仙台ネイティブのつぶやき(37)晩年の自由

西大立目祥子

70代に入ってから絵を始めた叔母がいる。
最初のうちは、あっちこっち出かけて、黒ペンと水彩を使ったいかにも元教師というような生真面目な風景画を描いていた。それが、一度入院したのをきっかけに、たががはずれたというのか、もう恐いものなんか何もないというのか、のびのびと自由に描きたいことを描くという画風に変わった。

退院してきたときだったろうか、病室から見えたという、仙台市民にはなじみ深い正三角形の太白山(たいはくさん)を描いた絵を見せられて驚いた。山は赤く染められていて、赤い着物姿の女の子が山に向かって走っている。叔母は「これ、私なの」といった。連作のように何枚も描かれ、ふもとが落ち葉に埋め尽くされているのがあったり、細かい線で山が色分けされているのもあった。病を得て回復する中で逆にじぶんの生命力が湧き出てきて、それが子どものころの記憶と結びついて描く力になったのだろうかと思った。

朝5時に起きると、高台にあるリビングの窓から、仙台湾に上がる朝日を絵日記のように描いていた時期もある。光まばゆい日もあれば、曇天にぼおっと太陽が上がる日もある。1日のはじまりを確かめるように、叔母はくる日もくる日も朝日のスケッチを重ねていた。
かと思うと、「一人で蓮の花をスケッチしてきたの」と、スケッチブックを見せられたこともあった。でも、それはもうかつての忠実なスケッチではなくて、画面いっぱいに何輪もの花が散りばめられている。呼吸する花が呼応し律動しているような水彩画だった。叔母はスケッチをもとに、そのあと何枚も蓮の絵を仕上げた。
歳をとれば誰しも体力も気力も衰える。でもだからこそ、生きるもの、命の息吹にへの感度は高まるのだろうか。始めて10年を過ぎたころから、作品は小さな美術展で入賞するようになった。

叔母は父の3歳下の妹で、2人の子育てをしながら、長年、宮城県北の高校の家庭科の教師として働き、私にとっては専業主婦の母とは違う生き方を示してくれる存在だった。私自身が社会人になり仕事をするようになってからは、「食」というテーマを持って農山村の台所をめぐり文章を書く叔母を敬服してきたし、誰ともでも屈託なく話すところも好きだった。

人にとって案外とおじさん、おばさんの存在は大切だ。厳格な父親を持つ男の子には、ふらふらと生きているようなどこかいい加減なおじさん。家族のためにきちきちと家事をこなす母親を持つ女の子には、結婚なんかせずに好きなことをまっしぐらにやり続けるおばさん。子どもにとってそんな存在が身近にあれば、それだけで生きるのが楽になるし、違う世界への入り口になる。
私にとっての叔母は、私が日常眺めているのと違う風景を見せてくれる人だったのだろう。

とはいっても、ひんぱんに行き来しておしゃべりするようになったのはここ数年のことだ。30歳の私と還暦近い叔母では、やはり抱えているものはずいぶん違う。それがいまでは還暦を過ぎた私と米寿を迎えた叔母だ。老いの入口と老いの渦中。先を行く叔母の暮らしぶりはこれからの私の水先案内のようであるし、どこか単調になっていく叔母の生活にたまに入り込む私は、いつもとは違う風を吹かせる存在かもしれない。

近しい存在になって気づく。どこか似ているのだ。感じ方や気持ちの動き方。興味や関心、何を大切するか、そんな基本的なことが。これはやっぱり血筋なんだろうか。たとえば、気安く口に出してしまい果たせなかった小さな約束を、私はくよくよと気に病む。叔母も同じで、会うと会話が「ごめんねぇ」で始まることがある。こちらは何のことやらもうすっかり忘れているのに、何か小さな引っかかりがあって謝らなければと感じているのだ。

このごろはいっしょに台所に立つこともあって、先日は食器棚にあった1枚の染め付けの皿を見せられた。手に取って叔母がいう。「これねぇ、昔、使ってた皿。これによくちらし寿司を盛りつけて…」それは、父も子ども時代に使った、仙台空襲をくぐり抜けた皿だった。叔母の胸には、80年前の家族の食事の風景がしっかりと刻まれている。物に宿る記憶。その感じ方は人それぞれで、私も同じように、長く使ってきたもの、濃密な記憶を持つ物は捨てられない。叔母がずっと手もとに置いてきた1枚の皿を前にしながら、またしても似た者同士という思いを強くした。

そんな叔母がこの5月、長年連れ添ってきた叔父を亡くし、ついに一人暮らしになった。娘は千葉にいるし、同じ区内にはいるものの息子の家族とは別に暮らす。連絡がないとちょっと心配になるのだけれど、身の処し方を知る叔母は一人でいるのがもう限界、となると電話をかけてくる。「おいしいお菓子がきたから、来ない?」と。
猛暑日の電話には驚いた。「こんなに暑いのに、天ぷら揚げたの。取りにおいでよ」

お盆に訪ねたら『世界を変えた100の化石』という本を見ながら一心に化石の絵を描いていた。そして盛んに2億年前の話をする。遊んでるなぁ、心のおもむくままに。晩年こそ、毎日毎日、イマジネーション豊かに好きな事に熱中して遊べるのかもしれない。
この稿を書いているのは8月31日。たぶん、今日、叔母は長年続けてきた機織りの織り機に縦糸を掛けたはずだ。そしてきっと、明日1日から織り始めることだろう。
こんなふうになれるだろうか。楽しくおしゃべりをしながら、私はいつも叔母の背中を追いかけるような気持ちでいる。