日常

大野晋

さて、原稿を書こうと水牛だよりを読んでいたら、シアターイワトが計画停電中も予定通りに公演するというのを読んだ。ふと、思ったのは、停電中の時間を選んで、暗闇の中で、闇をたしなむような公演の方がむしろふさわしいような気がした。残念ながら神楽坂は停電しないけれども。実際には消防法などの問題はありそうだが、電気という当たり前のように使っていたモノと現代社会からは遠くなってしまった闇をテーマに何かを考えるのもこの機会には必要だと思う。

計画停電はわが地域にもやってきた。いつもよりかなりきつい満員の電車で帰ってきたら、駅から先は真っ暗になっていた。その真っ暗な中を歩きながら、むしろ懐かしい暗闇に「こんばんは」を言ってみた。

ふとある春の日、まだ周囲の山々に雪が残る頃、都会育ちの私は山国の街の学校に通うために駅から降りた頃を思い出した。ひとりぐらしの希望と不安とを感じながら歩く夕方の街は家々の中から生活の音がして、当時も私には面白く感じた。今では、ほの暗い街の夜歩きは趣味のようになっているが、停電で消えた街を歩いているとその感覚が戻ってきて、明るすぎる都会の明かりをかえって疎ましくも感じられるのだった。

当時、真っ暗な街の中で仰ぎ見た満天の星空。プラネタリウムの中だけの夢物語だと思っていた流れ星が実際に一晩に何回も走ることを知った驚き。または、高山の頂上に暮らしたときに見た下界の遠い街のはためく明かりたち。寝転がってみた満点の天の川の中を人工衛星の明かりを見つけたときの感動。そういったものを思い出しながら、この闇も忘れられないかもしれないとふと思う。

節電のためと、いろいろなところで照明を落としているが、私にはむしろ、今の明かりの方が生活にはふさわしいように感じてならない。昼のように明るい夜の都会はかえって生活には不要なものばかりなのかもしれない。なにせ、実際に大都会を離れれば、そういった気持ちのいい闇が世の中にはあり、それと対照的な暖かい生活がある。いや、むしろ、そうした生活が途絶した部分が大都会だから、満たされない魂のために、不必要な明かりが欲しいと思うのかもしれない。

今月は被災地へのお見舞いの言葉が多いのだろうけれども、本当にいくつの言葉を紡いでも、大災害の当事者への気持ちには足りないように思う。なので、一言。一日も早く日常に戻られることを祈念しておりますとだけ書いておこう。

どんなに大変なことでも、どんなに悲しいことでも、やがて生活していれば日常に変る。もう、もとの日常に戻ることはないのだろうけれども、違う日常が待っていて、そこで暮らしていくことになる。できれば、その新しい日常で、また楽しいことやうれしいこと、悲しいことすらも、新しい生活として楽しみにしたいと思う。

ないということは白いキャンバスに新しい画が描けると言うことでもある。決して真っ暗闇なのではない。いや、真っ暗もまた新しい発見と暖かい人間の営みがあって楽しいのだ。