ここではジャワ舞踊といっても私がやっているスラカルタ(ソロ)様式に話を限定するのだが、同じ作品名なのに異なるバージョンが存在したり、作品名は違うのにほぼ似たような内容の作品が存在したりする。おそらく他の舞踊作品でも同じことが言えると思うが…。自分がまだ舞踊を学び始めた頃には、そのことがよく理解できなかった。「レパートリーは○曲あります」と言えたらいいのだが、何を以て1曲と言うんだろうと考えたら、よく分からなくなる…という感じだった。というわけで、今回は初心者には紛らわしい舞踊作品のバージョンを紹介する。まずは、たぶんスラカルタ様式の舞踊で一番ポピュラーで目にすることも多い、「ガンビョン・パレアノム」から。
ガンビョンという舞踊ジャンルだが、これには物語的な背景が何もなく、太鼓のリズム・パターンに合わせて踊る曲である。「ガンビョン・パレアノム」の伴奏曲は、「ガンビルサウィット・パンチョロノ」という曲をメインで使うが、その前に「スメダン」という曲をくっつけて、独特のケバルという演出(速いテンポにのって、女性が身を装う身振りをする)を繰り返すのが決まりになっている。この演出が考案されたのは1950年、マンクヌガラン王宮においてである。ガンビョンは、そもそも民間では商業舞踊の人だけが踊るもので、一般子女は踊らなかったのだが、それを宮廷づきの踊り手に命じて宮廷舞踊風にアレンジしたのがこの作品だ。「パレアノム」は実はマンクヌガラン王家の旗印のことで、同王家のオリジナルの舞踊であることが強調されている。王家の最初のバージョンは宮廷舞踊にふさわしく長いので(確か40〜50分かかる)、1970年代始めに同王家で15分程度の長さに短縮された(*)。
このマンクヌガラン短縮版「パレアノム」のケバルの演出を見て、その生き生きとした感じを気に入ったガリマンが、「パレアノム」をアレンジしたのは1972年(*)のことである。ガリマン版の特徴は、曲のメイン部は2ゴンガン(ゴンガン:曲の単位)の長さとし、その中に通常とは異なる順序でリズム・パターン(スカラン)を配置し、かつ、あまり使われないものや自分が新しく作ったスカランを入れた点にある。
ガンビョンというのは、太鼓の演奏するスカランに合わせて踊る舞踊で、即興的な要素もあるのだが、最初4つと最後に使うスカランは決まっているので、短時間の上演なら決まりきった踊りになってしまう。ガリマンは舞踊家だけでなく音楽家でもあり、民間では踊り手が必ずしも規則通りに上演していないことを知っていて、あえて変則的なアレンジを試みたのだという(**)。だから、最初の4つのスカランをI→II→III→IVと順に上演すべきところをIだけやって、II、III、IVは使っていない。そのため、ケバルという演出だけでも新感覚なのに、さらに斬新な雰囲気が生まれた。この定型から大きく外れたやり方は、当初は批判されたらしいのだが(**)、今では批判する人は誰もいない。
私の師のジョコ女史も、ガリマン版のあと1974年(*)にアレンジを手掛けている。ジョコ女史版の特徴は、3ゴンガンとガリマン版より長く、1ゴンガン目には定型のスカランをIから順に入れているものの、2ゴンガン目と3ゴンガン目はガリマン版をそのまま踏襲していること。芸術高校の教員だったジョコ女史は、教育的見地からガンビョンの定型を踏まえ、かつ沢山のスカランの踊り方を勉強できるようにと、こういうアレンジにしたらしい。
そのジョコ女史版の、入退場の曲だけを変えたのがPKJT・3ゴンガン版で、両者の太鼓パターンは全く同じである。ガリマンもジョコ女史も、「パレアノム」の上演ではマンクヌガラン王家版と同じ入退場の曲(上では書かなかったが)を使っている。ジョコ女史版のカセットは市販されていないが、PKJT・3ゴンガン版は市販されている。
PKJT・3ゴンガン版が生まれたきっかけは次の通り。ジョコ女史はPMSという舞踊団体でも指導していたことがあり、そこで自分版の「パレアノム」を教えていた。その団体に参加していた芸大教員のノラ女史がそれを覚えて持ち帰り、芸大で教えるようになったという。これは、ノラ女史本人が私に語ったことなので、間違いないだろう。PKJTは当時あった芸術プロジェクトの名前で、PKJTの成果は芸大のカリキュラムに導入されている。というわけで、私が芸大の舞踊科に留学して履修したガンビョンの授業で習ったのは、このPKJT・3ゴンガン版ことジョコ女史版であった。そして、一般的にPKJT版として知られているのは、1979年(*)にノラ女史がこのPKJT・3ゴンガン版の3ゴンガン目をカットして2ゴンガンにしたものである。3ゴンガンでは、結婚式やイベントなどで上演するには長すぎるというわけで短縮されたのだ。
さらには、ガリマンと並ぶ巨匠マリディも「パレアノム」を手掛けている。これも基本的にはジョコ女史版と同じだが、入退場の曲をPKJTとはまた別の曲に変え、かつ、1つだけスカランを別のものに差し替えている。マリディの場合は、ガリマンやジョコ女史が手掛けたのを見て、自分もやってみたかったというのが真相のようだ。マリディ版「パレアノム」は市販されているので、あるいはカセット会社から「マリディ先生も1つ『パレアノム』をお願いしますよ…(その方が売れるし…)」などと言われたのかもしれない。
一般的にスラカルタで行われる結婚式では、「パレアノム」といえばPKJT版(2ゴンガン)かガリマン版のどちらかで、太鼓奏者も踊り手に「どっちでやるの?」と聞くのが常だが、今ではPKJT版が圧倒的に多くなっている。芸大が教育のトップ機関としてあるため、その影響は大きいのだろう。しかし、ジョグジャカルタやジャカルタといったスラカルタ市外では、「パレアノム」と言えば今なおガリマン版で、ガリマン版のカセットも市販されている。ガリマンはジョグジャカルタの芸術高校や芸術大学でスラカルタ様式の舞踊を教えていたし、ジャカルタにもよく指導に呼ばれていたから、その影響が大きいのだろう。
こうやって、「ガンビョン・パレアノム」は1970年代に一気にブームとなって定着した。それまでガンビョンといえば、「ガンビョン・パンクル」が一般的だったのが、「パレアノム」に取って代わられた。たぶん、マンクヌガランで考案された特有のケバルとガリマンの斬新なスカランの組み合わせが、同時代の舞踊家たちを刺激し、かつインドネシアの1970年代という開発の時代の雰囲気にマッチして大衆に歓迎されたのだろう。さらに、音楽カセットという新しく登場したメディアがその普及に一役買ったのだろうと思われる。
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(*) 制作年はSri Rochana Widyastutieningrum著 “Sejarah Tari Gambyong”、Citra Etnika Surakarta社、2004年を参照。ちなみに著者は現在の芸大学長で、同書は彼女の修士論文を出版したもの。同書ではガリマン版が1972年にできたあと、1973年にマンクヌガランの短縮版が作られたように書かれている。また、ジョコ女史は、ガリマン版が1971年頃に作られ、自分の版は翌1972年頃に作って親族の結婚式で初演したと言っている。おそらく、結婚式などで初めて上演した年と、公式に学校や王家などの公式レパートリーに導入した年との間に多少のずれがあるのだろう。またマリディ版「パレアノム」については、同書には言及がない。
(**) ガリマンに師事した飯島かほるさんの談