しもた屋之噺(222)

杉山洋一

今年は一体どういう年なのでしょうか。一ケ月前に、現在世界が覆われている状況を想像できたでしょうか。Covid-19確認感染者数は28日日本時間21時の時点で1011万1,639人。死亡者数は50万1874人と発表されています。一分後にサイトを読込みしなおすと、既に感染者数が1増えていました。
BLMはこの一ケ月で想像も絶するほどのうねりを見せ、ジョージ・ワシントン像が倒され、ウィンストン・チャーチル像や奴隷解放の父リンカーン像まで落書きされ、アメリカ、ヨーロッパに限らず、アジアにまでBMLは広がっています。
経済の建直しを迫られる各国に、Covid第二波が始まりつつあるともいわれます。東京の新感染者数は高止まりとも言われていますが、再封鎖して経済を止める余裕はないでしょう。日本は非常に危険だった3月から現在までをやり過ごして来れたのですから、このまま何も起こらないことを祈っています。
音楽界も少しずつ再開し始めていますが、一度失敗すれば、それを取戻すのにどれだけの労力がかかるか想像もつかず、本当に少しずつ試しているようです。
数値上ではイタリアは随分収まってきたように見えます。来月、世界が一体どのような変化を見せているのか、想像するのも少し怖い気がします。
少し前まで、皆の笑顔と再会するまで、あとほんの少しかと思った時期もありましたが、また世界が違うエネルギーに引き摺り込まれて、皆の表情から柔和な笑顔が消えてゆきそうなのが不安です。

・・・

6月某日 ミラノ自宅
今日からイタリアは往来が自由になる。が、殆ど生活に変化はない。
母より孔雀サボテンの深紅の花の写真が送られきた。
「久しぶりに大輪が咲きました。孔雀サボテン、本当は此れが10輪も咲くはずでしたが、鉢を落として割ってしまい、蕾は2個だけ生き残りました。でも今年は家にいましたから、大輪を咲かせてくれました」。
眺めるほどに惹きこまれる。放射状に並んだ花弁の中心から、まるで落ちゆく花火の光跡に見えるのが雄蕊だろう。複数の放物線がはらはらはかなく落ちてゆく。夜空に大輪を浮かび上がらせる花火のようだ。花弁の沈むような紅に、雄蕊と雌蕊は、光加減なのか、黄金色に耀いてみえ、時間が止まる。
昨日朝テレビをつけると、マッタレルラ大統領が、人気のないローマのヴィットリオ・エマヌエレ記念廟で、一人、故国壇に建国記念の花輪を手向けていた。大統領が歩を進める傍らで、弔礼ラッパが一人寂しく吹かれ、頭上を9機の空軍機が三色旗を空に描いて飛び去った。
平年なら、記念廟が聳えるヴェネチア広場には見物客が犇めき、数人一斉にラッパを吹きならす。今年は全てが静謐のもと執り行われていた。
それからマッタレルラ大統領は、ヨーロッパCovid発端の地となったコドーニョの墓地に向かい、入口の壁に嵌め込まれた目新しい「イタリア共和国大統領 Covid-19に斃れたものの追憶に 2020年6月2日」と刻まれた大理石碑に、改めて追悼の花輪を捧げた。
「互助そして寛容の精神に、専門職の誇りに、忍耐に、規則の順守に、わたしたちはこの手で触れました。事あるたび、わたしたちは国家の意味と利他主義をあらためて発見しました。わたしたちは苦難の絶頂を前にして、共和国の真実の顔を見出しました。そして今、この掛け替えのない財産を無に帰することなど、どうして出来ましょうか。何よりまず、わたしたちはこの数週間の間にウィルスに斃れた、医師や看護師、医療関係者のみなさんを思い起こさなければなりません。どんな困難にあっても、この絆こそがこれからもわたしたちをより力強く結びつけてくれるに違いありません」。
カリアリの劇場オーケストラでリハーサル再開。ソーシャルディスタンスを保ち、仕切りを立てて演奏しているから、オーケストラも大変だろう。スタジオ録音のように、指揮者もブース毎の音の整理が先決になる。各セクション毎にそれぞれの呼吸や感覚に任せていたものを、否が応でも指揮で併せざるを得ない。東京アラート発令。

6月某日 ミラノ自宅
サンドロとナディアの姿を玄関の向こうに認める。家族間の往来封鎖も解けて、早速隣に住むアリーチェの娘を迎えにきたようだ。サンドロが満面の笑顔で「おお、何箇月ぶりだろう」と嬉しそうに声を上げると、2歳になるマリアンナが「おじいちゃん、おばあちゃん」と叫んで、駈け寄った。
サンドロが思わず抱きあげようとすると、「キスは駄目ですよ」と隣からナディアが悪戯っぽくい声をかけた。ナディアは先日定年を迎えるまで、ニグアルダ病院放射線科の医師だったから、サンドロの健康管理には細心の留意を怠らない。恨めしそうにナディアを見るサンドロの姿が子供のようで微笑ましい。

192名が死亡した2009年7月5日ウルムチ騒乱までの新疆ウイグル自治区弾圧の流れ、最近高まる抗議活動の発端の一つ、2011年3月のチベット僧侶の焼身自殺から現在まで、そして2019年の香港夏の抗議活動についても、「自画像」に含めることを決める。

戦争、紛争と弾圧との線引きが素人には難しく、数ケ月悩んできた。当事者ではないからわからないし、陪審員を気取るつもりは毛頭ないが、中国各地の問題は、紛争ではなく一方的弾圧に見える。当初、作品には戦争、紛争のみ収録すると決めていたが、こんな曲を書くことも金輪際ないだろうから、後悔したくなくて結局入れることにした。
紛争であれ弾圧であれ、双方言い分はあるに違いない。アジア解放と大東亜共栄を実現すべく日本軍はアジアで戦争する、本気でそう信じて戦った兵士は多数いたに違いない。
息子がイタリアの小学校に通っていた頃、仲の良かった級友のアドリアンに、「お前のこと好きだけど、日本はフィリピンに昔酷いことをしたんだって。お母さん言ってた」と言われ、どういうことか息子に問い質された。戦争とはそういうことだ。

6月某日 ミラノ自宅
マッタレルラは「国家を再発見した」と言ったが、では国家とは何か。
複数国家間で国民に決定的憎悪を植付けるのは、市民、国民レヴェルでは容易ではない。インターネットが進んだ今日ですら、最初の一歩は、市民レヴェルではなく何らかの煽動が介在あってこそ、踏み出せるのではないだろうか。
例えどこかの国家を恨んでも、国家と市民は全く別だ。そこには善人も悪人もいて、自分と気の合うものも合わないものもいる。悪人も気の合わない連中も、国家ではない。
国家として殺戮に参加しても、裁かれることはないかも知れないが、殺める相手を国家ではなく一市民と認識した瞬間から、自らの脳裏には殺人として記憶に刻まれ、途轍もない懊悩に苛まれる。
酷い薬物中毒下で判断不能にされていても、ほんの一瞬でも正気に戻れば、以後一生絶望に打ちのめされるに違いない。今日、世界各地に多数捨て置かれた過去の少年兵たちの記憶を、誰が癒やせると言うのか。

6月某日 ミラノ自宅
シリア国歌を書いている最中に、さとうまきさんのコラムを読んだのは、 毎月のことだから偶然とは呼べないのかもしれないが、ちょうど香港の州歌を書いていて、香港の国歌条例が成立したのを知ったときには、少し気味が悪かった。現在、香港では中国国歌「義勇軍行進曲」を侮辱するのは禁止されている。
2019年香港デモの部分で、香港記念歌「香港に栄光あれ」を使用したが、以前の西沙諸島、南沙諸島紛争に於いては「義勇軍行進曲」を素材とした。
チベット州歌を書いていると、日本のチベット難民と知合ったためか、無意識に感情を籠めそうになる。聴こえない筈のものを、無理に目立たせようとしていることに気が付き、自らを諫める。各旋律を認識させる目的で書き始めたのではなかった。

3月以降、外食、出前、惣菜など一切食べていない。一日三食全て作り、一人で食べるのは、人生初の経験。以前は街の閉鎖で出来なかったが、閉鎖が解除されても、帰国まで病気に罹るわけにいかなくて、気が付けば自炊が続く。

6月某日 ミラノ自宅
帰国前に更新する身分証明書の写真を撮りに出ると、家の前で、車で駆け付けた川本さん御一家と会う。どうしているかと心配して、買ったばかりのキムチと日本米を届けて下さった。ありがたいことだ。ご家族みなさんお元気と伺い安堵する。
作曲終盤、強弱を書き込んでいくと、音が途端に瑞々しくなる。つい音楽的に音を置きたくなるが、感情に流された音は、大抵翌日消去することになる。そうした音には信念がなく、信頼されていないから、身体に纏わりついてくる。
ウルムチ7.5騒乱を書足す。流れで書きそうになる度、消しては顧みている。

6月某日 ミラノ自宅
日記を書留める時間もない。朝3時半に起きて作曲をして、7時過ぎにナポリ広場まで歩きパンと新聞を買って帰る。それから日がな一日作曲。
マリゼッラとメールのやりとり。
「あれから元気にやっていますか。今や欠かせない習慣みたいになったけれど、フランコに宜しくお祝いを伝えてください」
「いつも心遣い有難う。お陰様でわたしも元気。わたしにとっても、今日はフランコを思い出す特別な一日です。いつも思い出しているけれど。あなたもどうか元気で。もうすぐミラノでの一人暮らし日々も終わるわね」
「未だミラノです。漸くオーケストラを書き終えられそう。くれぐれもよろしくお伝えください。今年はヴェローナに花を届けられそうもないから」
「あなたの曲が完成して嬉しいです。どうか日本の演奏会が実現しますように。わたしも何時ヴェローナに会いに出かけられるか、わからないわ。電車に乗るのは未だこわいもの。でもフランコにはよく言っておくから心配しないで」。

6月某日 ミラノ自宅
リコルディのマルコから「Prom」について連絡があり、直後にティートからも電話がかかる。11月ティートがドナトーニ曲再演を考えていて、どれがよいか相談を受ける。電話を切った途端、今度はパオロから「最後の夜」の再演に手を貸してほしいと連絡が入る。まるで皆が彼の誕生日を待っていたかのようで、不思議な心地。
歿後20年。生前、自分が顧みられるのは歿後5年くらいのものだ、10年でも凄い、などと笑って話していたから、20年経ってこうして話題に上るのは、本人はきっと大喜びしている。

日本のSさんより電話あり、この春、封鎖下のミラノで邦人芸術家Aさんが自死されたと聞く。思いつめてアパートから飛び降りた。
街全体が重苦しい空気に圧し潰されそうだったあの頃、誰でもそうなる可能性はあったのかもしれない。
ダヴィデより「diventa pi? chiara quando ridi(微笑めばより澄んでゆく)」の楽譜を送ってくれとメッセージが届く。昨年失った娘がそこにいると言う。
大学研究科終わりに書いた曲だが、していることは現在と大差ない気もする。無意識に同じ場所へ戻って来ていたのか。昔は確信ないまま音を置いていたものが、煩悩も消え媚びる意味も感じなくなって、裡に沸々していたものが、吐露されるようになったのか。向学心の欠落か。

6月某日 ミラノ自宅
「自画像」作曲の過程で取上げたリベリアについて思い出す。
解放された黒人奴隷のアフリカ帰還計画に基づき、1822年初めてアメリカからの帰還者が入植をはじめた。
1847年アメリア合衆国憲法を手本に憲法を制定し、リベリアは建国された。
解放奴隷の入植者、アメリコ・ライべリアンは、同じ黒人の先住民族を差別弾圧し、労働力としてゴム農園で奴隷同様にあしらい、1931年には国際連合から告発されている。
1980年、先住民族出身者によるクーデターで、アメリコ・ライべリアンの大統領は暗殺されると、今度は別の部族出身者が先住民族出身の新独裁者に攻撃を加えるようになった。こうしてリベリアの凄惨で長大な内戦が始まった。
1989-97年の第一次内戦で40万人から62万人が、99-2003年の第二次内戦で15万人から30万人が死亡したと言われる。
リベリアでは、現在でもアフリカ系住民以外投票権を持てないはずだが、黒人が黒人を支配し、互いに怨恨を重ねてきた歴史は、内戦後漸く落着きを見せつつある。併しながら、これだけの命を失った国力は、簡単には戻らないだろう。単に黒人がアフリカに帰れば幸せに暮らせるわけではない。物事を単純化しなければ理解できなくなったのは、我々が思考を放棄しつつある証左かもしれぬ。

ここ数日、ジョージアでアントニオ・スミスが警察に誤認逮捕され手首を骨折したり、ボルチモアのOuzo Bayで、マルシア・グラントと9歳の息子がレストランから拒否されるさまが、インターネットで伝播されている。特に彼女の9歳の息子が唇を噛みしめ屈辱に耐える姿は正視できない。
人口比率が大幅に逆転し、早晩黒人が白人を統制する立場になったとき、黒人が白人を対等の友人として受け止めてくれることを切に祈る。

6月某日 ミラノ自宅
69年から現在に至る紛争地域を巡る「自画像」では、ソマリアやジブチ、エリトリア、リビアの国歌を複数用いる必要があった。言うまでもなく、この半世紀に繰返し戦禍に見舞われた地域で、これら三国及びエチオピアが、第二次世界大戦までイタリア植民地だった。
殊に、1885年から1941年までイタリア統治下にあったエリトリアのアズマーラは「アフリカのローマ」と喩えられ、特に美しい街と仄聞する。未来派建築、ファシズム建築傑作の宝庫で、近年ユネスコ世界遺産に登録され、ミラノ工科大が修復に携わる。
未来派建築は昔から大好きだったから、1938年ジュゼッペ・ペタッツィが設計した飛行機形「Fiat Tagliero」が現在も無事に残っていると知った時には、すっかり興奮した。ファシズム期文化遺産のなかでは、音楽や文学、絵画と比べても、建築は傑出している。これだけ芸術品の名に相応しい建築物の犇めく街はイタリアにも皆無だから、ただ羨ましい。
アズマーラ人はイタリア植民地文化を現在まで受継ぎ、バールでエスプレッソを啜り、アニス酒を舐め、オリーブ油を胡麻油で、小麦をヒヨコ豆粉で代用し、美味しそうな植民地風イタリア・エリトリア料理を食べる。
アズマーラには、最大級のイタリア人学校があって、伊語話者は現在も一定数残っている。ムッソリーニがエチオピア戦線を始めるまでは、イタリア人とエリトリア人は平和的に共存していたとも読んだ。
エリトリア難民は1974年のエチオピアクーデター以降急増し、93年のエリトリア独立戦争後彼らの多くはエリトリアに帰国したが、今度はエリトリアの独裁体制に耐えきれず、イタリアに戻ったものも多いそうだ。
現在イタリアには9000人余りのエリトリア人が暮らし、そのコミュニティの中心はローマとミラノにある。リビアやジブチから船でイタリアを目指したものも多いが、エリトリアを出国できず国境で処刑されるもの多し、とある。

それとは別に、イタリア人とエリトリア人の間に生まれたイタリア系エリトリア人も数多い。
当初入植者として平和に暮らしていたイタリア人と現地人との間に生まれた子供は、80年間に少なくとも15000人にのぼるが、その実、彼らイタリア人の殆どはイタリアで既に結婚しており、本国に妻を残してきたものばかりだった。
そのため、「イタリア系アフリカ人の血統を保護する」という理由をつけ、ムッソリーニは、dqala=混血児と蔑まされた子供たちが父姓を名乗るのを禁じる法律を施行した。本国のイタリア人の血統を重んじたのだ。
その結果、6年前の統計でさえ、未だ300人以上のイタリア国籍申請がアズマーラで滞っていて、認められた国籍申請は現在まで80人足らずと言う。
エリトリアに限らず、イタリア本国に引揚げたアフリカ系イタリア人は確かに多く、良く知っている音楽家仲間にも一人いる。周りは全く気にしていなかったが、暫く前に苗字をイタリア風に改名して、愕いた覚えがある。
彼は特に打楽器奏者だから、アフリカ風の名前なら一層格が上がる気すらしたけれど、それは他人の勝手な言い分であって、本人は複雑な過去を引き摺って生きてきたに違いない。

6月某日 ミラノ自宅
離れていても毎日電話するような関係ではないが、週に一回ほど富山に滞在している息子から電話がかかる。そんな時、息子は決まって伊語で話しかけてくる。日本に滞在していて、伊語も自身のレゾンデートルの一部と気が付いたのだろうか。単語が出て来ないと繰返していて、随分変わったと思う。以前は伊語など絶対話さないと拒絶していた。
イタリアで「中国人」とか「你好」と揶揄われるのが、堪えられなかったようだ。そんな事かと笑いたくなるが、思春期の息子にはさぞ辛かったのだろう。
確かに幾度となく「中国人!」と声をかけられた経験はあるが、こう罵られる中国人を可哀想とこそ思えども、こちらは中国人ではないので、何時の間にか何とも思わなくなっていた。
人種差別は悪だろうが、差別や偏見を持たぬ人間など、どれだけいるのか。自分だって、きっと無意識に人種差別や偏見に参加しているに違いない。せめても他人に向けて言葉を発する前に、今一度顧みる努力を惜しまずに、成るべく美しい言葉を選びたい。

早朝散歩の折、二三日に一度、トルストイ通りのキオスクに立寄っては「レプーブリカ」新聞を買って読むのが日課なのだが、今朝は、ファンファンの封鎖下武漢日記「Wu-han」を購った。報道されない市民生活や政府への不信が赤裸々に綴られている。封鎖期間をミラノで過ごした人間にとって、自らの数ケ月と重なる部分も多々あって、胸が締め付けられる。

6月某日 ミラノ自宅
「自画像」の楽譜データを送付。
3月初めに家族とノヴァラへ向かった際、夜半、宿から友人宅に泊まっていた家人とメッセージのやりとりをして、このままミラノに残り未曽有の経験と対峙した方が、納得できる作曲が出来ると励まされたのを思い出す。
学校の仕事もミラノで闘病を続けていた留学生も含め、家人がそう言ってくれなければ、残ることはできなかった。不安定な状況下で、半年に亙って息子の面倒を一人でみて貰い、感謝に堪えない。
謝意は息子に対しても等しく抱く。家人を支えるよう繰返してきたが、今度会う時には、以前より格段に逞しくなっていると確信している。
毎朝3時や2時半に目を覚まし、5時半くらいまで作曲をしてから、無人の街を暫く歩き、授業や試験がなければ1日作曲を続け、22時くらいには困憊して眠り込む。そんな生活をしていると、身体が文字通り空洞になるほど、感覚が鋭敏になってゆく。
メルセデスから連絡あり。ミラノの成長学研究所(Auxologico di Milano)で血清検査を受けてきたという。結果は陰性。

6月某日 ミラノ自宅
学校から通知が届いた。6月15日より、漸次校内使用を許可してゆくとのこと。尤も、校内の使用は年度末の実技試験が中心で、恐らく室内楽の補講なども行われるのだろう。
務めている音楽院は、ミラノ市立学校というミラノに四つある大学資格の専門学校の一つで、音楽(クラシック・ジャズ)、語学(翻訳・通訳)、舞台(演劇・ダンス)、映画とそれぞれ別組織から成り立っている。
それら四校を取りまとめている財団より、先日の遠隔授業に関するアンケートの結果が送られてきた。興味深いので書き出しておく。各学校は2月24日から遠隔授業を開始している。
全校併せて144名の教師より回答あり。
そのうち73%が今回初めて遠隔授業に携わった。
そのうち58%が理論実地の混成授業。32%が実地授業、10%が理論授業を行った。
それら遠隔授業のうち、65%がヴィデオ会議形式の集団授業、17%がヴィデオ会議形式の個人授業、9%がそれらの混合、3%が資料の共有によるもの、3%が授業実施が不可能、3%が録画、録音を使って行われた。
遠隔授業に際して、33%がスカイプ使用、同じく33%がZoom使用。17%がMicrosoft Teams、2%がWebex、同じく2%がWhat’s app 1%がGoogle meetを使用した。音楽の教師のうち13%は複数の方式を採用していた。
そのうち54%の教師が、遠隔授業は有効と回答。そのうち38%はどちらかと言えば有効、15%は有効と回答。語学校の教師のうち70%有効と回答したのに比べ、映画43%、舞台36%に留まった。
全体の62%の教師が、遠隔授業方法について、何らかの訓練、サポートが有効と回答。そこには語学の68%、音楽の57%の教師が含まれる。
全体の53%の教師が、covid終息後、遠隔授業継続は不可能と回答。しかし語学の62%は継続可能と回答。
全体の71%の教師は、今回の経験に学生は満足していると回答。そのうち59%はどちらかと言えば満足している、12%は明らかに満足していると回答。しかし、肯定的回答は、映画では57%、舞台では46%に留まった。
自由記入欄には、学生側の通信事情の難しさや、人間的な相互の関係構築の困難、精神的、肉体的、視覚的な疲労、教師の準備量の増加など、否定的な意見として挙げられているのに対し、より密な学生との関係構築の可能性、学生が各自より責任意識をもって参加、資料共有などの簡略化、移動省略によるストレス軽減、環境への負担軽減、授業時間の柔軟対応の可能性、他国からの参加の可能性など肯定的な意見も挙げられている。
今後の可能性については、学生に等しくデバイスを供与し、アプリケーションなどの無償使用許可を与えること。独自のシステムの構築。授業外の準備に対する給与保証。

6月某日 ミラノ自宅
あれだけ沢山の音を書いて、曲に書き込めた思いは、せいぜい一つくらいではないだろうか。その一つが確かに演奏者や聴き手に伝えられれば、それ以上の幸せはないが、きっと難しいことだろう。
悲しみと怒りと恐怖。或いは、連帯感に対して、身体の芯に燻る感動や使命感の自覚、足を踏み出すために必要な自己肯定感や、それに対する喜びに近い感情の混交だろうか。
言葉として表現不可能な、混沌、混濁した何か。

長い間RFIのアフリカ関連の番組を愛聴していたから、今回これらの国々の歴史をより深く知る機会にもなった。誰とも会わずどこにも出かけず、家に籠っていただけだが、各地を探訪する心地すら味わえたのも、きっと寂しさを半減させてくれたに違いない。

各国の国歌に触れられたのも大きな喜びだった。初めてソ連邦アルメニア国歌を聴いたときは、端麗で愕いたが、アラム・ハチャトリアン作曲と知り納得した。ハチャトリアンは1942年にコルホーズを舞台にガイーヌを書き、その2年後ガイーヌ三幕の主題を基にこの国歌を書いたのは、ソ連邦賛美の意味もあっただろう。

各国歌それぞれに思い入れはあるが、戦時中に使用されていなかったため「自画像」には使用しなかった現ラオス国歌の旋律も、ソ連邦アルメニアやグレナダの国歌と同じように壮大で美しい旋律だ。
ビルマ国歌から素材を作るため、ずいぶん時間をかけた。往々にして軍事政権が行進曲風旋律を国歌に制定する傾向にあるなか、ビルマ国歌は個性的な前奏を伴い、不思議な魅力をもつ。
複数の国にまたがるカシミール地方のように、独立を目的として独自のスローガン歌を持ることもあった。やはり音楽は力を生み、協調を助けるのだろう。

日本帰国前に片付けなければいけない厄介で、地下鉄に乗ってセストの会計士事務所に出かける。
「車内のソーシャルディスタンスがとれない場合、次の電車をお待ちください」。一駅ごとに煩いほど車内アナウンスが入るが、既に乗りこんた乗客に向かって説教しても仕方がない。車内はある程度混んでいる。座席は隣り合って座らないよう、ステッカーが貼られている。
音楽院の院長選挙の結果、マルチェッロが圧倒的多数で院長に選出された。ジストニアが悪化する前まで、彼には指揮レッスン伴奏など随分世話になっていたから、早速お祝いを書き送る。

6月某日 ミラノ自宅
出発前に体調を崩したら困ると、必要以上に神経質になっていたのか、朝目が覚めると頭が重い。心配しながらナポリ広場まで歩く。日本に戻れば、暫く外出もできない。
歩いているうち気が紛れたのか元気になり、帰国前最後の機会と通っていた焙煎屋に顔を出した。2月以来の再会を喜び、何時ものようにコーヒーを呷ると、実に美味であった。
帰宅後、意を決して芝を刈り、気掛りだった雑木を軒並み切倒す。食卓前に聳えていた雑木は、気が付けば高さ3、4メートルにまで育っていた。

6月某日 東京行機中
朝6時半にタクシーを呼び、久しぶりにミラノの街を出た。とてもよく晴れていて、目の前に未だ雪を頂く雄大なアルプスが広がっていて、思わず歓声を上げた。
ミラノのタクシー運転手は併せて5000人ほどだそうだが、市民は未だ以前のように移動せず、特に夜間の利用客はほぼ皆無で、以前は夜間働いていた運転手も日中勤務に変わったため、現在全く仕事にならないと言う。
一ケ月も家に籠っていると、感覚もおかしくなってくる。ニュースを見れば気分が沈むので、最近はテレビも見なくなったそうだ。
SF小説が好きでよく読むが、我々はSFの世界を超えた状況を生きていて、本当に信じ難い、と繰返した。
週末の早朝だからか、道はとても空いていた。間もなく到着した半年ぶりのマルペンサ空港は、入場可能なゲートが2箇所のみに限定されており、全員検温を受けるようになっている。
早朝だからか、店は軒並み閉まっていて、人も少なく、がらんとしている。アリタリア便は未だ日本へ飛んでいないので、ルフトハンザ便でフランクフルトを経由して戻る。
朝食を摂ろうと喫茶店に入るが、外食は3月初旬以来初めてだから、妙な心地がする。
食後は水と新聞を買い、人混みを避けて時間を潰した。飛行機に乗り込むまで落ち着かず、緊張していたが、こんな思いは本当に初めてだった。
フランクフルトまでは、機体も小さくほぼ満席でよく揺れたが、深く眠り込んでいたからよく覚えていない。ヨーロッパ人が揃ってマスクをしているさまは、奇矯で愉快ですらあった。今後はこの姿が当たり前になってゆくのか。
眼下にフランクフルトの街が見えてくると、こうして外国へ来られたことが信じられず、感慨深い思いに駆られる。
フランクフルト空港に着くと、自由な往来が許可されているヨーロッパ便ターミナルは人も多く活気がある。様々な言語が飛び交う賑々しい風景に、懐かしさを禁じ得ない。少々怖い反面、嬉しくもある。
パスポートコントロールを抜け、ヨーロッパ圏外への航空便ターミナルに足を踏み入れた途端、まるで休止中のターミナルに間違って足を踏みいれたのかと思うほど、人の気配がすっかり失せて、店舗も全て閉まっている。
イタリアよりドイツは開放が進んでいると想像していたから意外だったし、不気味なほど殺風景な光景は、封鎖下のミラノの風景を彷彿とさせた。
羽田便は空いていた。隣の席は空席で、全体を見渡してもせいぜい2割か1割程度しか埋まっていないようだ。これで満席なのかどうか分からないが、Covidの厄介を除けば、機内は快適である。
乗客はそれぞれゴム手袋をつけたり、思い思いに自衛策を講じている。長時間のフライトだから当然だろう。靴を脱ぐ客はあまり見かけなかった。このような状況下で、働いている客室乗務員には、頭が下がる。
機中すっかり「武漢」を読み耽った。「無人の武漢の街は思いがけなく美しく」との下りに、数か月前、久しぶりに訪れたミラノをマンカが形容した言葉を思い出した。

6月某日 三軒茶屋自宅
朝、羽田空港に着くと、先ずゲートに全員が集められた。日本人のみ30人ほど。揃って海外在住者のようだが、当然だろう。外国人の姿が皆無なのは、乗客は日本人のみだったからのか、それとも外国人は別のゲートに集められているのか、政府が外国人入国を制限しているからか。
機内で予め書き込んだ問診票を検疫官に確認してもらい、順番にPCR検査を受け、別のホールで待機する。近隣のホテルに移動するためには、検査の結果が出るまでホールに留まる必要があるが、公共交通機関を使わなければ、迎えが到着した時点で帰宅が許可される。早朝だったためか、思いがけず全ての手続きが迅速に進んだのは意外だった。
ホールを出てトランクを引取りにゆくと、全てのトランクが名前ごとに並べてあり、一つ一つに手書きの感謝のメッセージが貼ってある。日本人らしい心遣いに感銘を受ける。
予約してあったcovid対応ハイヤーで自宅に戻り、すぐに風呂を使って休んだ。家族が富山に行っていなければ自宅には帰宅できなかったので、有難い。
夕刻、家人が手配しておいてくれた食材宅配が届く。大根、ズッキーニ、玉ねぎ、小松菜、サラダ菜、プチトマトなどの野菜に、牛乳、卵、納豆など。今はこんなものも宅配できるのかと愕きつつ深謝。ドイツ、スペインの一部地域が封鎖されたと読む。

6月某日 三軒茶屋自宅
普段から和食を作るのは家人で、調理下手のせいもあるが、米はつい食べ過ぎて身体が重くなるので、家にある食材でパスタを作る。結局この方が炭水化物を総じて減らせるとこの数か月の経験で分かった。
解凍した桜エビを食べきらずに残しておき、小松菜一把とズッキーニ、大根少々に併せてパスタを作る。イタリアの大根をパスタに入れようとは思わないが、日本産は甘くて柔らかいのでズッキーニとの相性もよく、桜エビの出汁がよく絡む。
夜、先に帰国していたAさんより久しぶりにメッセージ。すっかり元気になり、イタリアの遠隔授業に参加するようになったと聞き、とても嬉しい。
国際通貨基金の経済予測発表。イタリアは前回発表時より大幅に悪化し−12.8%。日本は− 5.8%。イタリア各新聞に、IMF「壊滅的経済予測発表」の文言躍る。

6月某日 三軒茶屋自宅
6月のイタリアCovid推移新感染者数178-318-321-177-270-197-280-283-202-379-393-346-338-303-210-329-333-251-262-224-218-122-296-175 etc.
国内死亡者数60-55-71-85-72-53-65-79-71-53-78-44-26-34-43-66-47-49-24-23-18-31-34-8 etc.
ロンバルディア州死亡者数19-12-29-29-27-21-32-15-32-25-31-23-21-8-9-14-36-18-23-13-3-6-7-22 etc.月別致死率推移
3月1日3.15%-4月1日16.96%-4月21日18.52%-5月1日18.12%-6月1日18.12%-6月25日17.78%
数値でしか表せない人間の命とは何だろう。むしろ、数字は複雑な人生を歩み、人生がたくさん詰まった人間すらも表現できるもの、と考えるべきかも知れない。

ナポリの南、カゼルタ州のモンドラゴーネ、ボローニャ近郊、ジェノヴァ、ピエモンテの北にあるオッソラで新しい集団感染発生。新感染者数ではローマのあるラツィオ州がロンバルディアを超えた。ロンバルディアより早く全面解除された他州で、再感染が始まった。
東京都の新感染者数も55-48-54と続く。検疫所よりPCR検査陰性との連絡あり。引き続き自宅待機を続けるようにとのこと。
マリでデモ激化のニュース。写真でしか知らない、トンブクトゥやジェンヌの壮麗なモスクを思い出す。北朝鮮が対韓国軍事演習の可能性、中印国境紛争再燃。黒人差別問題だけでなく、書ききれなかったさまざまな世界の綻びがより広がってゆく。
目の前の小学校校庭では子供たちが歓声を上げ、体育の授業をやっている。イタリアでは学校は封鎖が続いていたから、久しぶりに聞く子供たちの声に感動する。

6月某日 三軒茶屋自宅
「ウスティカの悲劇」より40年。
1980年6月27日の20時59分、南伊ウスティカ島沖で81人搭乗のイタヴィア機が、不詳の二機の戦闘機からミサイル攻撃を受け墜落。
本来同時刻にリビアのカダフィが同海域を飛行するはずだったが、北太平洋条約機構軍の監視を察して早々にカダフィは引返した。イタヴィア機はこのカダフィ搭乗機と誤認されたと言われる。
裁判で証言するはずだった関係者が全員、揃って裁判直前に謎の自死を遂げ、真相は未だに明らかになっていない。
近海で訓練をしていたのが、唯一フランス艦のみだったため、イタリアではフランス軍の誤爆と考える市民が多いが、フランスは当然一切認めていない。81人の命と引き換えに、第三次世界大戦開始が、水際で回避されたとも言われる。
その三年後の1983年の9月1日、ソ連防空軍によって、領空を侵犯した大韓航空機が宗谷沖で撃墜され269人が死亡した。世界のどこでも冷戦の緊張がはりつめていた。
北大西洋条約機構のなかで、イタリアだけ国内の共産党勢力が突出していて、疎ましいことも多々あったのだろう。その名残は現在の一帯一路、果ては今日のCovidまで連綿と繋がる。
近代まで欧州の支配階級だった英仏独と、イタリアはどこかで一線を画している。昨年8月、追悼の作曲コンクールに指揮で参加した1980年8月2日のボローニャ駅爆破テロとウスティカの悲劇も密接に繋がっていると言われるが、どちらも真相は明らかになることはないだろう。左派テロとも、右派テロとも言われるが、巻き添えになるのは何の関わりもない我々市民に他ならない。
当時はそんな時代だったとも思うが、マレーシア航空がウクライナのドネツクで誤爆され298人も亡くなったのは、今からわずか6年前のことだ。
本日イタリアの新感染者数174人。死亡者22人。


(6月30日 三軒茶屋にて)