随分寒さも弛んできたと思いきや、ここ数日急にまた冷え込んできました。今月は半ば、家人がテヘランに演奏会に行きバッハやドビュッシーに、悠治さんの「花筐」「アフロアジア風バッハ」などを弾いているころ、こちらは横浜で一柳先生と神奈川フィルのみなさんと演奏会をやっていました。息子を3日ほどメルセデスの家に預けて帰ってくると、何だかすっかり大人びているのに愕きました。半年で6センチくらい背も伸びていますが、そろそろ13歳になろうという年頃、男の子の成長は目覚ましいものがあります。
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1月某日 ミラノ自宅
「水牛で読んだけれど、蕪のパスタの作り方を教えて」とパリのみさとちゃんからメールが届く。茹でた蕪をアンチョビーと大蒜、好みで唐辛子を炒めたものと併せるだけと答えたのだが、どうも話が食い違うので首を傾げていると、傍で見ていた家人が大笑いして、それでは通じるわけがないと言う。確かに蕪に違いないのだが、普通料理に使う部分はcime di rapaと呼ばれる葉と茎の部分だけで、sedani di rapa と呼ばれる我々お馴染みの白い実の部分は市場でもほとんど見かけない。
食べないわけではないようで、探せばレシピも出てくるが、ラディッシュのようにそのままサラダに入れて食べるのでなければ、かなり凝りに凝った料理ばかりで、確かに何時でも誰でも食べる食材ではないようだ。
1月某日 ミラノ自宅
自分が今まで音楽をやっていること、特に好きでもなかった指揮を今まで細々続けて来られたのは、人生の節目でそれぞれの恩師が暖かい言葉で励ましてくれたからだと思う。恐らく恩師はあまり深い意味もなく口からついて出ただけに違いないのだが、褒められた本人には忘れがたいものになる。
大学の研究生が終わって作曲でイタリア政府給費で留学する前に、岡部先生にご挨拶したら、「それだけの技術があればやっていかれますよ、頑張って」とはなむけの言葉をいただいた。別に真面目に指揮を勉強もしなかったし、作曲必修の指揮副科で一番やる気のない、どう贔屓目に見ても箸にも棒にも掛からぬ生徒だったのだから、何故仰ったのか真意を計り知れないけれど、岡部先生には小学校2年の頃から音楽教室でお世話になっていたし、素朴に励ましてやろうと思って下さったに違いない。その何年後か、給費が突然打ち切られて無一文になったとき、ふと思い出したのが岡部先生の言葉だった。
余りに惨めな生活をしていたので、友人たちが小遣い稼ぎに、とにかく演奏者の前でテンポだけ振っていれば良い、と言われて仕方なく始めた指揮だったが、余りに酷いので、少しは真面目に習うべきだとエミリオの所へ通うようになった。
よく覚えているのは、指揮なんてやりたくないし、レッスンなんてとんでもない、とずっと逃げていたのが、友人たちがエミリオに先に連絡して話を付けてしまったので、仕方なく足を引きずりながらレッスンに出かけたのだった。
当然、褒められるどころではなかったし、いつも酷く怒られた挙句、頼んでもやめさせてもらえず仕方なく続けていただけだったのが、ある時「自分も、お前くらいの時に同じくらいの技術があったら良かったのになあ」と、珍しい言葉を頂いて仰天した。覚えの悪い人間が、未だにこれだけ鮮やかに覚えているのだから、褒め言葉のもつ影響力は計り知れない。今まで続けてきても、未だに指揮が自分に向いているとは思えない。それでも、支えてくれる友人がいるから、今まで続けて来られた気がする。家人からも「そんなに辛いならやめて良い」と何度となく慰められてやってきていて、告白すれば、実に情けないものがある。
自分よりずっと年上だけれど、演奏会のたびに顔を出しては励まして下さるYさんもそんな大切な友人の一人で、ジェルヴァゾーニと一緒に日本に戻った時に知り合った。第一印象は、可愛がって貰った祖父に顔と雰囲気がよく似ているというもので、Yさんと話していると網元で漁師だった祖父と話している気がして、それだけで安心するのだった。中学生の頃、祖父が夜明けに亡くなったとき、ふと目覚めてつられるように一人で病院に歩いてゆき病室を訪ねると、思いがけずそれが祖父の臨終だった。Yさんとは、日本に帰る度に何度かお目にかかっていたけれど、長年ほとんどプライヴェートな話を伺ったことがなく、そういう話はしたくないのだろうとこちらも殊更に触れることもなかったのが、ある時、地方から一緒に東京に戻る折、かみさんにお土産を頼まれたから、と売店に走って行かれたのが切っ掛けで、少しご家族の話を伺うようになった。長い間そうではないかと思いつつ、最近までも確かめた機会もなかったのだが、大学生の頃或るワークショップで作曲レッスンの通訳をして頂いたのが、Yさんの奥さまだった。レッスンを受けた作曲家にも奥さまにもずいぶん励まして頂き、その後改めてお礼の端書をしたためた覚えがある。
丁度、息子が免疫疾患で身体をこわした話をしたころから、Yさんから奥さまの話を伺うようになった。彼女が数年前から進行性の免疫疾患の病気で床についていることや、子供がいないので夏前から介護の関係で近所の施設に預けていて、顔は毎日見に出かけるけれど週末だけ家に連れて帰ってくることなど、微笑みながら優しく話してくださるのだった。本当に仲睦まじいご夫婦なのがわかって、どう返してよいのかまるで言葉も見つからず、奥さまが喜んでくださるというイタリアのサラミを、一本トランクに忍ばせている。
1月某日 三軒茶屋自宅
東京に戻ると、とにかく寒い。今年一番の寒波だと言う。前から塩梅のよくなかったストーブがいよいよ壊れていて、シャワーだけ浴びて渋谷にオイルヒーターを買いに走る。これは自分で持って帰ることもできますか、と店員に尋ねると、少し驚いていたが、重たいですが持って帰れないわけではありません。どうか呉々も気を付けて下さい、と念を押される。
桜木町の神奈川県立音楽堂があって毎日横浜に通った。自分が子供の頃から通った横浜の姿との違いに驚き、母親が生まれ育った横浜の姿に思いを馳せる。神奈川フィルには同級生が何人もいて、再会を喜びつつ指揮台に昇るのが気恥ずかしい。その上彼女たちが高校時代の写真などを持ってきては皆に見せるものだから、穴があったら入りたかったが、その甲斐あってか演奏は素晴らしかった。特に一柳さんの演奏は、常に良い意味で我々の予想を裏切る、スリリングなもので、練習から本番まで本当に愉しませていただいた。本番まで、ご自分で書かれた音符を、わざわざひっくり返して弾いてみたり、音の数を足してみたり、最後の音も、新しく即興で付け加えていらして、終わった途端にこちらにニヤリと微笑んでいらした。いつも紳士な方ではあるけれど、諧謔精神と反骨精神が裡に脈々と息づいていて、面白くて仕方がない。オーケストラの皆も、今日は先生は何をやるだろうと練習の度に待ち構えていた。
会場を埋め尽くす聴き手の集中度がとても高く、演奏会後の対談まで聴衆が溢れていて驚く。山本さんの作品の面白さや、森さん、上野くんの素晴らしさについては改めて書く機会もあるだろう。
1月某日 ミラノ自宅
最近、世界中で性的虐待について女性が声を上げるようになった。それについて何かコメント出来るほど、真っ当な人間ではないと思っている。ただ自分の友人だけでも、小学生時代に小学校教師から繰返し悪戯を受けて、未だに摂食障害に悩む友人や、飼っている犬の病気のために連れて行った獣医に強姦され、それを警察に訴えると、薄ら笑いを浮かべて話を聞いてもらえなかった友人とか、母子家庭で育って母親のボーイフレンドから長年性的虐待を受けていて、母親は助けるどころか反対に娘をその度に叱責するありさまだったが、あろうことかボーイフレンドが楽器を彼女に買い与えたので、そのまま別れることなく虐待が長年続いた友人など知っている。彼女たちは未だに後遺症に悩んでいると話していたし、自分自身も昔シエナで若い男性二人にレイプされかかった時の恐怖もよく覚えているので、ほんの少しだけ分かるような気がする。
1月某日 ミラノ自宅
息子が科学の自由研究の宿題で関節炎について調べている。A4の紙一杯に手書きで文章を書いている。左手でこれだけ書けるようになったのだから、大した進歩で親としてはとても嬉しいが、しかしなぜ関節炎なのだろう。
彼のレポート曰く、関節炎は現代病であり、現代の食生活のバランスが原因の一つで何某と書いてあるが、息子自身は好き嫌いは多くて親として困っている。
18歳になったら最初にやりたいことは、ワインを飲むことだと言うので、飲みたければ別に今でも飲ませてやるというと、楽しみにしているから良いのだそうだ。
突拍子もない話が続く息子から、最初に指がなくなったのを見たときどう思ったかと問われる。息子が初めて自分の左手が突然麻痺した時、彼は家で一人で留守番をしていたそうで、酷く狼狽えてどうしてよいか分からなかったが、手が麻痺していて連絡すらできなかった、と聞き、申し訳なく思う。
どうやら指揮を勉強するのは楽しいらしく、一緒に国立音楽院裏の楽譜屋で「アイネクライネナハトムジーク」の楽譜を贖い、短めの指揮棒一本をプレゼントする。
買いに出かける道すがらずっと鼻歌を歌って煩いので、こちらも頭の中でいろいろ考えているのだから、お前も頭の中で歌えば良いだろうと言うと、余計声を張り上げる。歌っているのは、これが「アルジェのイタリア女」一幕のフィナーレで、今まで色々見たが、彼が一番好きなオペラは最初に見せたこの「アルジェのイタリア女」なのだそうだ。確かに見事なオペラだと思う。
先日息子と「椿姫」の話をしていて、この手のオペラの筋書きが苦手で受付けられない、ジェルモンのアリアなど腹が立って聴いていられないと言うと、息子曰く本当に悪いのは医者だという。もう少し腕の良い医者がいれば、最後はすべて円く収まったはずだと言う。至極尤もな意見である。
1月某日 ミラノ自宅
気が付けば前期の授業が終わってしまった。大学生は全員必修のイヤートレーニングのクラスに、今年初めて二人中国人の学生がやってきた。
そのうちの一人がテノールの王文奕君で、初めて授業に来たときは本当に全くイタリア語が分からなかった。英語とかフランス語とかスペイン語とか何か分からないかと尋ねると、「イタリア語」と小声でたどたどしく答えたので、みんながどっと笑ったほどだった。
言葉少ない素朴な田舎の青年という風情で、到底テノール歌手という雰囲気には見えなかったが、でもこれは言葉が分からないからかと思っていると、そのあとでもう一人、音楽教育科の中国人の学生が入ってきても、二人で殆ど話す様子もなかったので、おそらくそういう性格なのだろう。
最初にもう一人の中国人の学生がやってきたとき、彼も中国人だよ、と言うと「キミモ チュウゴクジンナノ?」と二人で片言の可愛らしいイタリア語で話していたので、周りの学生は大喜びだった。
彼にイタリア語でも何語でも良いが、我々教師が理解できる音程の呼び方や三和音の種類の言い方など、早急に教える必要があって、他のヨーロッパ人生徒に教える傍ら、黒板に「音程」、「三選択」、「完全五度」、「完全四度」、「増四度」、「協和音」、「不協和音」、「唱音程!」とか、通じるのか通じないのか分からないような走書きを書きながらイタリア語を教えてゆくと、何時の間にか覚えていったので通じていたのだろう。
他の学生たちはこちらが珍しく漢字などを書いている姿に「あれが協和音」などと面白がっていたので、授業はいつも至極和やかなものだった。最初に授業に来たとき、「文奕」の「奕」は何かの簡体字なのかと尋ねると、これは中国の固有の文字で、「ますます盛んなさま」だとgoogleの説明を見せてくれた。いつも一列目に座って物静かにしている王君の様子から「ますます盛んなさま」を想像できないので、思わず大声で笑ってしまった。
「中華街でどこか美味しいところでも教えてくれ」と言うと、まだ行ったことがないと言っていたから、熱心に勉強に打ち込んでいたのだと思う。同僚に尋ねると王君はなかなか良い声をしているのだと言う。
まあこれで半期30時間の授業も終わってやれやれと思っていると、「アリガトウゴザイマス、オチャデス、シーフーロンジンデス、ウチノチカクノモノデス」と思いがけなく、「西湖龙井」つまり西湖龍井茶の新茶をプレゼントしてくれた。その心遣いにも感激したが、家に帰って早速淹れるとこれが思いの外美味で、改めて心に染みた。
1月某日 ミラノ自宅
2002年までペータースからレンタル譜として出版されていた悠治さんの楽譜が、その後すっかり行方知れずになっている。worldcat.orgで世界中の図書館検索をすると何件か出てくるのだけれど、尋ねてみるとどれも所在が分からないという。
悠治さん曰く「橋第二番」など、恐らく演奏されたこともないと言う。「橋第一番」には、昔ずいぶん強い影響を受けたので、その続きの第二番はどんなだろうとずっと想像を膨らませていたが、今やマーストリヒトの図書館のカタログに残っているだけで、図書館のどこにあるかも所在が分からなくなっている。
悠治さん曰く、第一番のような旋法の書式を、何重かに重ねたものだと言う。楽譜がなければ、それを想像して新しく作ればいいじゃない、というのが悠治さんの意見で、尤ではあるのだけれど、その時に、その場所で、なんのためにそれが書かれたか、という背景は、やはり一概に無視は出来ないとは思う。可能であればやはり一度でも本物の楽譜を手にして音にしてみたい。
ライプツィヒなどの図書館のカタログにも載っているが、これらは問合せがあれば、出版社から取り寄せるためのもので、実際には入手できない。
そんな中で「歌垣」はニューヨーク公共図書館に一部だけ残っていて、コロンビアの大西くんに間に入ってもらって今月漸くスキャンが手に入った。
初めて目にする「歌垣」は、自分が想像していた譜面とどこか似ている既視感も感じたが、恐らく単なる思い込みに違いない。実際に音に出してみるまでは、何もわからない。
秋に演奏するクセナキスも、実は楽譜の版権とテープの所在が厄介なことになっている。手元のコピー譜は所々完全に薄れて全く音の判別も出来ないので、パリのクセナキス宅で自筆譜を見せて貰うつもりなのだが、Kraanergの4チャンネルテープは出版社が持っているものと、ベルリンの技術者個人的に修正しデジタル化したものと幾つかあるらしい。当然遺族や出版社の権利問題などが絡んでいて、誰がどのルートで何を頼めば良いのか、ボローニャの劇場は少し手をこまねいているようだった。
悠治さんから、Kraanerg初演をカナダに見に行った時のことを思い出した、とメールをいただく。「近未来の過剰人口と資源の限界で起こる世代間戦争」がテーマで、50年後の今、それを改めて自問してみると、確かに悠治さんの言う通り、我々は何ら答えを見出さないままにさまよい続け、世界だけが膨張し続けているようにも見える。
1月も終わろうという時、バッファローの図書館の演奏記録以外、悠治さんが絶対に楽譜は残っていないと断言していた「般若波羅蜜多」の総譜を、小野光子さんがアキさん宅で偶然見つけた、と連絡を下さった。これもちょうどKraanergと同じように、先に録音された演奏に、ライブの演奏を重ねるやり方をしている、とは悠治さんから聞いているが、とにかく楽譜を見てみたい。もしかしたら蘇演も可能かもしれない。
「般若波羅蜜多」はまだ楽譜も見ていないのでわからないが、この当時のクセナキスと悠治さんの作品は、ポジフィルムとネガフィルムのように、同じものを反対側から眺めているような、別の角度から表現しているような、そんな繋がりを改めて感じている。
「人類にとって代わる新しい知性へ残すために」と当時悠治さんは答えていらしたが、AIがこれだけ進歩した今となるとその言葉の重さを痛感する。ただ、楽譜も音も、やはり何らかの形で残しておかなければならない。今現在、悠治さんが同じことを仰るか分からないが、あの時のあの言葉は彼にしか発言できない掛け替えのないものだと思うし、我々はそうやって先人が築いてきた文化の上に、我々も煉瓦を一つずつ積み上げている認識を、より明確に持つ必要があるのかも知れない。
(1月31日ミラノにて)