うっすらと雪の残る道ばたで、もこもこした冬のコートを着こんだ子どもたちが笑っている。足元はみんな下駄で、あでやかなピンク色の爪掛け(下駄の前の部分の覆い)がかわいい。その屈託のない無垢な表情に見入るうち、なぜだか泣きたい気分になってしまった。
この写真を撮影したのは、アメリカ人のジョージ・バトラーさん(1911〜1974年)。朝鮮戦争の勃発に際し、1951年3月から約9ヶ月間、軍医として「キャンプ・マツシマ」(現・松島基地/宮城県松島市)に滞在した。写真は、その滞在中に訓練の合間をぬって撮影されたもので、松島を中心に、塩釜、石巻、牡鹿半島、仙台など、宮城県の沿岸部の日常の暮らしが切り取られている。仙台で5月1日から展示が始まると、長男のアランさんとその家族が来仙したこともあって、地元紙やテレビにも取り上げられ話題になった。
9ヶ月の滞在期間中に撮影した写真は約2000枚。息子のアランさんはその写真を整理していて、多くが東日本大震災で壊滅的な被害を受けた地域であることに気づき、一枚一枚の修復作業に取り組んできたという。
終戦から6年目の沿岸部で、どんな暮らしが営まれていたのか。写真はそのようすをリアルに伝える。戦争が終わったという開放感からなのか、人々の表情は明るい。終戦直後のきびしい食糧不足をくぐり抜け、わずかではあるけれど暮らしに落ち着きが生まれ、真っ白な割烹着を着込む母親が話し込んでいたり赤い晴れ着をまとう少女がいたり、暮らしの上向き加減が見て取れる。
でも、農作業に限らず、工事現場も山の現場も機械化以前。田んぼで、山で、海で、人々は汗だくで労働している。カラーフィルムは、夏の強い日差しや生い茂る緑もよく再現していて、男たちは炎天下で日に焼けた上半身をさらし黙々と体を動かしている。汗して働いているのは男ばかりではない。女たちはそろってどんづき作業(家を建てる前の基礎工事)に精を出しているし、子どもたちも自分のからだの数倍もあるような薪を背負って山を下ってくる。
誰もがまだ貧しかった。貧しい生活を支えるために、身を粉にして働かなければならなかったのだ。写真は細部までクリアに映し出して、包み隠さずその貧しさを伝える。バトラーさんが家族にあてた手紙にも「仙台は人口20万人の都市なのに、とても貧しい」「貧しい暮らしにもかかわらず、どの集落の家屋も小さな森に囲まれていて…」とある。小さな木造の家屋も土ぼこりの舞う道も、アメリカ人の目にはひどく窮乏した生活の風景に映ったのだと思う。
でも、だからこそ、よく働く人たちに感心を抱いたのもしれない。「アメリカ人の男性でも投げ出しそうな荷物を背負った小柄な女たち」という手紙の一文もあるし、農夫、漁師、大工、花売り、鉱夫…写真に働く人の姿を共感と愛情を持って写している。
アメリカにはない暮らしの中の意匠にも目をとめている。寺の鬼瓦、舟の舳先の飾り、稲のはせ掛け、大根干し、屋敷構えなど、興味は実に幅広い。バトラーさんは帰国してから日本の家具を置き、盆栽を楽しんでいたというから、日本の文化への興味はこの滞在中に培われたのかもしれない。
そして、子どもたちは、どこでもにこにことした笑顔をカメラに向ける。バトラーさんの身長は196センチあり、それだけで子どもたちの笑いの対象になったらしい。
写真は、近代化以前の暮らしを事細かく伝える。暮らしの中のあらゆるものがまだ天然素材。女たちは打ち込みのしっかりとした地織りの木綿で仕立てた作業着を着込み、藁で編んだ草履をはき、日よけに菅の笠をかぶる。街を行くのは肥桶を積んだ馬車で、その車輪はまだ木製だ。船は地元の船大工が手をかけたに違いない和船で、捕れた魚を下ろすカゴは竹製。店先の乾物はリンゴの木箱に詰めて売られ、芋に至っては土のついたままムシロに広げられている。
そして、果物店の店先を写した一枚をじっくりと眺め、色鮮やかなリンゴやミカンのわきに置かれた竹のカゴが目に入ったところで、私自身の記憶が揺り動かされてくる。そうだっけ、子どものころ、病院にお見舞いに行ったりするとき、こんなふうな細い竹で編んだカゴに入れたんじゃなかったっけ。深いところに沈んでいた記憶が浮き上がってきて、高度経済成長期の中にまだ残っていた一つ前の生活の断片を自分が知っていることがうれしく思えてくる。写真の中には、自分の過去も見つけられるのだ。
古い写真は、なつかしさを呼び起こすだけのものではないと思う。写真は、私たちはここからきたんだよ、と教える。自分の生まれる前の写真であっても、それは私たちの原点を指し示している。貧しかった、とひと言では決して片づけられない暮らしの総体。今日の目で振り返ると、写し出された世界はうらやましいような豊かさも隠し持っている。
バトラーさんの写真はこちらで見ることができます。
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