13のレクイエム ヘレン・モーガン(4)

浜野サトル

  
美人コンテストで優勝を勝ち取ってから『ショー・ボート』でスポットライトを浴びるまでには、かなりの時の隔たりがある。ヘレンがミス・イリノイに選ばれたのがいつのことだったのか、正確なデータはわかっていない。そのあと、ヘレンはカナダで「ミス・マウント・ロイヤル」にも選ばれていて、その副賞がニューヨークへの旅だった。ニューヨークに入ったのは、1919年、俳優ストライキのさなかだったといわれる。

翌年、ヘレンは、ミュージカル『サリー』のオーディションを受け、コーラス・ラインの一員になった。主演女優のマリリン・ミラーは週給3000ドルの高給とりだったが、ヘレンが得たものはスズメの涙程度のギャラ。それでも、1922年までのべ570回の公演を続けたこのミュージカルへの出演は、ヘレンにとっては最初の安定した仕事になった。

このあと、いったんシカゴでショー・ビジネスの仕事についたあと、ヘレンはニューヨークに戻った。しかし、ショーの仕事はなく、最初に得たのは、スピークイージー(もぐり酒場)での仕事だった。禁酒法下、もぐり酒場がギャングスターたちの最大の収入源となった時代だった。

このときも、かつて鉄道の食堂で働いていた時期に彼女を「発見」したジャーナリストが、ヘレンをすくい出してくれた。ブロードウェイでヒット・レビューを次々に放っていた興行主に推薦状を書いてくれ、役を得たのだ。1925年、ヘレンは24歳になっていた。

ヘレンには、生得のものとしかいいようのない個性があった。ごく普通に歌ってもすべてが悲歌に聴こえてしまうような、悲しげな声の表情だった。その個性がブロードウェイで少しずつ知られるようになり、翌26年、ヘレンはレビュー『アメリカーナ』に出演する。ジェローム・カーンが客席でヘレンを「発見」したのは、このときだった。

その間、酒場での仕事も続いていた。舞台がはねるとナイトクラブへ急ぎ、酔客たちの前で歌った。その繰り返しが、ヘレンの日常になっていた。カーンに発見された26年には、54番街に自分の店を出すまでになった。もちろん、資金は自前のものではない。ナイトクラブは、酒の密売人など暗黒街で生きる者たちの格好の投資対象になっていた。ヘレンの個性に注目したギャングスターの1人が、彼女を「店の主役」に仕立てたのだ。

舞台からナイトクラブへという生活は、さらに深まった。舞台では相変わらずの端役だったが、クラブでは違った。シックなドレスを身につけた彼女は、ピアノの上に座って歌い、満座の注目を集めた。歌うのは、もちろんトーチ・ソングだった。それはまた、彼女を最終的に破滅へと導く、酒との縁が始まる端緒でもあった。

  
1929年、『ショー・ボート』がその最終の舞台を終えたとき、ヘレン・モーガンはすでに押しも押されぬ大スターになっていた。この年、ヘレンに惚れ込んでいたカーン&ハマースタインのコンビは、彼女をミュージカルの新作『スウィート・アデライン』の主役に起用した。彼女が終生の代表作となる1曲を得たのは、このミュージカルでだった。

なぜ、わたしは生まれてきたの?
なぜ、わたしは生きているの?
わたしは何をもらえて、
何を与えてあげられるの?
(「ホワイ・ワズ・アイ・ボーン」)

このミュージカルは大きな人気を博し、翌年、翌々年と公演が続いた。しかし、その寿命は『ショー・ボート』に比べて短かった。公演期間こそ同じ3年だったが、回数でおよそ半分、234回でその灯は消えた。

『スウィート・アデライン』が不意にとぎれるようにして終了したのと同じく、舞台の裏ではヘレン自身にも残酷な運命が迫っていた。まずは、ブロードウェイの劇場主の不倫の相手となったことが、つまずきの始まりとなった。

『ショー・ボート』の地方巡業が始まると、ヘレンは今度は相手役だった男優と恋に落ちた。しかし、その恋が長続きすることはなかった。地方公演の終わりは、恋の終わりでもあった。

舞台に出る前にブランデーを数杯飲むのを習慣にしていたヘレンは、舞台のあとではさらに深く飲んだ。私生活の波乱が、それに拍車をかけた。

1933年、男優との恋と並行して続いてきた不倫が、ついに終わった。すると、ヘレンは新しい相手、モーリス・マシュケを見つけて結婚した。それが、最初の正式な結婚だった。

二人は一緒に暮らした。しかし、まともな結婚生活が続いたのは、ごく短期間だった。書類上の離婚は36年のことだが、実質的には数週間で破綻していた。

すでにクラブでの仕事からはほぼ身を引いていたヘレンだったが、今度は舞台の仕事が急激に減っていった。それだけでなく、新聞の劇評欄で酷評されることもしばしばだった。アルコールの影響と考えていいだろう。

離婚した36年、『ショー・ボート』がはじめて映画化されることになり、ヘレンにも声がかかった。役はもちろんジュリーだった。ヘレンは無難に役をこなしたが、しかし、舞台でのときのような賞賛を浴びることはなかった。舞台での初演時から9つ歳をとったヘレンは、アルコールの影響でずっと太っていて、魅力を欠いていた。

  
あがけばあがくほど、もがけばもがくほど、その意志とは逆にどんどん深みにはまっていくということが、時に人間には起こる。ヘレン・モーガンについて書かれたものは少なく、彼女の場合がそうだったのかは、断言はできない。しかし、ジグソーパズルのピースのような記述をいくつかつなげていくとき、そこに想像されるのは、自分の現実から脱出しようとしてむなしい格闘を続けた一人の女性の姿である。

1941年、40歳になったヘレンはロイド・ジョンソンなる男と二度目の結婚をした。自動車のディーラーだった。
しかし、この結婚は、前回より少しは長かったものの、実質3カ月しか続かなかった。

30代に入ってからのヘレンは、重度のアルコール中毒だった。それでも、舞台に立つときには、その影響をできるだけ表には出さないようなふるまいができた。職業人としての心構えがそうさせたのだったろう。

しかし、仕事がめっきり減ると、アルコールの影響を隠す必要も、アルコールの摂取量そのものを抑える必要もなくなった。ヘレンは恋する人であり続けたが、度重ねて恋をしても、ヘレン自身が歌い続けてきた歌のように、それは悲しい結末にたどり着くだけだった。

1941年10月9日、ヘレンは歌が不意にとぎれるようにして死んだ。直接の死因は肝硬変だった。最後に舞台に出たのは2年前のロサンジェルス、作品は『ショー・ボート』だった。

ヘレンの死を看取ったのは、母親のルルだった。トムに去られて以後、ヘレンに愛情をそそぎ、ヘレンとともに生き続けてきたルルは、最終的にはヘレンにも去られて一人取り残された。ヘレン・モーガンのトーチ・ソングの世界を身をもって生きたのは、本当は母のルルだったのかもしれない。

(了)

※参照=CD『More Than You Know/Ruth Etting & Helen Morgan』
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