へろへろOL時代

くぼたのぞみ

黄色い各駅停車の電車で通ったオフィスは、黒々とした8階建てのビルで、仕事場はその5階にあった。全面が透明なガラスばりの正面玄関を入ると、まず広い吹き抜けがあり、左手に3機の大きなエレベーターを見ながら中央の階段をのぼる。階段の裏手にはシンプルな椅子とテーブルが数セットならんでいた。吹き抜けのせいで中2階のように見える上階には長いカウンターがあり、その奥が総務部、反対側の踊り場にはグランドピアノが置いてあった。

出勤した者はその階段をのぼり、タイムカードを押すのではなく、カウンターにならべられた名簿にサインするのが決まりだった。ところがこの名簿、9時半になると総務部の人がザザーッと集めて片付けてしまうのだ。1分、いや、30秒でも遅れると、自分の名前と日付のクロスする四角い空白を目前にしながら「ああ、間に合わなかった」とため息をつくことになる。あとで始末書を書かなければならない。たとえタッチの差でも、サインできなかった者は各階の自分の机について、B6サイズくらいの半透明の用紙に、なぜ遅刻したかを書き込み、主任の机の横にある箱に入れなければならないのだ。

その用紙は集められて、毎日、係長、課長へとまわされ、判が捺され、部長へまわされ、さらに上級職にまで回覧される。どれくらい休んだか、遅刻したか、個々人の出勤率はもちろん評価の基準になり、1年間の査定に影響する。だが、それだけではない。月に1度、全課の出勤率が表になってあがってくるのだ。極端に低い課では対策をたてるよう促される、恐るべき集団主義だ。PCなどない時代のことだから、「先端をいく」そんな「合理主義」を貫く手間ひまは、なかなか大きかったはずだ。

というわけで、みんな9時半までにサインするのに必死である。駅からゆっくり歩いて5分もかからずに行けるそのビルまで、電車を下りると脱兎のごとく走るのだ。まずホームから階段をかけあがり、改札を通り抜け、それから電車の線路をまたぐようにかかった橋の歩道を全速力で駆けて、三叉路の交差点では信号をなかば無視して広い大通りを横切り、ビルの玄関を入るや階段を二段飛び、三段飛出でかけのぼる。Tシャツにベルボトムのジーンズ姿の一群が、あるいはネクタイに背広姿の係長や課長までもが、息せき切ってビルに駆け込む姿は、思い出しても笑いたくなるような切ない光景で、いまもこの目にありありと浮かんでくる。

わたしは遅刻の常習犯だった。遅刻だけではない。体調不良で休むことも多かった。3歳にして虫垂炎になり、発見が遅れて、地方都市の病院でペニシリンをかき集めて助かったとさんざん聞かされて育った。幸運にして命を取り留めたそのときから、ちょっとしたことで、がくんと不調に陥る子ども時代を強力な管理のもとで育った、というのは東京に出てから気づいたことで、当時は、親の目や、狭い田舎の口うるささから離れ、24時間を自由に使えるのだと有頂天になって徹夜も、深酒もした。だれに気兼ねすることなく、気ままに深夜の帰宅、夜明けの散歩を楽しんだ。だがリバウンドも大きかった。回復に時間がかかった。とはいえ、結果をあまり考えずに、とにもかくにも、自分を縛る枠を一気に突破する無手勝流の心意気は、間違いなくこの時代に学んだのだと思う。

幼いころ虚弱だった人がある時点でがらりと体質が変わって丈夫になる、という話を聞いたこともあるが、そんな奇跡がこの身に起きることはなかった。勤め人になってみると、応募時点ですでに明確な男女格差をつけられ、入社後も、仕事の内容や職場の人間関係のストレスという大波をかぶった地方出身者の悲哀で、まじめにやろうとすればするほど心身ともに四苦八苦の泥沼に陥り、課の出勤率をひたすら下げた。当然、課全体が取り組み、改善すべき対象になった。奥まった倉庫のようなところで課会が開かれ、矢面に立たされた。そのときほどわが身の体力のなさを呪ったことはない。

しかし、その職場には風変わりな人がいた。遅刻なんて一向に気にかけずに悠々と午後出社。アフロヘアに髭を生やし、長めのトレンチコートをさっそうとひるがえし、えび茶のビロードのスーツに濃いサングラス。フロアのなかでその人のいる空間が不思議なオーラに包まれていた。みごとなまでにマイペース。彼の担当はディランとスプリングスティーンで、街には「しくらめんのかほり」が流れていた。