仙台ネイティブのつぶやき(53)とりとめなく春が過ぎ

西大立目祥子

 世界中が疫病に巻き込まれるなんて。9年前に東日本大震災が起きたとき、おびただしい人が亡くなって、家も町も流されて、もうここまで深刻な災害を体験することは生きている間にはないだろうと思っていたのに。世界中から恐ろしい死者の数が日々伝えられてくる。
 いまもまだ毎日、地元紙の河北新報の1面には、東日本大震災の死者数が掲載されている。「宮城9543人(1217人)、岩手4675人(1112人)、福島1614人(196人)」という具合に。かっこの中は行方不明者だ。
 あのときの体験があるので、何万という人が亡くなったときに一体どういうことが起きるか、少し想像はできる。地元で火葬できない人たちは、山をこえて新潟や山形に運ばれていった。新聞には連日たくさんの死亡広告が載り、そこに見覚えのある名前をみつけることもあった。親しい人を失った人たちは、いま、お別れもできずに悲嘆にくれているだろう。

 仙台は3月のお彼岸くらいまではまだどこか呑気で集まって打ち合わせをしたりしていたのだが、4月に入り繁華街のパブがクラスターになったことがわかると、さすがに緊迫してきた。会議は全部中止になって書面で決済とか、延ばした日程をまた先延ばしにするとか、美術館も図書館も閉館になるとかで外出はめっきり減った。時間はあるはずなのに、なんというのか所在がない。ニュースを眺め、やりかけの仕事やってみるものの進まず、桜を眺めても心踊らず、集中力が全然出ない。

 それなのに、いろんなことが起きた。認知症の母がベッドから落ちてお尻の骨にヒビが入り、介護認定を見直したり部屋の中あちこちに手すりをつけたりでバタバタする。そうこうするうち猫の食欲が落ちてきてまったく食べなくなった。カゴに押し込み病院に連れて行くと、先生が一目見るなり「これはまずい」というではないか。血液検査をしたりレントゲンを撮ったり右往左往する。さらに「今晩預かってもいい」とまでいわれ動揺した。いい猫なのだ。私はこの猫といっしょに母の介護をしていると思っているので、なでるたび「長生きしてよ」と耳元でささやいてきた。戦友が奪われるのは困る。絶対に困る。
 
 幸い、母は回復して痛みを訴えることはなくなり、歩行も以前と同じまではいかないけれど、そろそろと歩けるようになった。つくづく食べてる人は強いと感じる。入れ歯なし91歳の母は、夕食は私と同じ量を食べる。グラタンもミートソースのパスタも食べる。そして、猫も回復した。皿に入れておいたごはんが空になっているのを見つけたときのよろこび。ああ、今日は食べてくれたと感じると、一瞬じぶんの中にも感応するように元気のスピリットがわき起こる。今日食べる力があれば、明日は生きられる。昨日今日食べたものが、翌週の血肉になるというのをリアルに感じる日々だ。

 ほっとしたのもつかの間、頭痛と吐き気で今度はじぶんが起きられなくなった。理由はわかっている。前々日の晩、集中力が出なくてあげられない原稿を無理して徹夜してやっつけたからだ。3年前に手術をして以来、それまでの頑健さはどこへやら、頑張り過ぎると決まってへたって吐いたり下痢したりする。でも深刻なことには至らなくてならなくて、お腹を休めて眠るとすぐ回復する。
 目にした新聞記事に福岡伸一さんがこう書いていた。「病気は免疫システムの動的平衡を揺らし、新しい平衡状態を求めることに役立つ」。からだはいったんリセットされて、新たな動的平衡をつくりあげるためにゆらゆら揺れながらいい状態を見つけようとしているんだろうか。いや、これがもう新たな動的平衡なのか。とすれば、まだ頭がついていってない。先行するからだに合わせて、つい頑張っちゃうクセの硬直した頭も揺らさないとだめなんだなあ。

 コロナ後の社会も、新たな動的平衡を求めて揺れることになるのだろう。人と人のかかわり方は変わるだろうか。3日前、初めてズームで打ち合わせのテストを試みた。確かに数人で集まって顔を見ながら話ができるのだから、集まり方を変えるかもしれないけれど、これが「場」になるのかどうか私にはまだわからない。

 ときどき車を走らせる宮城と秋田と山形の県境、鬼首という山間地に暮らす知人が山菜のコゴミを送ってくれた。すり鉢でゴマをすり、アーモンドやクルミを刻み入れてさらにすり、お醤油をちょっとたらしてナッツ和えにしたらおいしかった。春の味だ。ひと畝に何種類もの野菜を育て、こまめに料理をして暮らす知人は、春は決まって近くの禿岳(かむろだけ)に山菜採りに出かけて野性味あふれる味を楽しむ。都市がウィルスに翻弄されていても、山里の春はいつもどおりなのだろう。
 麓に広大な草原が広がり急峻な山道を持つ禿岳を、山登りする人たちは「アルプスのような山」と絶賛する。谷筋には雪が残り、尾根が黄緑色に染まっていく山を、ああ見たい、と思う。でもじぶんが感染源になる恐れがないとはいえないからこの春は無理だなぁと舌打ちしつつあきらめている。ニュースを見ていてもつくづく感染症はすべてが密な都市の病なんだと感じる。

 連休は庭でがまんしよう。でも目を凝らせば、シラネアオイ、イカリ草、二輪草、エビネ、一人静…と、さながら山にいるようにあちこちに山野草が小さな花を咲かせている。父が何年もかけて植え込んだ。絵ばかり描いていた高校の頃、祖父に幽玄な薄紫のシラネアオイを描いてくれといわれ、ものすごく閉口したことがあった。どこが魅力なのかちっともわからなかったから。30歳を迎えた頃だったろうか、楚々とした独特の白い花を咲かせる一人静を愛でる父に「おまえ、可愛いと思わないのか」と真顔で問われ、返答に窮したこともあった。その歳になってもわからなかったのです。いまはわかる。静かで可憐で目を凝らさないと存在を見出せないような花たち。しゃがみこんで向き合えば、その呼吸、命の明滅が胸に響いてくるよう。地べたに目を凝らして、5月。