映画『アクト・オブ・キリング』(2)

冨岡三智

「アクト・オブ・キリング」(原題The Act of Killing)は、アメリカ人の監督がスマトラのメダン市で1965年9月30日事件の虐殺に加担した実行者たちを取材し、彼らのやり方で虐殺を再現させた過程の記録である。私はyoutubeで無料公開されている159分版(インドネシア人に向けて公開されているので、日本語字幕なし)と映画館で121分版を見た。

先月号で書いたように、私はこの映画のインドネシアの関係者(フェイスブックのインドネシア語版ページのメッセージ箱)に質問を送った。それが5月初めに届いたので、私の感想として私が先方に質問した内容と相手からの回答の一部をここに紹介したい。ただし、私の感想は、私がyoutubeで見たが映画館での公開はまだという時期のものなので、先月号に書いたように、インドネシア人モードで見ている。

(1)私が最初に感じたのが、アンワルに密着しているけれど、イスラム教徒であるアンワルの習慣的な宗教実践(礼拝など)を、監督はあえて取り上げていないみたいだということ。

回答では、アンワルは悪夢を消すため、スマトラのある村に何年もセラピーを受けに行っていたと監督らに語ったという。これはインドネシアでよくある、霊的な治療だろうと思われる。彼はメッカ巡礼もしたが、これらのおかげで悪夢が消えたという話は彼の口から出なかったという。セラピーや宗教は、虐殺という彼が背負っている積年の重みのごく表面にしか届いていないようであり、自分たちはアンワルが過去の暴力行為を正当化しようとしたり、毎晩の悪夢を鎮めようとしたりする心理的な葛藤に目を向けたと回答にあった。インドネシア人と長く接していると、彼らの宗教的日常行為がよく目に入ってくるので、そういうシーンが映画の中に入ってこないことがかえって不自然なように感じて質問をしたのだが、監督たちはそんな表面的なことにはとらわれていなかった。宗教などで彼は救われていないという監督の観察は、とても冷静で鋭い。アンワルの心理を追っていた監督は、アンワルがカメラの前で直接は語らなかったメッセージを追っていたのだった。

(2)次の私の疑問は、アンワルが寝室で寝ているシーンが何度も出てくるが、あれは監督がつけた演技なのか、アンワルが自発的に行った演技なのか、それとも何の作為もなく彼はカメラの前で寝ていたのかということ。あの寝室は、どう見てもインドネシア人の日常的な寝室で、映画用のセットではない。居間などの洒落た部屋に比べて、質素でいかにもプライベートな空間だ。役者でない人が、寝るというプライベートなシーンまでカメラに晒すものだろうか、と素朴に感じたのでこういう質問をした。実は、ここだけは監督がアンワルに寝ている演技を指示したのかもしれない、と私は予想していた。

それに対する回答は、この映画では、「演じる」ことと「行っていること」、「本当のこと」と「フィクション」を区別していないということだった。人は日常生活の中でも、多かれ少なかれ、何らかの役割を「演じて」いたりして、その境目は明白ではない。この映画は、これこそが現実なのだとということを見せるものではない、自分たちも撮影していることを観客の目から隠してはいないし、一方、撮影される側もそこにカメラがあることを意識している。そして、出演者の無意識に出た行為から何かのふりをしている行為まで、そのまま観客に見せている。監督はアンワルに彼の私的な日常生活も撮りたいと相談し、寝室での撮影もアンワルは了承したとのことだ。だからカメラには彼がテレビを見たり、着替えたり、鏡を見たり、歯を磨いたり、寝たりするシーンが出てくる。寝室にカメラを三脚に据えつけてアンワルとカメラだけという状況で撮っていると、彼が寝られない様子が映っているので、監督がそれはカメラがあるせいかと尋ねたところ、いや、よく眠れないことが多いのだとアンワルは答えたのだという。そういう時、歯の痛みで眠れないから、ペンチで歯を矯正しようとしたりするらしい。そういえば、彼が入れ歯を入れるシーンというのはよく映像に出てきた。何か彼の咀嚼できない感情が、歯への過剰意識としても出ていたのかも知れない。

(3)映画の最後で、彼が虐殺の現場に戻って吐くシーンについて、これも前の疑問同様、監督がつけた演技なのか、アンワルの自発的演技なのか、実際に吐き気をもよおしてしまったのか、と質問した。映画を見る前にあらかじめネットでさまざまな意見を探したところ、このシーンは彼が演じたものでないかという感想がいくつかあった。確かに、日本人の目には嘘くさく見えそうなシーンだと感じたが、私は、アンワルがkemasukan(霊など悪いものに入られた状態)したのではないかと感じた。というのも、腹に入った悪い気を吐き出しているインドネシア人の症状を見たことが二三度あるのだが、それがあのアンワルの吐き気の症状に似ていたからなのだ。というか、そのときはもっと頻繁に喉の奥からグワッ、グワッと瘴気がこみあげてきて、アンワル以上に信じられないような光景だったので、アンワルの吐き気もあながち演技とばかりは言えない、という気がした。

これについても、製作者からの回答は上に同じで、アンワルの演技なのか、実際に起こったことなのかを問わず、カメラの前で生じたことを撮影し、観客に提示しているということだった。監督はアンワルに演技をつけたことは一度もないと言う。実は、映画の冒頭で彼がこの虐殺現場に監督たちを連れてきて嬉々としてその様子を語ったのは2005年、映画の最後のシーンは2010年の撮影とのことだ。しかし、私にはこの間に5年の歳月が流れていると実感することができなかった。もっとも映画中には選挙があってヘルマンが落選するエピソードがあって、時間は確実に流れている。しかし、冒頭と最後の虐殺現場に来るシーンには字幕で年を入れるなどして、時間が経過したことをはっきり示した方が、アンワルの吐く行為がもう少し違和感のない形で観客に受け止められたようにも思う。2010年に再度虐殺現場を訪問することを監督が提案したとき、アンワルは2005年とは違って、明らかに気が進まない様子だったという。この時アンワルは実際には吐しゃ物を吐き出してはいないので、単にそういう演技をしてみせた可能性もある。しかし、夜ここに来て撮影したくなかったのかも知れないし、実際に精神的に異常になっていたのかもしれないとのことだ。単なる演技という可能性から、そう演技せざるを得ないという心理の可能性までをも含めて、監督はカメラで追っていたということなのだろう。

「演技と演技ではないこと、ドキュメンタリとフィクションの境目はどこにあるのか」という言葉が回答では何度も繰り返され、「我々は現実の世界をどのように認識しているのか」がこの映画のテーマの1つでもあるという。確かにこの映画では、現実と虚構は二項対立的に存在するのではなく、「スペクトラム」としてある範囲の中に連続して分布するものとしてとらえられている。

質問はまだまだ続くのだが、今月はここまで。