172オンリー・イエスタデー

藤井貞和

あなたの腕のなかに、
見いだした明日と、
昨日とのあいだ。

今日は赤土が、
チュラ 湾を埋め立てていますが。

孤独は終る と、
あなたが歌いつづける、
メイド・イン・アメリカ。

朝の光を約束だと、
歌い込みました、
過去の意味と、これからと。

見捨ててはならないと思います、
終らなくても。

(「と云っても」とF・L・アレンは言葉を継ぐ、「一九二〇年代に廃棄された、旧い因襲への、全般的な復帰があったわけではない」。かの『若い世代』のフラッパーたちが、あのように必死となって得た自由は、けっしてうしなわれていなかった。……と云っても、オルダス・ハクスレーの生物学的小説、ジョン・ウォストンの生物学的心理学、バートランド・ラッセルの生物学的哲学は、「急速に時代遅れとなりつつある」。高踏派の叛逆は力尽きて、『武器よさらば』もまた新しい音色、ほとんどロマン的な音色を打ち出し、いまや知性の幻滅的気分は過ぎ去りつつあり、絶望的諦念の衣裳の肘のところがすり切れ始めた、と。科学の声はもはや宇宙に心霊的価値物が存在することを、まえほど大声に、権威的に、否定しないようになってきた。……バード少将の南極圏飛行は、一般国民の眼から見て、リンドバーグに次ぐ英雄たらしめたが、大人口の中心地では、すこしく欠伸をする傾向が見えていた、と。『米国現代史』(オンリー・イエスタデー、改造社、一九四〇)より。カーペンターズのオンリー・イエスタディは一九七五年。私がアメリカ社会の片鱗をじかに感じた気がしたのは一九七四年でのコザ市(現、沖縄市)で。一九八〇年代にはポストモダン後期が日本社会を席巻し、それとなく一九三〇年代アメリカ社会みたいでした、というお話。)