マーラーにふれて

大野晋

2年間にわたって繰り広げられたエリアフ・インバルと東京都交響楽団とのマーラーツィクルスが3月終了した。実際には10番の演奏が残っているのだけれども、こちらはマーラー自体の残した草稿から後年構成された作品だから、マーラー自身の書いた交響曲の全曲演奏は3月で終了したことになる。このツィクルスを通して、非常に楽曲の見通しの良い演奏だという印章を受けた。時としてマーラーの交響曲の演奏は、混濁したり、情緒的すぎて焦点がぼやけていたりするのだが、楽曲の構成がよく見えてきて、他の作曲家との関係もよく見えてきた。

時として、コルンゴルトとの共通点が聴こえてきたり、ショスタコーヴィチとの共通点が聴こえてきた。ロマン派の流れはマーラーでひとつの結晶を迎え、大戦の中で北米大陸に渡り、映画音楽の中に流れ込んだ。一方で、ロシアでは、ショスタコーヴィチが新しい流れの中に取り込んでいったのだろう。そういえば、ショスタコーヴィチの第4番の作曲では、マーラーの楽曲に対する研究の跡が見られるのだそうだ。音楽は芸術運動の枠の中で位置づけられて、その枠組みが語られるが、一方で単独で存在するわけではないのだろう。

某雑誌の解説記事の中で作曲家の吉松は、クラシックの役割は終わったと書いたが、おそらく終わったのではなく、形を変えながら脈々と続いているように感じられてならない。オーケストラの楽曲は、映画音楽にとどまらず、ロックやポップスの中にも入りこみながら渾然一体となりなっている。

ロンドンのオーケストラは、クラシックの作曲家と同様に映画音楽やサンダーバードのようなテレビドラマの楽曲も演奏する。それが英国の音楽の連続的な流れだからなのだろうが、であるとすれば、日本の音楽シーンにおいても、クラシックが特別なのではなく、多くの音楽とのつながりの中で音楽全体が語られるべきなのではないだろ
うか? などと、考え込んでしまった。

マーラーの楽曲はある意味で分かりやすく、ある意味で哲学に没頭させる波動を有しているのかもしれない。