私が一部屋を仕事場として使っている実家の庭には、古池がある。大きさは畳1枚半ほど。池の向こうは小さな築山のようになっていて、ツツジやモミジが育ち、隣家との境のブロック塀の脇には、いまナツツバキが白い花をつけている。池をつくって50年以上、金魚が絶えたことはなかった。
…なんて書くと、何やら豪邸みたいだけれど、私が子ども時代を過ごした昭和30年代から40年代にかけて、仙台では敷地の半分ほどに家を立て残り半分を庭にし、そこに池を配するのはごくごく普通のことだった。祖父の家にも、ときどき母にくっついて行く近所の家にも、友だちの家にも、樹木の茂る庭があり池があった。縁側やリビングからは、緑陰の下を泳ぎまわる金魚が見える。餌やりに近づくと、金魚たちはぱくぱくねだるように口を開けかわいかった。赤い金魚は、戦後の混乱が一段落し、少しずつ豊かさを手にし始めた地方都市に暮らす市民の最初の愛玩動物だったのかもしれない。
いや、こんなふうに少し大胆にいいかえてみようか。明治、大正、昭和始めの生まれの男たちが、戦災で焼け出され外地から引き上げ、ようやくほっとできる我が家を得たとき、戦前に眺め楽しんだ杜の都の庭を、もう一度そこに再現しようとしたのだ、と。
いまは杜の都仙台といっても、駅からまっすぐ西に延びる青葉通や定禅寺通を思い浮かべる人がほとんどだと思うけれど、そもそもは城下町に武家屋敷が多くあり、そこに植えられたたくさんの樹木が連なったさまがまるで森のようだったことに由来している。藩は樹木の伐採に厳しかった。屋敷には、スギやケヤキ、クリなどの家の建て替えに役立てる大木からカキやウメなどの果樹までがよく育ち、自給用に畑もつくられていた。すべての屋敷に池があったかどうかはわからないけれど、地下水の豊かだった町では庭に水が湧き出していたから無理なく池をしつらえることができただろう。
明治34年生まれの祖父は、明治になっても受け継がれていた武家屋敷の名残の中で育った。春は仙台地方ではオサランコ花とよんだヒナゲシの花畑で相撲をとり、夏は屋敷奥の大木の林で蝉時雨に聴き惚れる。残してくれた自分史には、大雨で池から用水堀に流れ出した金魚を追いかけて遊んだ思い出も記されている。
昭和20年7月の仙台空襲で家族の命以外のすべてを失った祖父は、30年代半ばになって再建した自宅に、ほぼ自作で築山をつくり桜を植え、池をつくって金魚を浮かべ、畑まで整えた。じぶんの記憶の中の庭を手探りでつくろうとしたのだろうか。さすがに小さな庭にケヤキの大木はかなわなかったにしても。私の目の前の池も、祖父と父の手づくりだ。2人がスコップを手に穴を掘っていたおぼろげな記憶がある。
金魚は瀬戸物屋で買ってきた。売り物のガラスの水槽が並んだ前に、ブリキでつくった浅めの水槽が金魚の種類ごとに置かれ、おじさんに「この赤いのとぶちを」というと、すくってビニール袋に入れてくれた。池が大きいからか金魚はすくすく育って、産卵の季節になると父は池に水草を浮かべ、産みつけられた卵を水草ごと水槽に移して孵化させ、メダカほどに育てて池に戻したりした。魚体に白い点ができる白点病という病気にかかると、水を張った漬物樽に隔離し塩だのヨードチンキだのを入れて治療し、元気にしてこれまた池に返した。結構ばりばりと仕事をしていたサラリーマンの父に、どうしてそんな手間暇かかることができたのだろうか。いま、思い出した。小3の夏休みの宿題は「金魚のかんさつきろく」で、卵から育つ金魚を毎日眺めて日記風に仕立てたものだった。いかにも健気な昭和の子どもであった。
池で育つと金魚は20センチほどにもなる。特に夏はいい。まわりの木々も池の水も緑を濃くしていく中を、朱色の金魚がすいっと動きまわる。動く赤。自在な赤。この赤い色にじぶんの気持ちをのせて、一瞬を楽しむ。
でも、生きものには手をかける人の存在が欠かせないのだ。父が亡くなって20年近く。池をさらうこともなくなって金魚たちは少しずつ数を減らしていった。そしてついに昨年8月、最後の3匹のうち2匹が一晩にして死んだ。酸欠か? うずくまるように残った1匹を水槽にレスキューして冬越しをした。横から見ると金魚はさらにデカい。少なくとも20歳にはなる金魚だ。暖かくなったら池に戻そうと計画して、待つこと9ヶ月、連休明けにそのデカをきれいに洗った古巣に泳がせてやった。
そして、ひと月ほど経った6月9日、ホームセンターで3センチほどの小赤とよぶ和金を7匹買ってきて、2日バケツでようすを見てから池に放した。この小赤は、すごく安い。なぜなら肉食魚の餌用だからだ。ショックを受けた。巨大なホームセンターの棚には、水の浄化剤、水温計、病気のための薬剤、水質検査紙…もう何がなんだかわからないほどに商品が並んでいる。手近にあった素朴な道具と薬箱の薬で金魚を育てていたなんて信じられないほどに。
金魚は社会的な生きものだ。デカは小赤たちを歓迎した。いかにもはしゃぎまわるように群れをつくり泳ぐ小赤を見てうれしくなったか、物陰から出てきていっしょに泳ぐ。小赤は3匹でいたり4匹でいたり、群れで泳ぎまわる。安堵した。うまくいきそうだ。
だが、それは続かなかった。4日目に3匹が一度に死んだ。5日目にまた1匹、さらに1匹、また1匹…小魚でも死なれるのはいやだ。しかも原因がわからず病変も外傷もないのが恐い。水のPHは正常値。水温もいつもどおり。いったいなぜ…?そうこうするうち、デカまでが具合が悪そうに動かなくなった。あせって水槽に移す。薬剤を入れても斜めになったり、底に沈んだり…もうだめかもしれないと観念しながら、本を調べ思い当たった。「金魚ヘルペス」。あっという間に蔓延し、治療できる薬剤はない、とある。小赤についてきたのだ。金魚までもが得体のしれないウィルスにおびやかされる時代なのか。レスキューして2晩目、デカは絶命した。ついに、50年の池の金魚は途絶えたのだ。
いや、でも、池には小赤が1匹残っているのだ。いかにもさみしそうに、ときどき姿を見せてはじっとしている。おまえもヘルペスか、まだ頑張れるか? 梅雨空の下で話しかけ、こんな大変なこと、もう続けられないと思いながらも、仙台ネイティブの意地が頭をもたげる。どうしようか、この池。