仙台ネイティブのつぶやき(34)満月の夜の友

西大立目祥子

親しい友人が亡くなった。闘病中だったので、そう遠くないうちに別れの日がやってくることは覚悟していた。でも、最後はあまりに唐突で、メールで3日後に会う約束をした1時間後に容態が急変して病院に運ばれ、翌日帰らぬ人になってしまった。

ご遺族から弔辞をたのまれたこともあって、彼との30年のつきあいを振り返る。そしてあらためて、こういう友人はめったにいないな、と感じ入った。

何しろ私たちは、友人である前に親族なのだ。私の祖母と彼の父親は20歳くらい歳の離れた姉と弟、長女と末っ子なのである。
滅多に会うことはなかったけれど、私にとって大叔父さんにあたる彼の父親の小柄な体つきや丸っこい頭のかたちに祖母の血筋を印象深く感じ取ってきたし、彼のお姉さんにも、会うたび「わぁ、うちのおばあちゃんそっくり」と感じ、しげしげと顔を見つめてしまう。やっぱり、似ている。

彼は小柄ではなかったけれど、私にとってはあまり話すことのなかった謎の多い祖母に通じる何かを持っているようにも思えて、つきあいながらそれを探っていくのがおもしろかった。独特の物の見方やのユーモアのセンスを感じるとき、祖母もごくごく近しい人には冗談をいうような人だったのかもしれないな、などと。

でも、私たちは30歳くらいになるまでほとんど会ったこともなかった。最初に会ったのは私の祖父の葬儀に、彼が結婚したばかりの奥さんを伴い現れたときだ。これから読経が始まるというのに、叔母たちが「まぁ見て、きれいな人。ああいう顔立ちはうちの親族にはいないわね」とひそひそ話をしていたのが忘れられない。

それからほどなくして、私たちはひょんなことから同じ職場の隣の机でともにコピーライターとして働くことになり、約10年同じ釜の飯を食べたあとはフリーランスのライターの道を選んで楽ではない稼業に耐えてきた。ときどきぼやきのお酒を酌み交わしながら。

やりたいことも似通っていた。お互い仙台に生まれ仙台に育った者として、この街の過去を見据えてこれからを見通したかったのだと思う。昭和30年代から50年代にかけて撮影された仙台の写真を読み解き、当時を知る人を探して話を聞き文章にまとめる連載を地元のタウン誌上で、毎月交代で始めたのは1999年のことだった。でもあきらかに彼の仕事の方がていねいで、結局のところ私は脱落し、一昨年まで17年間続いた連載の後半10年をやり通したのは彼だった。この長い連載は、3冊の写真集にまとまり、秋田の無明舎出版から出版されている。

もっと続けたかったろうに、気持ちをこめてしぶとくやり続けた連載を病のために中断せざるを得なかったときはどんな気持ちだったのだろう。でも当初は治療に希望もあったから、からだが回復したら再開を、と目論んでいたのかもしれない。写真集をもう一冊、と考えていたふしもある。連載終了のあと、もう十分にもう一冊つくれるくらいの原稿はそろっていると聞いて、私が「すぐにまとめたら」というと、「もう少しあとで」と答えていたから。用意周到な彼の頭の中には、回復後の段取りとプランができていたのではないのだろうか。この用意周到さは、私にはまったくないものだ。

この連載の取材のために、彼は街のあちらこちらをうろうろと動きまわり続けたけれど、いつも単独行動。一方の私も一人でまち歩きを続けていた。もしや、この群れを回避する習性も血統なんだろうか。やがて私は市民グループを立ち上げて歴史的建造物の保存活動に取り組むようになったのだけれど、基本的に徒党を組むのは苦手だからなかなか思うようにいかないところもあって、彼を引っ張り込んでずいぶん助けてもらった。お酒の席にいてくれるだけで場が和んで肩の荷が軽くなるような気がした。道化役を買って出てみんなを煙に巻いたりするから楽しいのだ。

自覚症状があって病院の検査を受け闘病に入ったころ、私もまた仲良く検査でひっかかって再検査が続いた。胃カメラだ、CTだというメールのやりとりをしたり、ほぼひと月違いで入院して全身麻酔の手術を受けたり‥。まったくもって戦友のように病状を報告しあう日々だった。振り返れば、何という因縁なんだろう。

彼が亡くなったことを友人知人に知らせると、多くの人が同じことばを返してきた。ある人は、飄々とした温かな人柄が好きでした、と。ある人は、飄々と暮らされている感じ、独特の個性が素敵でした、と。彼を評する「飄々と」ということばに深く納得しながら、ときどき私自身がそういわれることがあるので、まさか一人ふらふらとまちを歩いているのが飄々じゃないよねと考え、つい、これも血筋なんだろうかと親族の顔を思い浮かべた。

飄々というのは、物事への距離感から生まれるのではないかと思う。彼には確かに、物事を離れたところから眺め見るようなところがあったし、ひねった見方もした。だから、ときに鋭く批評的で、そこが話していて共感できて盛り上がるところでもあった。「あたしたちは、俺たちは、仙台のすれっからしだからさ」といい合いながら、古い建物をつぎつぎと壊しつるつるピカピカに変わり果てていく仙台の街を嘆きつつ、ずっとお茶を飲み続けたかったのに。

闘病はかなりきついものになっていたけれど、毎月8日と28日の私が主催している市には、よほど天気が悪くない限り足を運んでくれた。短い時間でも顔を見ながら話をするとほっとして、その表情に、私は、まだ元気まだ大丈夫と、声援を送るような気持ちで気力と体力を見極めようとしていた。でも、4月28日は元気がなかった。食事できる量が減ってきたせいで、何とも気力が湧かないようだった。

不安になった私は、翌日、出張先でささやかなお土産を買い夜に彼のマンションに届けに行った。1階まで奥さんと二人で出てきてくれたので外で二言三言ことばをかわし、別れ際「がんばろうよ、あきらめないでよ」と声をかけた。東の空には大きなまあるい月が上っていて、見上げる二人の後ろ姿を眺めながら、ああ来てよかったと思った。お土産なんかより、夫婦二人で煌煌とした満月に見入るひとときをつくれたのがうれしかった。そして、これが彼に会った最後になった。

ひと月が過ぎ、昨日、5月の満月が上った。たぶん、これからずっと、満月の日には彼のことを思い出すことになるだろう。

彼の名は日下信(くさかまこと)。彼が丹念な取材をもとに書いた『40年前の仙台』『追憶の仙台』(無明舎出版)は、仙台に住んでいる、住んだことがあるという人におすすめです。