しもた屋之噺(212)

杉山洋一

芥川作曲賞が終わり、楽屋でこれを書き始めました。公開討論に耳を傾けつつ、日記を開いて、書き写しているところです。

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8月某日 ボローニャ ホテル
楽譜を読むときに、譜割りを几帳面にやるようになったのは、実は遥か昔、うちの学校の図書館で、エミリオの書込みのあるドナトーニの譜面に遭遇してからのこと。それまで、あのように丁寧に譜割を点線で全て書き込み、表拍、裏拍と赤と青で書き分けた楽譜など見たことがなかった。
試しに真似して同じように譜読みをすると、様々な発見があり、病みつきになった。何より音が頭のずっと奥底に入ってくるようになったし、面白いのは、書き込みをしなければ、目は音を追うのだけれど、書き込みをすると、目は休符を追ってゆくようになる。音符を目が追えば、音の情報が直截に目に飛び込んでくるが、休符を目が追うようになると、音の周りの空間が見えてくる。音はそこに自動的に刻み込まれてゆく。それを感じるのは、心地よいものだが、何より、空間を規定することにより、音に立体感が生まれる。

8月某日 ボローニャ ホテル
朝、駅に向かう目抜き通りを、無数の市民が平和的にデモ行進をしている。老若男女問わず。幼稚園くらいの子供から、老人まで。今日は爆破事件の記念日だから、それと関わりがあることはわかるが、時々「真実を知りたい」などと気勢を上げていて、でも、誰が何に対してデモをしているのかよく分からない。沿道の市民も拍手で彼らを迎えている。
爆破時刻午前10時25分に、ボローニャ中央駅の二等車待合室があった場所を目指して静かに歩いてゆく。
ミラノでも、ドゥオーモすぐ裏の噴水広場で爆破事件があったが、容疑者は誰も逮捕されていない。ボローニャ中央駅の爆破事件は、申し訳程度に、極右団体の組合員が二人逮捕されただけだが、このどちらの爆破事件に対しても、報復テロも行われず、実際のところ、極右組織によるものなのか、極左組織によるものなのか、未だに闇に包まれている。一般的に極左組織テロであれば殺戮対象が明確で、極右組織テロは、無差別殺戮の傾向があると言うが、それも実際はどうか分からない。
朝10時、朝の明るい日差しの差し込む劇場の絢爛なフォワイエに置かれた一台のピアノで、エマヌエラとカセルラのリハーサル。カセルラの音楽の美しさは、何かを雄弁に語り尽くせない、独特の繊細さだと二人で話しこむ。三重協奏曲の2楽章は天使のように、清純な言葉を綴る。互いに幾つか不明な音の指摘をして、それぞれ次回までに方針を決めようと宿題になった。
夜の演奏会は、このボローニャのオーケストラが、無差別爆破テロ記念演奏会に参加する意味を痛感する、忘れられない名演となった。リッチの作品は、犠牲者の名前全てを、数字に置き換え、リズムや旋律の定着に使っている。普段自分がやっているようなことだが、作者が違うと結果は随分違ってくる。ただ、コンピュータで導かれた数列とは違う手触りがすると感じるのは、単なる思い込みか。
併し、最初にイタリアで手掛けたオペラは、マフィアに爆殺されたジョヴァンニ・ファルコーネが主題だったし、爆殺現場を通り、パレルモの劇場でファルコーネやパオロ・ボルセッリーノを悼む公演に関わった。そして、今回ボローニャの爆破テロに纏わる演奏会に携わった。
何の因果か、数は少ないはずの政治的な記念演奏会に、自分のような外国人が何度も関わっているのか、不思議ではある。今日を日本に喩えれば、規模こそずっと小さいが、原爆の日に、広島か長崎で遺族会が主催する国際作曲コンクールをやり、そこで演奏会が行われるようなものだろう。

8月某日 三軒茶屋 自宅
ダヴィンチがいた頃のミラノ・スフォルツァ家のお抱え作曲家たちの作品を、邦楽4人のために書き直し、「ダヴィンチ頌歌」としてまとめる。賢順が宣教師たちから西洋音楽を学び、筑紫筝に反映させた時代から少し前の音楽だから、恐らく自然に演奏できるはずだと思っていた。
長谷川さん、本條さん、吉澤さんと今野さんと、沢井さんのお宅でリハーサルしながら、丁寧に西洋音楽の先入観を取除いてゆく。500年前の日本の音楽に於ける、リズムや音程の感覚を具体的に想像するのは難しい。雅楽など、かなりしっかりとした音程構造、を持っていたはずだろうが、それらが民衆音楽とどれだけ繋がっていたかわからない。
先ずは、我々が先入観としてもっている西洋音楽的な拍感を極力排して、能のすり足を10倍くらい遅く引き延ばしたような、ダウンビートのみの音楽として感じてもらうと、彼らの方が、何だか古典をやっている感覚になりました、と言ってくれる。書いた編曲作品より、ジョスカンなどを邦楽器で、邦楽として演奏すると、何某かの1500年前後の日本音楽を追体験できるかも知れない、という純粋な興味と遊び心。ジョスカンなどを邦楽器で聴くと、現在の琉球音楽に当時の面影が強く残るのを実感できる。
先日、機内で安江さんと加藤くんのための小品を書いたが、これも「ダヴィンチ頌歌」に繋がる。オラショとして残る「ぐるりよざ」と、6世紀仏ポワティエ大司教聖フォルトゥナトゥスの「ああ栄光の聖母よ」を素材に選び、具体的にどう変化したのかを比較した。
恐らく、秘密裡に口伝されるうちに、歌詞のみ正しく後世に伝えられ、旋律は数小節間、前後入れ替わったことがわかる。そして、ある場所は長く引き延ばされているのは、恐らく調子を揃えるためだったのかもしれない。

8月某日 三軒茶屋 自宅 
自作指揮の講習会。いつも普通のレッスンでやっているように、自作指揮でも、作曲者の頭に何か載せてみるだけで、ずいぶん耳が開くようになった。効果があることは確かで、感覚的には分るのだが、実際そこで何が起きているのか、何が変化しているのか、正直なところよく分からない。
狭い一車線の弦巻通りで自転車で転び、両掌を強か打ったお陰で、左手が使えない。携帯電話に夢中の若者とそこへ通りかかった車を避け、雨に濡れた緩い下り坂に塗られた蛍光塗料で滑って転んだ。激痛が走るので、受講生に振りながら手本が見せられないのが申し訳ない。尤も、血だらけの手を見せられても受講生も奏者も困るだろう。

8月某日 三軒茶屋 自宅
紙媒体の新聞を読むと目が疲れないのは、やはり情報に階層が振り分けられていて、且つ視覚的にそれが理解できるようになっているからだろう。単に事実を伝えるニュースソースと、個人の意見や社説なども、目で見て区別出来るようになっている。インターネットの例えばポータルサイトであれば、情報の質や、それが一個人の意見であろうが、フェイクニュースであろうが、時間軸に沿って全て同列に顕れる。階層がない分、より煽情的でなければ、目に留まらないからだろう。ずいぶん目に余る記事が散見されるようになった。
恐らくこの傾向はニュースだけではない。これから我々の社会全体、文化全体がこうして目に見えない疲弊に晒され続け、次第に飲み込まれてゆくに違いない。

8月某日 三軒茶屋 自宅
自分に親しい友人たちの候補作品をよむ。滋味溢れる鈴木作品は個人的に好きな時代のストラヴィンスキーを彷彿とさせ、スネアドラムや、タムタムなど、打楽器が効果的。遊び心に富んだ稲森作品は、カーゲルの質感をリゲティをより複雑にしたテクスチュアで行う感覚。心地よい疾走感の北爪作品は、ロックのよう、と書いて、ロミテッリがスペクトル音楽とロックの共通項を見出したのを思い出す。

8月某日 三軒茶屋 自宅
野坂さんの訃報に言葉を失う。来年までに「富貴」を使って、野坂さんのために芽出たい新曲を作る約束をしていた。最初に沢井さんからメッセージを頂いたのだけれど、ほぼ無言のまま送られて来たメッセージから、打ちのめされた沢井さんの姿が目に浮かんだ。
力の入らない左手を無理やり使って、朝から晩まで譜面に書き込んでいて、見ると薬指が腫れて膨らんでいる。痛くて仕方がないので、暫く休んでは少し仕事をし、また休む、という繰り返し。子供の頃から、左手の薬指と小指にはさんざん迷惑をかけた、と我乍ら本当に申し訳ない思いにかられる。ペンはまだ筆圧がいらないから何とか書けるが、鉛筆などは本当に痛い。箸は何とか持てるようになったが、物を取上げる力がまだ入らないし、捻ると相変わらず激痛。さて、これでオーケストラとの練習はどうなるのか。

8月某日 溜池山王
サントリー作曲賞演奏会終了。思いがけず鉄道好きな後藤さんに再会し、元気な姿に嬉しくなる。秋吉台で彼女が自作を指揮するお手伝いを何度かさせてもらった。インターンとして、この演奏会まで東京に滞在していると言う。声をかけて貰って良かった。似た人だとは感じていたが、名古屋の方だから人違いだと思っていた。昨年で秋吉台の講習会が終了したが、そこで若い作曲家と何人も知り合う機会があったのは、自分にとってかけがえのない経験だった。
大学生相手にミラノでは長年教えて来て、日本の若い人たちが何を考え、何に悩み、何を面白がりながら何をしているのか、自分が余りに無知なのがずっと気がかりだった。芥川や秋吉台での経験は、自分の財産だと改めて思う。
演奏会後、楽屋に坂田くんが訪ねてきて、外国暮らしのよもやま話。鈴木君からは、曲を分かってくれて嬉しいとの言葉をいただき、稲森君に至っては、杉山さん、僕と作曲の傾向も近いでしょう、と弾んだ声で、喜び溢れる言葉を頂戴する。

8月某日 三軒茶屋 自宅
「杉山くんが来てくれたよ」、と声をかけていただき、吉田美枝さんの御霊前に手を併せる。作法を全く心得ないので、線香は数本付けても構わないかたずねて、結局3本に火を点けた。
子供の頃、東林間に住んでいた頃の家に似たお宅には、映画、演劇、それに武満徹の本が並んでいて、処分するにもこれじゃあ古本屋も買わないし、とご主人が話す。
NHKのドキュメンタリー番組か、ナッセンから自分が公開で助言を受けている番組を見たことがある。二人の間に吉田さんが座って、通訳してくださった。大柄なナッセンと小柄な吉田さん、という印象が甦る。ロンドン・シンフォニエッタの作曲ワークショップの様子が少しだけ紹介されたのだが、あれは何の番組だったのだろう。
話しているうち、お線香が終わってしまっていて、帰りしな、もう2本に火を点けて改めて手を併せた。仏壇の遺影には、素敵な笑顔が浮かんでいた。
お宅にお邪魔する前に綱島駅前で食べた、中華食堂の野菜炒と茄子の牡蠣油炒が、心に沁みる。

8月31日 三軒茶屋にて