実演と再生

大野晋

なんとかの秋というが、夏と比べると夜の時間が延びることと、比較的すごしやすい気温になってくることなどから、芸術の秋などと言われ、秋の夜長に音楽などを聴きたくなる季節である。

さて、数年前から女性漫画の世界から飛び出してヒットし、少なからず、クラシック界のファンの獲得に寄与したとされる「のだめカンタービレ」がいよいよ最終回を迎える。とかく、取り付きにくいクラシックの音楽の世界に多くの若者を引き込んだ功績は大きいと思うのとともに、なくなってしまうと大きな看板が外れた感じがして、今後の人気にかげりが早々に現れるのではないか?と心配になってくる。

比較的古いオールドファンの中には、録音マニアのような者もおり、SP盤、ドーナツ盤の昔から録音された音楽に対して、昔から、ああでもない、こうでもないと難癖をつけている。古くはあらえびす、こと野村胡堂からみゃくみゃくと続く批評家のオンパレードがある。海の向こうの見たこともない音楽家の演奏を知る機会は、当時、録音しかなかったとはいえ、こうした批評の結果がクラシック音楽全体の指向を方向付けていた面もあったのではないだろうか。ある意味、取り付きにくいクラシック音楽のイメージは、こうした録音主義の批評家とファンが作ってきた側面もあるのだろう。機会が少ないと言う前提なのだから自然とパフォーマンスは再生を前提としたカチカチの完ぺき主義になっていく。しかも、何度も同じ演奏を聴き込む録音愛好家は繰り返しの中に完璧を求めようとする。

近年、世界はどんどん狭くなり、人と人との行き来は煩雑さを増している。一昔前であれば、一部のマニア(当時は専門家とか批評家と呼ばれたのだろう)しか、見聞きできなかった大物が毎年のように来日するようになり、日本の若手が欧米の著名なコンテストで賞を取ってくる。

少し間違えば、海外の録音だってタイムラグなしに、もしかすると本国よりも早く入手できたりするし、ネット配信により現地の人たちと同じ情報を極東の島国でも得ることができるようになった。しかし、気分だけは、なんとなく、舶来品に興味があり、なんとなく海外は上、国内は下なんておかしな区分をする人が生き残っている。

そんなわけだけど、よく聴いていけば、海外だってそりゃ、レベルがいろいろとあり、日本の演奏家だって決して負けていないのだ。色眼鏡で見なければ、旅費がかからない分、国内の演奏家の方がきっぷの金額以上に演奏のリターンは大きかったりするのだと思う。あとは、きちんと演奏を聴きにくるという習慣が根付くだけだが、現状は演奏は録音で、実演は珍しいものをといった傾向が、舶来演奏家偏重の聴衆というスタイルにつながっているように思えてならない。そこに、演奏の優劣があるのではなく、単純に得られる機会に対する聴衆の損得感覚があるにすぎない。

さて、何枚あるかわからないCD(実演はいいなどと言いながらたーんと持っているところが非常に矛盾を感じないでもないが)から目に付いたアンサンブル・アントネッロの「薔薇の中の薔薇」聖母マリアのカンティガ集を聴くような聴いていないような状態で流してみる。中東の香りがする中世スペインの音楽に遠く遥かな場所と時間に思いを馳せる。いやいや、ぜんぜん、日本の演奏者だって尖がっている。

私には、日本の音楽、特にクラシック音楽界に必要なのは、お金を払ってでも行ってみたい機会の創造のように思う。そのためには、演奏家の自己満足(でもいい機会はいいのだ。収入を気にせず、ただ、集まった者が自らの楽しさを追求する機会が、実は聴衆にとっても楽しいということはよくあることだから)に陥らず、しっかりとした機会創造、価値を届ける相手に対する付加価値の創造を心がけるだけで十分に企画自体が楽しくなるはずだし、それは決して大衆に迎合する事にはならないように思う。

実演と再生とを比較すると、二度と同じことが起きないという事実から、実は実演のほうが何倍も面白い。そのことを少しでも伝える機会が多ければ、と願っている。

さて、そろそろ、日本のオーケストラは、来年の4月からのシーズンのラインナップの発表が行われる時期である。できれば、意図のあるオールドファンも、新しいファンも、一見さんすらも驚くような見るからに楽しいわくわくするプログラムが発表されることを望みたいと思う。