絶望ポートレート(1)

璃葉

私は、絵を描いている。幼いころから楽しみ遊んでいたもので、今この瞬間まで続いているのは絵だけかもしれない。誰かに師事したことは一度もなく、芸大はもちろん大学にも行っていない。高校はエスケープしまくっていた。基本的に学校というものが大嫌い(もはや憎悪の域といえる)だった。学校で覚えた、生きるのに役立つ唯一の技は、仮病だけだったと思っている。

思えば小学生のころから、団体行動や教師の発することばにいちいち拒否反応を起こしていた。起立、礼、着席、休め、前へ倣え、など軍の演習のような動作を覚えさせられ、気味の悪い「道徳」の番組を見せられる。最初は受け入れていたけれど、そのたびになんだか得体の知れない違和感が渦巻いては、体の中に蓄積されていった。それらが本当に退屈で興味も湧かず、適応できない自分が異常なのかもしれないとも考えた。拒否権のない学校という世界の中で、脳内は常に空想状態で、コンクリートでできた白い要塞から逃げ出すことだけを考えていた。もちろん楽しいこともあったし、絵を描くことで、周りと打ち解けることができ、理解者もいてくれたから死なずに済んだが、義務教育とよばれる9年間は、私にとってほとんど地獄の日々といってよかった。

小学二年生のころの担任教師には、要領の悪い生徒だけに暴力をふるう癖があった。言うまでもなく私は「要領の悪い」組であり、常に強めの体罰を受けていた(算数の時間はかならず)。おかげさまで計算は今も苦手だ。年が変わる少し前の算数の授業で、鉛筆で頭を刺されたときには、さすがに母親が怒りのあまり学校へ出向いたことを覚えている。今だったらもっと大ごとになっていただろう。担任は、バツが悪そうに私に謝り頭を撫でてきたけれど、強烈に嫌な思い出として残っている。今思えば、あれは教育的指導にもならない、ただのひとりの人間の八つ当たりだったのだ。あの年ごろの子供の目線で見る周りの大人は身体的にも精神的にも巨大に見え、そのなかでもあの担任は大木のように聳え、同じ人間だとも思えなかった。大きな人に対して、小さき人は絶対に逆らえないものだと当たり前に思い込んでいた私はその後、勉強の仕方もわからず、信頼のおける教師にも出会うことがないまま、成長した。
ようやく暗算ができるようになったのは20歳のころ。働いていたカフェで同僚が面白おかしく教えてくれた。それでも計算は未だに苦手だし、頭が真っ白になることもある。

やはり私は学校が大嫌いだ。