しもた屋之噺(178)

杉山洋一

道玄坂を自転車で下ると、機動隊の車が連なっています。物々しく何かと思うと、今日はハローウィンだからだと教えてもらいました。10月末に東京にいるのは何年ぶりか思い出せませんが、着実に日本の現実から乖離してきた自分を感じました。クリスマスもヴァレンタインも日本とどう関りがあるのかと不思議に思っていましたが、ハローウィンに至っては流行すら知りませんでした。小学生のころ、米軍座間キャンプでハローウィンに連れて行ってもらい、見ず知らずの家に出かけてはお菓子を貰う行為が子供心に理不尽だったこと、どれも派手なパステル色をしたお菓子はどれも口には合わず困った記憶が蘇ってきました。

 10月某日 ミラノ行車中
朝5時40分に目覚ましをかけると、その時刻直前に目が覚める。寝静まった朝、こちらも静かにシャワーを浴びて荷物を息子が小学生低学年の時に使っていた初代ランドセルにつめ、そっと家を出る。見かけが悪いので彼は使わないが、ここ数年どんなに重たい荷物を入れ仕事場と往来しても未だに壊れない優れもの。
自転車をサンタゴスティーノ地下鉄口に留め、中央駅まで緑線に乗るのが一番早い。9月はこうして3週間レッジョエミリアの劇場と毎日行き来したし、今日はボローニャ国立音楽院で二日目の授業。中央駅では決まって野菜ジュースを頼み、店の妙齢に生姜も入れるよう頼む。車内で仕事をしていると瞬く間にボローニャ中央駅に着く。所要時間1時間2分。
国立音楽院は市立劇場のあるレスピーギ広場を右に折れ、1本目を左に入ったところにあって、徒歩15分くらい。授業が9時から12時までだから、8時40分くらいにはレスピーギ広場の喫茶店で朝食を摂る。

ボローニャは若者の街、大学の街。行き交う人々はみな若く、活気に溢れる。古くから先進的なヨーロッパの文化都市として発展してきた。音楽にしてもしかり。チェロが独奏楽器として成立したのは、ボローニャ楽派のチェリスト兼作曲家の一群がいたから。バッハのチェロ組曲もボローニャで職にあぶれた彼らが各地へ流浪しなければ生まれなかった。若いモーツァルトがイタリアを目指した理由の一つは、ボローニャのマルティーニ神父に作曲を習いたかったから。彼がボローニャに着いた日は、ちょうど息子の誕生日と同じなのでよく覚えている。

そんなことを思いつつ音楽院の薄暗いへろへろの階段を昇ると、目の前にマルティーニ神父の像が立つ。フランシスコ会神父だった彼は授業料を受取らなかったので、イタリアのみならずヨーロッパ各地からの来訪者は、彼に無数の貴重な本を寄贈し、彼の周りには益々ヨーロッパ中の叡智が集まり、図書館の蔵書はヨーロッパ随一と呼ばれた。

大学院課程の作曲科生を対象とした、自作を振り自ら稽古をつけるちょっとした指揮講座。イランからの留学生ぺドラムは不思議な音楽感覚。カラブリア生まれのマリアステッラは優等生。子規の「汽車道に低く雁飛ぶ月夜哉」を歌詞に選んだ。
「この句は楽しく明るい印象なのですが、間違いありませんよね」、と尋ねられ、咄嗟に答えられない。楽しいとかそうでないとか、そういうものかいと答えに窮す。雁はガチョウと伊訳されていて、生物学的には間違いではないのだろうが、我々が、「汽車道に低くガチョウ飛ぶ月夜哉」と詠まれてもどうにも雰囲気がでない。その上、「ここは沢山のガチョウが騒がしく愉しげに啼いているところ。があがあ」と歌う箇所まである。
マッテオの新曲は、少しイタリア未来派の音響詩のよう。マリネッティ風。

 10月某日 ミラノ自宅
日本で育児休暇や産前産後休暇の問題が取り沙汰されて久しい。欧米ではこれら休暇がタブーではないのに、日本ではどうして定着しないのか、という論調が一般的かと思う。うちの大学では、7月秋の試験日程の調整をする大事な時期に、それまでまめまめしく日程調整をこなしてきたマウラが産休に入り、9月それらを片づけなければならない時期に、音楽院長に次ぐ役職の総括部長を長年務めたエウジェニアが、両親の介護のため無期限で休暇に入ってしまった。

当然、学校の機能は麻痺し、学内の試験も入試日程も混乱しただけでなく、当然今年の授業日程の采配すらままならない。学院長のアンドレア始め、事務局の女性陣揃ってこの処不機嫌で、とても声を掛けられたものではない。怖いので、そろそろと事務局の前を通り過ぎようとすると、中から大声で「ヨーイチ!」と声がかかる。
厄介で複雑な契約書が複数、それも幾つもの学部にまたがって必要なのに、日程すら決まらず、よって正確な時間数すら判らず、みな憤りのやり口がない。学院長秘書のシルヴァーナは契約書を作らなければいけないので、傍らにいるクラシック学部長のホセや作曲現代音楽部長秘書のカティアに、ヨーイチの時間数や日程がなぜまだ決まらないのかと声を上げ、対する彼らも、学校がこんなに混乱しているからいけないと応戦する。何しろ授業の開始日まであと3日だというのに、学生たちに授業の日程が伝えられないのだから堪らない。目の前でのやり取りに何とも居たたまれない心地になる。

もしかしたら、「何でこんな時に彼女たちは休暇を取るのかしら」、と喉元まで出かかっているのかも知れない。でも皆それは言わない。彼女たちの休暇は、正しい権利として認められている。自分も生まれてくるとき、母親は仕事を休んだかもしれない。両親が年老いたら介護しなければいけないかも知れない。当然だと誰もが思っている。
日本の論調では、推奨している休暇の結果会社に負担はないような、非現実的な書き方がされているが、少なくともイタリアではそんなことはない。休まれた側はとても苦労するけれど、迷惑とは捉えずに、単に大変だと割り切っている。「solidarietà」互助の精神。日本は迷惑を極端に恐れる、良くも悪くも慮る社会構造。

 10月某日 ミラノ自宅
家人が三宅榛名さんの「北緯43度のタンゴ」を練習している。今度息子と一緒に出演する日伊国交正常化150周年の演奏会で弾くとか。題名の北緯43度は札幌のことだとか。ミラノは北緯45度だからほぼ同緯度という繋がり。息子は中学校でフルートを始めた。下からドレミファソと5つ音が出るようになって、まず一人で吹き始めたのは、「火の鳥」のフィナーレの有名なホルンの旋律。もちろん調性は全然違うのだけれど、よほどあの旋律が吹きたかったのだろう。

机に向かって仕事をしていると、何度となく傍らに来てはぽうぽう吹いてこれは何の音かと尋ねる。それがいつもどうともつかぬ音程で、一々ラの音と比較しなければ良く分からない。最初のチューニングも未だ出来ない上に音程も取れなければ、不思議なくらい判別不明の音が出る。これはこれで興味深い事実の発見ではあるのだが、こちらもそれどころではないので、痺れを切らし、息子を連れて電子チューナーを買いに出かけ、ついでに古書の楽譜で何か面白いものはないか物色し、カセルラ校訂のショパンのバラード1番と夜想曲集の楽譜を購う。併せて10ユーロ。

特にバラード1番は、冒頭4小節目のルバートは自分なら2拍と3拍を16分音符のように演奏して4分の3拍子にするとか、13小節目はパデレフスキが右手の変二音を二音で弾くのを不思議に思って或る時問いただすと、原典版を単にパデレフスキが勘違いしていたとか、愉快な雑学が事細かに書き込んであって、読むだけで得をした気分になる。昔は誰でもこのような説明に想像を逞しくしつつ、紙媒体を通じて伝統を受け継いでくることが殆どだったろう。
興味深いのは、カセルラが校訂した当時、ショパンが解決を遅らせた倚音など、一時的に不協和音になる部分を、印刷ミスと勘違いして音を変えて演奏する習慣があったらしいことだ。7小節目右手親指の変ホ音を、ブルニョーリ版などは「怖ろしいこと」に二音に直してしまっているが、カセルラは、これらの一時的な不協和音程こそが音楽の美しさを際立たせているのだから、絶対に直して弾いてはならない、と強い口調で忠告している。今は先に音源を聴いてそれを真似するから、情報こそ正確かもしれないが想像力も理解力の深さも、当時より劣っているのかも知れない。

リヤ・デ・バルベーリスのインタヴューを見る。彼女は南イタリアはプーリアの端、レッチェの生まれで、スカルラッティの校訂で有名なナポリのロンゴにピアノを習い、37年から47年までローマやシエナでカセルラのもとで研鑽を積んだこと。初めてカセルラにピアノを聴いてもらった際、彼はほとんど何も話さず、物静かで怖かったこと。ローマで学校に入学するまでは、自宅で無償でレッスンをしてもらっていたこと。カセルラは厳格で完璧主義者だったこと。カセルラの没後、パリでマルグリット・ロンに習ったことなどを、人懐こい南訛りでよく話す。指揮者になりたかったが、フランコ・フェッラーラから女には無理な職業と言われ泣く泣く諦めたこと。

彼女曰く、カセルラも決して裕福な家の出身ではなく、チェリストの父とピアニストの母のもとで育ち、11歳くらいまでには音楽を志すようになったという。才能を見込んで13歳で私財を売り払って家族でパリに引っ越し、パリ音楽院に入学し、まずルイ・ディエメのもとでピアノを学び、続きフォーレのもとで作曲を学んだ。ディエメはコルトーやイヴ・ナットの師であり、サラサーテの伴奏者だった。フォーレのクラスの同級生にはラヴェルやケックラン、エネスクらがおり、後にはドビュッシーと親しくなり、ともに4手ピアノをしばしば演奏したという。
インタヴューでカセルラの生涯が辿られたのはそのあたりまで。その後のさまざまな政治的な関わりについては触れなかった。

面白いのは、ディエメの師はアントワーヌ・マルモンテル、マルモンテルの師はピエール・ジメルマン、ジメルマンの師はフランソワ=アドリアン・ボワエルデュー。ボワエルデューのピアノと作曲の師は、ボローニャのマルティーニ神父になること。
バルベーリスがカセルラの没後教えを乞うたマルグリット・ロンは、カセルラの師であるルイ・ディエメの死後、後任としてパリ音楽院の教授となっている。

 10月某日 ミラノ自宅
週末息子が弾くカセルラの「子供のための小品」を聴きに、仕事を中断し雨天自転車を飛ばす。とても気持ちよさそうに弾いていて、堂々たるもの。幼少期の自分に容貌こそ似ているが性格のまるで違う息子を、何とも不思議な心地で眺める。ここ暫く彼のガールフレンド騒動が続いていて、家では謹慎中の身。

ミラノの授業、新年度が始まる。学校全体が混沌としている。指揮クラス初回。今年の新入生の一人にEがいて、生まれてすぐにルーマニアのジプシーの家庭からイタリア人家庭に里子に出された、と入試で話してくれた。ヴェルディオーケストラの合唱団で歌っているという。なかなか音楽的で面白い。バルトークなどやらせると「さて自分のルーマニア人の血が試される」などと真面目ともつかぬことを言うが、筋は良い。音楽は楽譜より、耳から入る気質と見える。明るくよく喋る。確かに血は争えない感。

唐の時代の面影が残っていると言われる、雲南省納西族の洞経音楽を、繰り返し聴く。この文革後に再編された儒教音楽などの混交音楽を、台湾などの儒教音楽を思い出しながら聴く。一つの旋律に対するさまざまな装飾を耳で追いつつ、いにしえの日本の雅楽の姿に思いを馳せる。

野平さんの楽譜を眺めていて、彼は本当に音符を書く瞬間に喜びを感じていると思う。無邪気とさえ感じられるほど、純粋な音への喜びが伝わってくる。頭をよぎるのは、「牧神の午後への前奏曲」や「海」、「遊戯」などさまざまなドビュッシーの譜面なのは何故だろう。どう書かなければという強迫観は皆無で、書くのが楽しいという肯定感、充足感に満ちている。ラヴェルの譜面があまり浮かばない。ドビュッシーの一見整然としているが、表面は全くそうではなくて、然しながら内面はとても太く重厚な、ともすればワーグナーのように歌が連綿と繋がっているあたりも、似ている。

 10月某日 ミラノ自宅
ボローニャ市立劇場でカザーレ「チョムスキーとの対話」のリハーサルが始まる。久しぶりにエマヌエレに会って、カバンからスコアを取り出すと、「Vedo che la partitura e’ sufficientemente logorata, che’ mi fa piacere!」、訳せば「おい、好い塩梅に楽譜が擦り切れているじゃないか、こいつぁ嬉しい」、とまるでマフィアの挨拶のようなシチリア訛りの台詞を呟くので、思わず笑ってしまった。logorataなんて勿体ぶった言い方は、ミラノでついぞお目にかかったことがない。

練習の最初、暫くぶりですっかり風格が出た監督補佐のフルヴィオが「漸くだなあ。お帰り」と声を掛けてくれる。見ればオーケストラにも懐かしい顔が並んでいて、胸が一杯になる。ドナトーニの演奏会以来だが、あの時よりオーケストラの音はすっかり瑞々しくなって、新鮮で情熱的な印象。練習が終わって駅に飛んでゆき、最初の特急でミラノに戻り、「作曲家の個展」の譜読みを続ける。車中一時間は昏々と眠りこけ、家について巨大なスコアを広げる。楽譜のサイズが大きすぎて電車の机には到底載らない。

 10月某日 ミラノ自宅
先月、レッジョエミリアの本番の日にダイヤがすっかり乱れて慌てふためいたので、練習の2時間前にはボローニャに着くように家を出る。特急ホームの上に、広い吹き通しの空間があって人も少ない。ここの喫茶店なら1時間半以上机を使っていても文句は言われないし、音楽もかかっていないので、ここでぎりぎりまで来週の譜読みをし、バナナを齧りつつ走って劇場に向かう。道を行き交う人々からは奇異の目。
それでも譜読みが間に合わない。我ながら譜読みが本当に遅くて自己嫌悪に陥りそうになる。有難いのはボローニャでのリハーサルが順調に進んでいることで、午後のリハーサルは彼らの希望を叶えて已めることとし、これ幸いとミラノへとんぼ帰り。夜明け前まで譜読みを続け、朝6時40分には自転車に乗って地下鉄駅まで。特急に乗っている間は熟睡し、云々。
こんな毎日では体が持たない。劇場のオーケストラが練習を減らすべく必死に集中してくれて、心より感謝するばかり。こういうのを利害の一致というのか。ぼやけた頭でそんなことを思う。

 10月某日 ミラノ自宅
1日目本番を終えて帰宅。午後のリハーサルを終えて、早速軽く食事をし、本番まで控室のベンチにクッションを敷いて昏々と寝込む。ディアナが隣の控室で声を出し始めて、ようやく目が覚めた。
エマヌエレの「チョムスキーとの対話」第2版は、5年前にレッジョエミリアで初演した第1版とは全く違うコンセプトで、それでも6割方は近しい素材で作曲されている。随分違って驚いたが、前回よりずっと具体的で強く芯のある内容となっている。
前回3人の俳優が登場した部分は、チョムスキー自身ののヴィデオを使って、言語学、経済学などに於ける、有名な彼の言葉に直接同期するよう音楽がつけられている。ヴィデオには、レーガンやブッシュ、ピノシェ、サッチャーやベルルスコーニなどの国会中継、記者会見などの映像も挟み込まれる。終演後久しぶりに二コラに会う。3年越しで実現した演目に、彼も作曲者もすっかり満足していて、漸く溜飲が下がる。
先日ボローニャの音楽院で教えた生徒たちも終演後控室を訪れてくれる。「最初から最後までもう興奮しっぱなしで、先生もう何だか凄かったです!」上気した顔で言われると、何だかこちらもロックミュージシャンになった気分。

 10月某日 ミラノ自宅
ボローニャ本番二日目。今日は全国交通機関ゼネスト中。それでも国鉄の特急は走ることになっているが、ダイヤが乱れることを考えて、学校から帰宅した息子と家人と連立ち、随分余裕を持って家を出る。思いの外早くにボローニャに辿り着けたので、日野原さんの新作を音楽博物館で聴く。彼が藤富保男の絵本「やさいたちのうた」につけた1時間弱の作品を、ソプラノの薬師寺典子さんとファエンツァの5人の演奏家が奏でた。日本歌曲で言葉も旋律もこれほど自然で美しく、音の美しさの際立つ作品は久しぶりに聴いた気がする。イタリアオペラに精通した日野原さんらしいユーモアやエッセンスに溢れる。薬師寺さんの歌も素晴らしく、家人と息子と三人揃って、こちらも本番前だと言うのにすっかり魅了されてしまった。
もう随分前になるが、ヴェローナの劇場で、メルキオーレの「碁の名人」に演奏した時の主人公、バリトンのマウリツィオと久しぶりに再会。お互い老けたと笑う。

公演直前、劇場近くの喫茶店で軽食を摂っていると、ルイジ・アッバーテが通りかかって話込む。彼もカザーレを聴きに来る途中だったそうで、その上丁度彼の誕生日だった。
息子は日野原さんの美しい歌曲に聴き入ったからか、大音量が続くプログレッシブロックのよろしい「チョムスキー」の公演中、半分くらい寝込んでいたとかで愕く。
帰りしな、劇場のあちこちで「本当に素晴らしかったですと」はにかんだ声を掛けられると、こちらも少し気恥ずかしい。ミラノ行特急終電の時間まで、いつもの吹き通しの喫茶店の机で譜読みを続ける。
今日の演奏は全く文句の付けどころのないもので、歌手もオーケストラも見事な集中力を見せた。息子は珍しく夜更かしして興奮状態。電車に乗り込んだ途端に眠り込んだ。

 10月某日 三軒茶屋自宅
朝、支度をして家を出て、カドルナ駅でマルペンサ空港行き列車に乗り込むところで、家人より電話。「厳しい父親が居なくなって寂しいってあの子ったら泣いているのよ。一寸電話で話してやってくれる」。
大森さんから今度の「作曲家の個展」にメッセージを書いて頂戴と頼まれて、野平・西村作品をカツカレーに譬えたので、成田に着くとカツカレーを食べなければいけない気がしてレストランへ赴く。形状のある野平さんはトンカツ部分。アジアの薫り高い液体部分は西村先生。ええと、協奏曲はどんなだったか、そう思う間もなく、瞬く間に食べ終わる。
家について早速スコアを引っ張り出すと、紙きれが一枚するりと落ちた。何かと思って開いてみると、黄色い蛍光ペンで「がんばれ Su Forza!」と書いてある。

 10月某日 三軒茶屋自宅
久しぶりの都響との練習場に着いても、どこまで自分で譜面を読めているのか皆目見当がつかない。時差ボケと寝不足で頭も働いていないのだけれど、こんな困憊した体でも本能的に見えてくるものがあって、面白い。
野平さんの音楽のロマンティックさ。これは楽譜の向こうに初めから見えていたもの。一見易しそうな西村作品の難しさを、オーケストラと自分が最初のリハーサルで把握できて、漸く向こうの地平が見えてくる。表面が複雑なものは、出来るだけ単純化して表現すべきだし、表面が単純なものは、実は複雑な内実を、的確に理解しておかなければいけない。最初のリハーサルでこれだけ見えてきたのは、演奏者一人一人がどれだけ音を読み込んであったかということ。

ところで、野平さんの曲のリハーサルで、独奏ピアノを弾く野平さんに注文をつけるのは妙というか、申し訳ない思い。
オーケストラを野平さんが書いた部分は、ピアノパートを西村先生が書いたので、自分の書いたものではないから当然弾くのが難しい。一方、野平さんがピアノパートを書いて、オーケストラを西村先生が書いたところも、独奏部分をご自分が書いたとは言え1楽章以上にピアノパートは難しく、その上オーケストラパートは西村先生担当だから、ずれるわけにもいかない。ちゃんと西村先生からもリクエストが飛んでくる。ピアニスト兼作曲家は、自虐的な気質があるのかもしれない。
終わってから渋谷のトップに寄り、子供の頃から飲みつけたマンデリンとブラジルのコーヒー豆を挽いてもらう。

 10月某日 三軒茶屋自宅
都響との練習後、上野入谷口の翁庵で天せいろに舌鼓を打つ。旧い店構えの入口で算盤をはじき注文を食券に書き付けているご主人に向かって、中年女性の黄色い声が店に響く。
「おじさん、本当にここ美味しいです。インターネットで皆が美味しいって書いてるから、どうしても食べたくて。本当に美味しい! 記念写真撮って貰っていいですか? 有難うございます!。戸惑いながらも、渡されたスマートフォンでご主人はポーズを取る女性を写真に撮った。そば湯を堪能して外に出ると、目の前には店構えを写真に収める中年男性がいて、こういうリクエストには、きっとご主人も慣れているに違いないと納得した。

夜、暫く顔を出していなかった割烹に足を向けると、勝手が違っていて驚く。女亭主がこちらの顔も覚えていなかったのは仕方がないが、常連客が静かに徳利を空けていた以前と違って、隣の一団は幹事が大声で場を盛り上げ騒ぎ立て、それが漸く去ったかと思うと今度は、大学生6人組がやってきて、酔った勢いで嫌がる後輩の頬にタバコの火を押し付け、タバコを吸わせようとしたり、酒を呑ませたりと散々で、居たたまれなくなって席を立った。同席の友人がいなければその場で怒鳴っていたに違いないが、勘定を払うときに店員にあれでは危ないと言うに留める。聞けばこの店がテレビで紹介されるようになって、客も増えたが客層も変わったという。

 10月某日 三軒茶屋自宅
「作曲家の個展」のドレスリハーサルのためホールに入ると、録音の高嶋さんがいて再会を喜ぶ。彼とはピサーティの録音やブソッティの録音で本当にお世話になった。ブースには昨年カニーノ宅でご一緒した井坂さんがいらした。まさかカニーノ宅の次にサントリーホールの舞台裏でお目にかかるとは想像もしていなかった。
本番前に野平さんと西村先生が舞台上で、マイクを持って話す。二人の出会いや、共同作業のプロセス。液状管弦楽は委嘱者へのオマージュだとか。果ては気を遣って指揮者まで持ち上げて頂いたりして、申し訳ない思い。
本番最初から最後までとても気持ちよく演奏できたのは、傍らの友重くんがずっとニコニコしてくれていたから。彼が微笑んでいると、みんなも揃って微笑む。でも集中度と熱気だけは火傷しそうなくらい途轍もなく高かった。だから、野平さんの作品は、豊かにのびる開放的な音となったし、特に本番、彼のロマンティックな瞬間を、オーケストラはこちらが何も言わないのに、それはロマンティックに表現してくれた。
西村先生の作品は、スローモーションで飛んでゆく溶岩を眺めているような、燃え滾る流星のような瞬間を、演奏中何度となく感じた。ホールで液状に音を響かせるためには、液状の音を出しては駄目で、ずっと熱く質量の詰まった音でなければならなかった。これもリハーサル一日目からオーケストラと試行錯誤を繰り返して見えてきたことだった。本番の独奏者としての野平さんの集中力と体力には、心から脱帽。

一連の練習の終わりや本番後の空いた時間に、U君にプルソ導入をアドヴァイス。気が付くと、昔エミリオが自分にしてくれたことを、何時しか自分が生徒にやっている。

 10月某日 三軒茶屋自宅
朝、沢井さん宅で「マソカガミ」を聴かせていただく。聴き手へ燦々と振りかかる音ではなく、線香花火を見入るように、七絃琴の響きに囚われる。演奏者の意思を聴き手に伝えるのではなく、沢井さんが自分のためにつま弾く音に聴き手が寄り添い、何かを見出すとき、点と点の間にじっと横たわるのみだった沈黙に無数の風景が鮮やかに浮かび上がり、耳というより、五感全てが音に鋭敏に反応するのがわかる。

(10月30日三軒茶屋にて)