30年来の話

大野晋

とうとう、新しいカメラの予約注文を入れてしまった。しかも、値段が軽自動車や小型車が買えるくらいというとんでもないシロモノ。しかし、長年撮りたかった写真が撮れる可能性があるので、いそいそと支払いをするサンタンを始めている。

今を遡ること30年も前、当時、山の中の学校で、丸々1年中、フィールドワーク三昧をしていた。思い起こせば当時のフィールドワークの先生たちにはとんどもなくお世話になり、また多くの勉強をさせていただいた。

時代としては生態学に関する国際的なプロジェクトが終了し、世界中の学者が物質循環や植生遷移や食物連鎖という問題に一定の理解を得たと考えていた(ように見えた)時代であり、自然保護が声高に叫ばれつつあった時代であり、今ほど一般の人がエコ、エコ言わなかった時代だ。(ちなみにエコロジーは生態学という意味)

フィールドワーカーを志す若者として、自然の中で個々の植物を見ていると面白いことに気づいた。隔離分布をしている植物があり、ある場所にしか生えない植物がある。川岸の土砂崩れをした斜面を見るとカラマツが土砂の動きに応じて、実生から少し大きな木まで段階的に生えている。上高地の湿原で穴掘り(ボーリング)をする(これに類したことは数多くやったけど)と数メートルの堆積物から、焼岳の噴火による火山灰と川底の堆積物と高層湿原の泥炭とがきれいな層になって繰り返していたりする。で、結局のところ、植物は積極的に動かないと思われているけれど、そこにその植物があるということは偶然ではなく、必然であることを知った。

必然的にそこにあるのなら、そこにあるわけを知りたいと思った。地理学的に、生態学的に、歴史学的に、地質学的に、民俗学的に、そこにその植物があり、そこにその植物たちの群落が存在し、それらが集まって林や森や草原が形作られている。そこにあるわけを知ることで、なぜ、それらが形成されたかを知ることができるとともに、どうすればそれが作れるのかを知ることができると思った。
ということで、若輩者は探求する生活を選ぼうと思ったが、残念ながら様々な理由から断念し、その後、生活の中で戻るきっかけも失った。少しでも記録を残そうと思ったが、それまでのカメラでは自然は細かすぎて、一眼レフではフィルムでもデジタルでも残せそうになかった。大判が必要だと思ったが、大判カメラを担いで歩くには少なくても一人では難しいと、断念した。
30年を経て、新しいデジタルカメラという機材が得られそうになったことで、少なくとも、森や林や草原を記録できる可能性が生まれた。今はその可能性に面白さを感じている。
ただし、問題は時間がない。自由に歩き、記録するためには、今は時間が足りない。現状の課題は、動けるうちに、いかにして、動く時間が作れる職業に就けるかということに移りつつある。それはまた大きな問題である。人生にはなんとも問題の多いことか。