ある日のできごと

大野晋

その日、最初の小編成のモーツアルトが全ての予兆だったのかもしれない。痩身で長身の指揮者はオレグ・カエターニ。かのイゴール・マルケヴィッチの子供とのことだが、紡ぎだすモーツアルトはとてつもなくリリックであった。金曜の久々のコンサートはいかにも古めかしい上野の杜の文化会館。最新の、といってもすでに一回目の改修を迎えたサントリーホールよりも、ずっと古さを感じるコンクリートのホールは響きの面でもいささか癖がある。しかし、その癖にマッチするかのようなプロコフィエフのピアノ・コンチェルトとショスタコビッチのシンフォニーが今晩の癖のあるメインディッシュである。

いや、予兆はすでに会場に入る時点であったのかもしれない。いつもは十数人くらいしか並ぶことのない当日券売り場が長蛇の列。先週の日曜日の同じ指揮者の公演が評判がよかったからかなあ、位にしか考えなかったが、今となったらあのときから始まっていたのかもしれない。いや、もっと考えてみれば、いつもコンサートの最初に、一番最後に出てきて、挨拶をするコンサートマスターがとっとと定位置に座った時点で、何か起きるな!と感じるべきだったか。

リリックなモーツアルトのシンフォニー第29番K.201で少し高揚した後、指揮者とともに登場したのはカティア・スカナヴィというギリシア系のロシア人。なぜ、ギリシアとロシアが関係しているのかよく理解できないが、長いけれども装飾のないスカートが印象的。

東京文化会館の大ホールでピアノを聴く際には、演奏者のタッチによると舞台下からピアノ下面の汚い音がダイレクトに会場に出てきて、おんおんと曇った反響音しかしない(特に前方の席では)困った傾向がある。さて、今回はどうしたものだろうかと思っていると、プロコフィエフの3番のピアノコンチェルトの最初のピアノの音が力強いタッチで、ピンッと出た。どちらかといえば、硬質なインパクトの強いタッチが似合うだろうと思うこのコンチェルトに良くあった音で、なかなかの演奏が硬質な反響をする文化会館に響き渡る。

演奏後、アンコールで演奏したのが、プロコフィエフとは対照的なリリックなショパンのノクターンで、「私はこんな演奏もできるのよ」とスカナヴィさんに切り返された感じがした。後日、あちこちの演奏会の感想を読んでいて「もし自分の知り合いの女の人に、目の前でこんなふうに弾かれたら、一発で恋に落ちます。そういう演奏だった。」という表現をしているのを見かけたが、まさにそんな感じの演奏だった。もちろん、休憩時間にロビーに置かれた彼女のCDが恋に落ちたおじ様たちに求められて、とっとと売れ切れてしまったことは想像に難くない。

休憩後は一転、非常に厳しいショスタコーヴィッチ。交響曲の6番は大作の5番と7番に挟まれた微妙な位置にある曲で、演奏機会こそそれらメジャー曲ほどは多くはないが、学生時代の酔狂で、プロコフィエフとともに全曲聴きこんだ私には非常におなじみのひとつ。譜面台が取り除かれた指揮台から、暗譜で、指揮者が音量、テンポ、キュー出しなどをてきぱきとこなす様子を見ていて、なるほど、これならコンサートマスターの仕事は少ないわなあ。と変なところを感心する。いや、それにしてもおみごとなシンフォニーでした。

ちなみに、この文章が掲載される頃は遠く北の都にいるはずだ。今年三度目、チェコのマエストロ エリシュカの指揮では二度目のスメタナ「わが祖国」を聴きに、札幌・キタラに。さて、どのような演奏を聴かせてくれるのだろうか? 非常にわくわくとしている。