年が明けて、早ひと月が過ぎた。
ところで、みなさん、お正月はお餅を食べましたか? いま、必ず食べるという人はどのくらいいるものだろう。都会に暮らす若い人たちは、お餅のことなど忘れて年越しをしているかもしれない。
餅といえば正月だけれど、ここ宮城は餅の王国といえるところで、お祝い事には餅、農作業の区切りがついたら餅…と年中、何かにつけて餅を搗いて食べてきた。いま、手元に「大崎栗原 餅の本」という薄い冊子があって、─「大崎・栗原」というのは宮城県北の米どころといわれる地域なのだけれど─そこに昭和30年10月の「各市町村別各月餅食回数」というNHKが行った調査が載っている。驚くなかれ、最も回数が多い町は年間70回。5日に1回は餅を食べているのだ。ざっと見ると、平均は年30回ぐらいだろうか。
餅を食べるといっても、前日に餅米を水に浸し、臼と杵を用意し、台所のかまどに火を起こし蒸籠を重ね、餅米を蒸して…とその手間は、いまとは格段に違っていたはずだ。あれこれの準備や段取りの面倒よりも、餅への情熱の方がはるかに勝っていたのだろう。
餅は最高のごっつぉう(ごちそう)! そして、朝から晩まで田畑の仕事に明け暮れる農家の人々にとっては、暮らしの大きな楽しみだった。神社の祭りに、年中行事を行う日に、冠婚葬祭に、農作業の節目に、そして客のもてなしや休み日には、決まって餅を搗いた。いや、餅があったからこそ、きびしい労働に耐えられたに違いない。
機械化前の時代、農作業は田植えも草取りも稲刈りも、頼りは馬と牛、そして人。大家族で家には若い働き手がたくさんいたし、大きな農家となると近隣から住み込みや通いで働き手を雇い入れないと仕事は立ち行かなかった。これといった娯楽もなく、そもそも休み日がそうないのだから、この作業が済んだら餅、この行事のときには餅、とつぎつぎやってくる餅の日は、たらふく食べて一息つける安息の時間だったと思われる。
仙台も変わらない。「昔はね、何でかんで餅!」 大津波で被害を受けながらも多くの家が戻った市内若林区三本塚でたずねたら、間髪入れずにそんな答えが返ってきた。毎月1日と15日の休み日には決まって搗いたという。今日は休みだ…と寝床でもぞもぞしていると、隣の家や向かいの家からぺったんぺったんと餅搗きの音が響いてきて、「ほら、隣り始まったぞ。早く起きて搗け、と起こされたよ」とここで生まれ育った小野吉信さんが苦笑いしながら教えてくれた。
搗きたての白餅は、女の人たちがつぎつぎとちぎってあんをまぶし、重箱に詰めて親戚のところに届けるものだったという。自転車で遠くまで行った、という話に、子どものころ、兼業農家だった母の実家で年末に家族が総出で、ときには親戚の手も借りて餅搗きをしていたのを思い出した。畳を上げ、土間に杵と臼を出して餅つきして、搗き上がると丸めて鏡餅をつくったり、薄い木の箱に餅をのして板餅つくる。庭先で湯気の上がる蒸籠から、蒸しあがったばかりの真っ白でふわふわのおこわを手のひらにのせてもらい、あちちといいながら口にふくませると何ともおいしかった。そして、何日か過ぎると、従兄弟が自転車で固くなりかけた板餅を届けにくるのだった。
福島県中通りにある山間の町では、端午の節句の柏餅は母方の祖父母の家に届けるものだったと、と聞いたことがある。畑に育てておく柏の木の葉っぱでくるむ小豆あんを詰めた餅はもちろん手づくりで、「母親に、ばあちゃんのとこに届けてこう(来い)といわれ重箱を渡されると、田んぼの中の道を歩いて行ったね」となつかしそうに話していたのは60代後半の男性。柏餅は、娘から実家の親への元気の便りだったのかもしれない。
分家した兄弟へ、娘の嫁ぎ先へ、餅は届けられた。餅のまわりには決まって人がいた。餅は一人で食べるものではないのだ。みんなで準備しあい、でき上がれば遠くの人にも振る舞い、シェアしていっしょに食べるもの。どこか特別な食べ物としての位置づけは、あの白い粘りに力が宿ることを教えているようだ。
三本塚では、親が亡くなって葬儀が終わると、兄弟が囲炉裏をはさんで向かいあい、搗いた餅を引っ張り合う儀式があったという。ちぎれないように兄弟仲良くという意味を込めたものだろうか。
福島では昭和の祝言の再現に立ち会った際、披露宴の席で何人かが竪杵で餅を搗き、搗き上がった餅を杵で高く掲げると、参列者が祝言袋をつぎつぎと餅に貼り付けていく儀式があって驚いた。こちらは餅の粘りがご利益を引き寄せてくれるという願いを表しているのだろうか。
いまは、もちろん仙台でも農山村でもひんぱんに餅を食べることは少なくなってきた。それは大勢で過ごす暮らし方が変わってきたからなのかもしれない。でも、何か地域で催しをやることになって地元のお母さんたちにお振る舞いの料理を、とお願いすると、彼女たちは決まってこういうのだ。「やっぱり、餅だっちゃ!」