏はスラカルタ出身なので、振付や音楽の奏法はスラカルタ王家の様式をベースにしている。4人の女性は左手にダダップ(盾の一種)を持ち、帯の前身頃に短剣を挿している。ちなみに、スラカルタ王家でダダップを使う女性舞踊曲はかつて存在したが(『ブドヨ・カボル』)、現在には伝わってない。
楽曲構成は入場曲が①ラドラン形式の『ラングン・ブロント』で約2分。踊り手が床に座って本曲が始まり、1曲目が②クタワン形式の『ミジル・ウィガリンテャス』で約5分半、その後続けて2曲目の③『スレペッ・クムド』に突入し、戦いの場面を繰り広げたのち剣を納めるまでが約4分、その後座る(立膝)までが約20秒。本来ならその最後のゴングの音で合掌するはずだが、ここでは合掌しない。④パテタン(音取の曲)が始まり、ラク・ドドッ(膝行のような歩き方)で踊り手が元のフォーメーションに戻るのに約1分。入場と同じ退場の曲が鳴って合掌して立ち上がり、退場するのに約2分となっている。
①と②の曲はマンクヌゴロ家の舞踊『ブドヨ・ブダマディウン』でも使われるが、氏は当時まだ同舞踊を見たことはなく、音楽を録音で聞いたことがあるだけだったという。しかし、②についてはジャカルタで活躍する舞踊家レトノ・マルティ女史がこの歌を得意にしてよく作品の中で歌っており、なじみのある曲だった。①の入場曲ではジョグジャカルタ王家でやるようにスネアドラムの音が追加される。踊り手は左手で持ったダダップを肩の高さに掲げ、右手でサンバランと呼ばれるジャワ更紗の裾を手に持って入場するが、これはマンクヌゴロ家の舞踊『スリンピ・アングリルムンドゥン』で弓矢を持って入場するときのやり方と同じである。勇壮なマーチで軍隊が移動するように、踊り手は入場する。②の曲のイントロで先頭の踊り手1人が立ち上がって『スリンピ・アングリルムンドゥン』特有の動きを踊る。この動きはスリンピ各曲の中でも白眉で、多くの舞踊家が自作に取り入れている。その後残りの3人も立ち上がって全員で踊るのだが、スリンピでは曲の最終部で使われるプンダパンがきたり、曲のテンポが変わらないまま2人の踊り手が座る場面があったりと、古典のスリンピにはない動きのつなぎ方をしている。
その後、踊り手4人が剣を抜いて舞台中央に集まったところで太鼓がチブロンに変わり、③の曲に移行して戦いのシーンとなる。スリンピには戦いのシーンがあるが、そこでチブロン太鼓(動きの振りに合わせて激しく太鼓を叩く)を使うのはジョグジャカルタ王家風である。スラカルタ王家ではチブロン太鼓を使うことも、ここで曲が変わることもない。本作で2組の踊り手が右肩合わせの位置で剣を交わすシーンはジョグジャカルタ王家風、裾をいちいち蹴りながら横に移動する(エンジェル)シーンはマンクヌゴロ家風だが、本作の戦いのシーンの激しさはスリンピというより、むしろワヤン(影絵)の戦いのシーンを彷彿させる。素早い場所移動と剣を突く所作、テンポを少し落としてのエンジェルや対決シーンなど、緩急のある戦いの場面が交互に続くので、4分という短時間でも強い緊張感が続く。また、スリンピでは戦いのシーンの後にはシルップ(鎮火する、の意)と呼ばれる静かでゆっくりしたシーンが続き、勝った方が負けた方の周囲を廻るということが2回繰り返されるのだが、本作ではシルップ風にはなっていても戦いはそのまま続いており、また同じシーンの繰り返しではなく戦いのパターンが変わるので、それらがさらに緊張の度合いを大きくする。
最終場面について。宮廷舞踊では本来、踊り手は元の位置に戻って合掌するが、本作では元の位置にも戻らず合掌もしていない。しかし、その後に宮廷特有の歩き方であるラク・ドドッを15分の上演時間のうち1分割いて行い、その後立ち上がる前に合掌をしたことで違和感が薄まって、沈静的な宮廷舞踊の雰囲気を取り戻せるように感じられる。そして入場の時と曲は同じだが、武器として掲げていたダダップを今度は扇のように扱いながら退出する。私自身はこの扱いは好きではないが、入場時の武装したような雰囲気が解除される効果はある。
本作を久しぶりに見て感じたのが、マスキュリンで怒りのエネルギーに満ちた作品だなあということ。一般的にスラカルタ宮廷の舞踊は流れる水のようにフェミニンであると言われ、ジョグジャカルタ宮廷の舞踊はマスキュリンであると言われる。しかし、本作は曲の前半(②)ではスラカルタらしい動きが使われているにも関わらずフェミニンな感じがあまりない。その時間は実は戦いのシーンより長いものの、作品全体の中では印象が薄く、またつなぎ方にも無理があるように感じられる。作品全体から戦いに臨む姿勢が全編に満ちていて、スラカルタ様式のくびきを逃れようとする抗いのようなものまで感じられる。それに比べて後半(③)の戦いのシーンの方が強く印象に残り、完成度が高いように感じる。
●衣装
現在、この舞踊の衣装は冠を被り、ビロードの袖なしの胴着がスタンダードになっている。特にバティック作家イワン・ティルタ氏の提案で、マンクヌゴロ家の冠(金属製)をコピーした冠が使われている。だが、制作当時は冠ではなく、髪を後ろに三つ編みにしてまとめてリボンをあしらった髪型(ジャワの少女期の伝統髪型)にし、ロンピと呼ばれるシンプルな胴着であったらしい。当時は豪華な衣装を揃える余裕もなかったからだという。イワン氏の見立てた金属製の冠は戦闘的な衣装に見え、振付の雰囲気にハマっているように思う。
また、ダダップについては、現在、把手にはめ込む水牛の皮の文様は4人とも同じデザインだが、かつては1人ずつ各王家の紋章を描いたものを使っていたという。
●作品の意味の拡大
1988年、ジャカルタと東京の姉妹都市提携構想が持ち上がり、ジャカルタから東京に舞踊団が派遣されることになった。芸術監督に指名された氏は文化的な融合の象徴として「チャトル・サゴトロ」をテーマとして打ち出し、受け入れられた。そして、4王家の王(実際は3王家の王、パクアラム王は本家のジョグジャカルタ王が外遊中は国内に残らなければならないという取り決めがあったため)が揃っての海外渡航が初めて実現したという。本作はこの舞踊団派遣とは何の関係もない(作品も上演されていない)が、自身の作品の舞踊理念が王家の王たちに受け入れられ、現実社会において意味を獲得したと氏は感じている。
さらに2007年、元・社会相のナニ・スダルソノ女史によりジャカルタ在住の4王家王族のための芸術事業プログラム『チャトゥル・サゴトロ』が立ち上げられ、その後、同名の王族たちのコミュニティも創立された。これは同女史が発案者であるパク・ブウォノXII世(1945~2004)から長らく依頼されていた事業だという。そして、『チャトゥル・サゴトロ』はこの団体が開催する公式行事のオープニングで必ず上演されるのが決まりになっている。スダルソノ女史からスリスティヨ氏にそうさせてほしいと依頼があったという。ここに至り、1970年に見た各王家の公演に想を得て創られた本作は、モチーフとした4王家によってまさにその統合の象徴/アイコンとして託されるに至ったと言えるだろう。
このような過程を見ると、やはり氏の歩みをその師のクスモケソウォの歩みと重ね合わせたくなる。クスモケソウォはスラカルタ王家の舞踊家であり、その当時の同世代の宮廷舞踊家の中でもバリバリの保守派だったが、その時代の使命として「インドネシア化mengindonesia」に取り組み、1961年に始まった『ラマヤナ・バレエ』の監督を務め、スラカルタ、ジョグジャカルタ、+αの様式を取り込んで、インドネシア的なるものを打ち出した。それは芸術の形をとっていたからこそ、スハルト時代になっても、その後もインドネシアのアイコンであり続けている。『チャトゥル・サゴトロ』もそんな作品になっている。