しもた屋之噺(181)

杉山洋一

突然肉が食べられなくなって、10日は経っています。食べられなくはないのですが、食べても美味しくなく、食べたい欲求も生まれません。生まれて初めての体験で、不思議やら驚くやら。但し、魚はこちらでは高価なので、肉が食べられないと厄介です。

1月某日
細川さん「大鴉」譜割り。アランポーのテキストを読むとき、譜面をみながら英語のテキストを見るとよく解る不思議。無駄がなく、効果的に書かれている。フレーズの構造は微妙に不規則で、各楽器がそれぞれのフレーズ構造をもつ。

1月某日
三軒茶屋自宅にて両親と再会。すまし汁に大根のみ、大げさな程たくさん入れた、父方の田舎独特の雑煮を食べる。子供の頃はこれに湯河原の叔父さんが採ってきたハバノリを沢山ふりかけて食べた。
コーヒー豆が切れていて、渋谷のトップでブラジルとマンデリンを挽いてもらい、歩いて帰る。良く晴れた正月休みは国道を通る車もまばらで、246沿いにある池尻の稲荷神社と、中目黒の氷川神社に寄る。元旦でないので並ぶ人も少なく、巫女さんたちものんびり談笑。ふと40年ほど前、自分が子供だったころの風景を思い出す。

1月某日
朝起きてコーヒーを淹れ、卵を焼きヨーグルトをかき込み自転車で荻窪へ出かける。三善先生の仕事部屋のピアノの上には、自筆の桐朋用ピアノ初見課題が置いてある。その傍らに、ラヴェルノートの自筆原稿が重ねてあり、ベルクのピアノソナタを分析した書込みを見せていただく。ピアノの足元には、マルティーノのオーケストラ用五線紙の束。

先生の遺影の傍らには、掌にすっぽり入る可愛らしい地蔵さんが二つ並んでいて、由紀子さんが蒐集したという。先生が軽井沢で作った、小さな模型飛行機が置いてある。居間で宗左近さん作の碧い杯でお屠蘇を頂く。味醂からつくったお屠蘇は、旧めかしく不思議な香り。普段から呑みなれていないからかもしれない。塩茹での長野の海苔豆にとても合う。青梅街道も車が少なく、自転車を漕ぐには心地良い。

1月某日
セーターを買おうと渋谷のデパートへ出かけたが、値も張ればイタリアで買えそうなものばかりで早々に諦め、久しぶりに本屋に足を向ける。本屋をうろつけば、時間を忘れることすら忘れていた。中学高校の頃は、レコード屋で何時間も買えないジャケットばかり眺めて過ごした。好きな本も読まず、会いたい家族や友達に会わない生活とは、何だろう。
思い立ってデパ地下で父親が好きなショートケーキを土産に買い、町田へ出かける。丁度、母親が珍しく買ったアワビが煮付けてあって、納豆と豆腐、蜆の味噌汁を前に、この上ない倖せ。

1月某日
功子先生に久しぶりにお目にかかる。会議で「それが学生のためになるのなら」が三善先生の口癖だったという。現代音楽をやって良かったのは、自筆譜から作曲家の意図を汲み取る訓練になったこと。さまざまなアーティキュレーションの持つ意味を、作曲家とともに読み解くことが、古典における読譜の姿勢に大きく影響したという。
現代音楽をやることで、普通ヴァイオリンニストでは出会う機会のない、声明のお坊さんらと親しく交流するようになってことは、人生に大きな変化をもたらした。小学校6年生くらいの頃、功子先生と一柳慧さんが池袋のコミュ二ティカレッジで演奏して、弟子に作曲を志している男の子、と紹介して下さったそうだが、そのまま話が弾むことはなかったそうだ。

悠治さん、波多野さん、栃尾さんと味とめに集い、鰮鍋を囲みつつ初めてホッピーを嗜む。息子が「蝶々夫人」をやっている話から、悠治さんが若いころ、二期会でピアニストをやった最初の演目が「蝶々夫人」だった話し。マンボウの刺身と書いてあって、久しぶりに食べたくて注文したが、湯通しで締めてあって当然かと独りごちる。ホッピーの前は、氷を浮かべた黒糖焼酎。

1月某日
一柳慧さんがレセプションで現代性、社会性について話された。もうすぐ誕生する新しいアメリカの大統領の名前も挙がる。
一柳さんは常に時代の最先端の技術を作品に採用して来られたでしょう、と川島くんが話していて、成程と思う。一柳さんご自身がハイテクではなくローテク好きだと仰ってらした印象が強く、川島くんのように捉えたことがなかった。時代の最先端、というフレーズから、前に悠治さんから聞いた真木さんの言葉を思い出した。「前衛というバスは既に発車してしまっていて」というあの件だ。
真木さんが1936年、悠治さんは1938年生まれ。それより少し前、1929年生まれの湯浅先生、1930年生まれの武満さん、1931年生まれの松平さん、1933年生まれの一柳さんくらいまでを、真木さんは前衛バスの世代と感じていらしたのだろうか。

1月某日
家人が日本に戻っていて、息子と二人韓国料理屋へ出かける。頼むものはいつも決まって、息子の好物のチュユポックンと、豚肉のグリル。焼きニンニクやトウガラシ、キムチと一緒にレタスで巻いて食べる。ミラノに韓国料理屋は何軒かあるが、この行きつけの店だけ雰囲気が違うのは、調理する小母さんもウェイトレスの妙齢も中国の朝鮮族で、中国人が経営しているからだろう。他の韓国料理屋よりずっと気の置けない雰囲気で、常連客に中国人も多い。朝鮮族は北方だから、これは北朝鮮料理かと尋ねると、延吉料理よと笑われてしまった。

サンチュを頬張っていた息子が突然「戦時中の日本人は良かった」と言うので、思わず聞き返す。すると、「戦争中の日本人は、今より頑張っていた感じがする」、「戦争中、日本、ドイツとイタリアは仲間だったのでしょう」と当然のことのように話すので愕く。理由は「火垂るの墓を見て、戦争中の日本人は頑張っていると思った」とのこと。
韓国料理屋で、出抜けにこんな話をする息子も不思議だが、ともかくそこでは戦後日本人は前轍を踏まないよう努力してきたのだよ、と声を潜めて説明することしか出来なかった。自分も戦争を知らないが、傷痍軍人の姿は目に焼き付いていて戦争の恐怖へ繋がっている。息子に対して、何をどう伝えるのが正しいのか。

1月某日
昨日は朝学校でレッスンをしていると、隣で室内楽のレッスンをしていたマリアが真っ青な顔をして飛び込んできた。「中部で地震よ!今朝もあって、今しがたもう一つ大きな揺れが来て大変。どうしよう。わたしはローマに娘を一人で置いてきたの」。
あれからずっと、マリアは廊下の教員用コンピュータに齧りついて、細かい地震情報に見入っていた。
仕事をしながら、合衆国新大統領就任式の中継を見る。家人は「時代の変わり目だから」と階下で宿題をする息子を呼んだ。非現実的で不思議な心地だが、大統領を選んだのはアメリカ国民なのだと納得させる自分がいる。

1月某日
夕食の肉に当たったのか、酷い胸やけの後、夜半洗面所ですっかり吐く。その音に愕いた隣の犬が吠え立てるのに困ったが、あれから肉を見ると、同じ胸やけを感じるようになってしまった。人体はかくも繊細かしらと呆れつつ、毎日魚を食べる。
ニューヨークの小野さんが、「禁じられた煙」のリンクを貼って下さる。新大統領の人種差別発言と関りがあるかは知らない。この曲を書いたとき、人種差別は時代錯誤だとばかり思い込んでいたが、数年たって間違いだったことに気づいた。

1月某日
27日のホロコースト解放記念日を前にして、息子は中学校で「ライフ・イズ・ビューティフル」を見ている。今まで歴史で習ってきた様々な出来事は、彼の中でまだ順番すら整理されず混沌としていて、白紙に一つの横棒を書いて説明する。

真ん中あたりに0年と書く。キリストの生まれ年。キリスト教徒により、時間が一方方向に流れると規定された年。それまで時間は円を描く存在だったが、個人的にはこちらの方がずっと良い。0年にキリストがユダヤ人に磔刑に処されたと言うと、息子は異を唱える。「でもその後生き返るのだから、殺されたわけではない」。そうかも知れないとも思う。
「何故大戦中、ユダヤ人が沢山殺されたのか」という息子の質問に、「キリストをユダヤ人が殺したから」と応えるのは、さすがに単純化し過ぎで、我ながら情けなくなった。尤も、20年以上住んでも彼らの心の奥底は解らない。彼ら自身も理解しているとは思えない。
イタリアの高校生は、この時期しばしば学校ぐるみでアウシュビッツを訪問する。それに向けて、中学一年の頃からホロコーストについて学んでゆく。しばらく息子はアウシュビッツ収容所の写真を見ていたが、恐くなって手を止めた。日本とイタリアとドイツが同盟を組んでいたのはこの頃だと言うと、息子の顔は少しくぐもった。

1月某日
今井さんの「子供の情景」のため、どうしてもカルロ・ゼッキの校訂版を読みたくて、「音楽倉庫」にクルチ版を買いに走る。指使いやペダル、テンポ指示より寧ろ、各曲にゼッキが印象的なコメントを載せていて、それがどうしても読みたかった。
1961年にプリントされた古本。最初のページの右肩に赤ペンでサインが記されているが、崩れていて名前はわからない。Bruno Panella、のように見える。紙は大分日焼けしているけれど、手触りはとてもよい。昔らしい丁寧な造り。

「昔々、とてもどこか遠い国でのこと…。詩人は彼の幻想的な物語を語りはじめる。ほら、この言葉が幼い子供たちを幻想にいざなう。ほら、すっかりつぶらな瞳を見開いて」(知らない国々)。

「夜。すべてが口を噤んでいる。沈黙と漆黒の深みから、天上の声が立ち昇る。天使の声かしら。いや違う。それは詩人(この情景の目に見えぬ証言者)が、ほんの一時、思索と幻想と夢のまにまに佇み、思い出の、希望の、若かりし日の情熱の世界に迷い込んだのだ。
金の竪琴の上で、感動に突き動かされて、詩人は私たちにささやく。
どんな障壁や苦悩をも打ち砕きながら、私たちは高みを、天上の和音が鳴り響き、至高の精霊が君臨し、すべての懊悩が忘却の彼方へ消えゆく、高峻な絶頂を目指す歩みを、止めたことはなかったと」(トロイメライ)。

「まぶたは、疲れた瞳の上におりてくる。辺りのすべてが口を噤み、ざわめきは小さな部屋の入り口に消えてゆく。終夜灯は、青ざめた光を眠り込んだ小さな顔に投げかける。そこでは、単調な揺り籠の上げるきしみ以外、何も耳にはいらない」。(こどもは眠る)

「考え抜かれ尊い体験に満ちた言葉。
…子供たちよ、君たちの世界は全てが愛と詩だ!君たちは喜びの中にいるんだ。
君たちの年齢が与えてくれる喜びだけを、知っているのだからね…
これらの音符に、男の諦観が満ちているのを聴くようだ。レオパルディの「村の土曜日」の言葉のように。

お前は、愉しむがよかろう。
これは心地よい季節。これは甘美な時間なのだ。
他に何もいうことはない。
お前の集いが遅れたとしても、悪く思わないことだ」(詩人のお話)

誰でも知っている「村の土曜日」最後の4行だけが、とても小さく印刷されている。
土曜日は労苦から解放され、希望と喜びに満ちた最高の時間。それをお前は愉しめばよい。
待望の日曜日になれば、新しい辛苦の憂いに悩まされるのだから。レオパルディは青春を土曜日に喩えた。

インターネットでゼッキのインタビューを聴く。
「1941年の冬のことだった。アルベルト・クルチがこの部屋にやって来たんだ。
当時はエレベーターはなかったがね。それで僕にこう言った。
“失礼だがカルロ、お宅にオリーブ油は足りてるかね”。
“いいや全然だ。うちは油がなくて一週間何も料理していない”。
“そうか。じゃあ子供の情景をやってくれないか。ほら、これがオリーブ油だ”。
“そりゃ凄い!もちろん喜んで引受けるよ!”。
こうやって子供の情景が始まったんだ。

それから2週間後にアルベルトがまたやってきた。
“ああ、どんなにかクライスレリアーナについて知ることが出来たら最高なのになあ!300グラムの小麦粉でどうだい”。
“何と言ってよいか。感謝の至りだよ。僕もうちの女房も君に何とお礼を言ってよいのか解らない!”。
かくしてクライスレリアーナの仕事は無事に終わった。

それから2ヶ月経って、またアルベルトがやってきた。
“カルロ、多分お宅はハムなどなかなか手に入らないのではないかね”。
“ああそうなんだよ、大変なんだ”。僕がそう言うと、
“これはどうだ”と言って、アルベルトは持ってきたトランクを開けたんだ。そこには大きなハムが入っていて、こう言った。
“ダヴィッド同盟はどうかな?”。
“ああアルベルト、何て有難いことだ!”

そんなこんなで、ダヴィッド同盟、クライスレリアーナ、子供の情景、ソナタ、ピアノ協奏曲など、僕のシューマンの校訂版は、貧しかった戦争中の滋養の糧だったというわけさ」。

まるでレッスンのように、一つ一つフレーズごとに書き込まれたゼッキの注意書きを読みながら、「戦争中の日本人は頑張っていた」という息子の言葉を、思いかえす。

(1月30日ミラノにて)