著作権のことなど

大野晋

ときどき、楽しみに見ているものがある。
それは青空文庫のアクセスランキングである。そんな話を以前も書いたような気がするが、今年の冬もアクセスランキングをのぞくと新見南吉の「手袋を買いに」が上位にランクしている。有名な童話のせいもあるが、親の世代が子供に読み聞かせるのに最適な童話だと思うので、そうしたことがアクセスが増える原因だろう。まあ、物語としては「ごん狐」の方がよくできているのだろうけれど。

相変わらず、夏目漱石がランク上位にあるなど、多少の変動があっても変わらないランキングだが、ときどき、何の因果か大きく変動することがある。それが見えるのが青空文庫のブログにある変動ランキングである。新聞に出たり、雑誌に出たり、テレビで取り上げられたりするとこのランキング上で変動が見えることになる。

それでも、大抵の収録作品のランキングは大きく変わらない。もう春だというのに、桜が満開だというのに、チェーホフの「桜の園」がトップ10に入ることはない。著作物の人気にそれほどの大きな変化は現れないというのが、長年、青空文庫のランキングを見てきた感想だ。きのうまで売れなかった本は急に明日売れるということは’まず’ない!

さて、ほとんどの著作物は現在の価値以上の価値を生み出すことはない。
そして、近代の著作権法が考えだされた200年前よりも我々は多くのコンテンツを持っているが、それら全てが有効に利用されているとは言えないという現状がある。TPPを機会に著作権の保護期間や非親告罪化について取り上げられる機会も増えたが、著作権自体について考える機会が増えたかと言えばそうでもない気がしている。

そもそも、著作権は著作物に対して付与された財産権である。そして、ほとんどの著作物にとって、その価値は生み出された時から徐々に減じていく傾向がある。無償で生まれたものは無償以上の価値を生み出すことは難しい。また、有償で生まれた著作物であったとしても、急激に価値が下がり、無償に近い状態になることがほとんどだ。
「書籍は割に合わない」と称した著述家がいたが、初版の冊数や書店の店頭に置かれる期間を考えるととても著述だけで生計を立てるなど、現代の日本では考えにくい状況になってきているのだろう。本当に、絶版や版切れになった著作物に価値があるのだろうか?

一方で、コンテンツの流通に関するコストはインターネットの普及で急速に下がった。インターネットができる以前であれば、青空文庫のような著作権保護期間の切れたコンテンツを無償で公開するなどという行為はまずできなかった。まあ、だから、出版が業として、コンテンツ(文化)の流通を支配できたのだけれども。

もうひとつ考えるべきなのは、著作物自体が残りやすいということだ。文章でも、音楽でも、一度、公開されたものは低コストで残り続ける。最近のデジタル技術ではコンテンツの類似性などもすぐに比較できてしまうために、類似著作物は作りにくくなってしまっている。

ただし、コンテンツひとつひとつの由来を考えると、全くのオリジナルということはまず、あり得ない。文書自体も、誰かの文体を下敷きにした上で新たな表現に変化させている。これが音楽になるととんでもないことになり、リズムも、メロディも完全なオリジナルというのは考えにくいし、そもそも、誰かのオリジナルを真似して勉強しない限り、絵や音楽などの腕が上がるとも思えない。要は、文化そのものが誰か先人の著作物の上に構築されているのだ。ところが、コンテンツの類似性を著作権の中で論じ始めると、類似物の排除ということが始まるらしい。しかし、模倣を排除した社会には、それ以上の発展は期待できない。

そういう意味で、これからの著作権は、現状の価値で利用を考える必要があり、また、文化との兼ね合いで排他的な権利を制限する必要があるということを考えていく必要があるように感じている。

1887年、ビクトル・ユゴーらの議論から近代的な国際的な著作権条約のベルヌ条約が生まれた。
ここ数年で大きな環境変化が起き、著作権をめぐる状況も変化した。
そろそろ、根本的な議論を始めてもいいような気がしている。