このところ、友人に会うと、決まって親の荷物の整理の話になる。私たち世代の親はほぼ昭和一桁で、年齢でいうと90歳代。父親が他界し、残った母親が施設に入ったとか、ついに両親が逝ったとか…。残された荷物、家の後始末がずっしりと肩にかかってきているのだ。私の母も施設で暮らすようになりそろそろ2年。家には猫2匹が暮らすが空家化しているので、体力があるうちにと重い腰を上げた。やるぜ、断捨離、と覚悟して座敷に足を踏み入れ、押入れの戸を開け放つ。と、そこには想像を超える昭和の堆積物が地層を形成するように積み上がっているのだった。
なつかしい駱駝色のウール毛布の上には、鮮やかな色のアクリル毛布が重なり、さらにずっしりと重いマイヤー毛布が何箱も折り重なる。その上の棚には、綿のシーツに麻のシーツにタオルシーツ、バスタオルにタオルケットにフェイスタオルのセット。その隙間には座布団カバーと銀行の名入のタオルがぎゅうぎゅう。全部箱入り新品。なのに、開けてみるとポツポツと茶色のシミができていたりして、とても新品とはいい難い。
大人4人がかりでも動かせないようなどデカい食器棚の上段には5枚組の小鉢、銘々皿、菓子皿が奥深く入り込む。ほんとに「たち吉」は罪深い。日本中の食器棚をこうやって席巻してきたんだろうか。下段には、これまた5枚組の刺身用皿とか20年くらい使っていない大皿とか、片手では持ち上げるのが大変な陶板がずっしり重なっている。お盆や菓子鉢といった木製品、漆器のたぐいもある。裏をひっくり返すと、幼なじみの弟の名前と入学祝の文字。遠い親戚の結婚祝に、どこの誰かわからない子どもの誕生祝…。関係の遠い近いにかかわらず、こうやってめでたいことをお祝いすればありがとうがモノで返ってくる暮らしがあったのだ。
これでも東日本大震災のときは、ガラス戸が開き上から降るように食器が飛び出て段ボール数箱分の食器を捨てたのだった。あのときは昭和一桁生まれの叔母が「ずいぶんと割れて、でもほっとしたの」とつぶやいていたっけ。割れたものは躊躇なく捨てられる。そう長くはない老い先を思い見通しのよくなった棚を見て安堵していたのだろう。
おしゃれだった母は洋服も多い。こっそり隠れてずいぶん処分はしてきたのだが、タンスの奥から化石のように出てくるバブル期の服は異様だ。肩周りを何倍も大きく見せるパッドに、光り輝く金色の大きなボタンの列。こういう服を60代の主婦がまぁ素敵!と買い求め、着込んでいそいそ出かけていたんだろうか。あきれるを通り越して笑ってしまう。まぁ、袖を通さずにしまわれたものも多いのだが。
堆積物に押しつぶされそうになりながら思う。昭和ってなんという時代だったんだろう、戦後の経済成長期の正体とは。この時代を支え生きてきた人たちは、あらかたこの世を去っているというのに、モノはぎっしり動かずここに積まれている。生涯をかけても使い切れないほどのモノを買い込み、贈り合い、それが豊かで幸せな生活だったのだ。
10月下旬にNHKの映像の世紀「バブル ふたりのカリスマ経営者」を見た。破格値量販の中内功と文化を売る堤清二を追う番組だったが、中内の自信に満ちた表情と言葉の間に挿入される安売り合戦の映像では、スーパーになだれを打って走り込む女性たちの姿が映し出される。左手に何枚もの服を抱え持ちながら、右手を人垣の間にむんずと伸ばしてさらに1枚を引っ張る人、人、人。その髪型、衣服、表情を見ながら、これまるでうちのおっかさんじゃん、とめまいのような感覚を覚える。笑い飛ばすことは、できない。私自身、高度経済成長期の子どもで、その恩恵を受けて育ったわけだから。みなさま、まだこの世にいらっしゃるでしょうか?お家には、そうやって買い求めたモノが奥深く眠っているのでしょうか?子どもさんが始末をしていらっしゃるのでしょうか?ぶつぶつと胸の内でつぶやいていた。
折しも、叔母が亡くなり、従兄弟のカズと妻のヒロコさんが、叔母の家の荷物整理に着手した。欲しいものがあったらもらってほしいと連絡が来て、行くと部屋いっぱいに晩年まで使っていたものが広げられている。コンテナに詰め込まれた画材に、山積みのスケッチブック、出窓にズラリ並んだ本…。92歳まで元気で絵を描き、読書をし、手紙を書いた叔母は、つまり死ぬ間際までモノを必要とした。自分自身で荷物の整理をしていた人だったが、それでも楽しみを持って生きていく以上は、生活必需品以上のモノを抱え込むことになるのだ、と教えられる。いったい人にとってモノってなんだろう。大切なモノを少しだけ持って暮らしていくのは理想だが、やりたいことがあり、あちらこちらに興味があったら、それは土台無理な話だ。
「物置から俺が小学生のとき遊んでいたメンコが段ボール一箱出てきた」とカズが笑っている。なかなか捨てられないのも、また昭和一桁なのだった。そういえば、「押入れの奥から灰が入ったままの火鉢が出てきて絶句した」と話す友だちもいた。本の始末も大変だ。祖父と父、2代続けて学者だった別の友人は、庭に立てた書庫の床から天井までぎっしり詰まった専門書の処分にえらく苦労していた。この友人は、東京と仙台を往復しながら、夫の祖母の家、夫の両親のマンション、自分が暮らした家の3軒の荷物の整理と売却までをやり遂げているのだが、その経験をふまえため息混じりにこういうのだ。「最後に残るのが着物と座卓。どこも引き取ってくれない。津軽塗の座卓だって、捨てるしかないんだよ」母の家にほとんど着物はないが、重たく大きな座卓がある。最後はこいつと格闘か、とその分厚い天板を見やる毎日だ。
まだ使える食器を新聞に包んで、ごめんといいながらそっと捨てる。洗濯をした服をきれいにたたんで仙台市のリサイクルプラザに運ぶ。モノの片付けに追われるうちに、新しい服を買おうとか、新しい家具を買おうとか、そんな気持ちは消え失せた。内需拡大とか、国内消費が上向けばとかいう人たちがいるけれど、多くの人が時間とお金と労力をかけモノの処分に悪戦苦闘している現実をご存じか?もうモノはいらない、昭和のあの人たちのようにやみくもには買わない、と考える人は間違いなく増えているはずだ。
叔母の荷物の整理をどこか楽しみながら進めているヒロコさんが「なんかもう遺品で暮らすのがいいんじゃない?」という。「うん、私もそう思う」とこたえる。このところ、母の服は趣味が合いそうな友人に回している。そうすると叔母の家からは、明治生まれの祖母が着て、叔母が受け継いだカーディガンが回ってくる。シルバーグレイでアンゴラの混じったウールのニットは軽くて暖かい。「これじゃ、いつまでたっても片付かないよ」と互いに笑いながらも、お金を介さずに親しい人たちとこうやってちょっと古ぼけたものを都合し合ってぐだぐだ暮らしていけたらいいな、と思う。