しもた屋之噺(256)

杉山洋一

久しぶりにミラノに戻ると、とても不安定な天気が続いていて、毎日照り付ける太陽があるかと思うと、夜には酷い雷雨に見舞われて、朝には街中の道路が冠水しています。お陰で、イタリア北部の旱魃は大分緩和されましたが、エミリア・ロマーニャでは甚大な洪水被害が尾を引いています。雨は落ち着いても、2度目の氾濫のあと、もう10日以上経っているのに冠水が収まらず、電気も回復していない箇所があります。衛生問題が深刻になっています。しかし旱魃による農業被害のため、イタリア、フランス、スペイン、ポルトガルは、EUに総額4億5千ユーロの援助を求めていますが、ウクライナ侵攻も相俟って、生活費全体の価格高騰のスピードは緩みません。イタリアの各地の大学前では、学生たちがテントを張り、家賃が払えないと抗議する運動が広がっています。

5月某日 ミラノ自宅
整体のヴァーギさんに診て貰うと、軽く触れられているだけなのに、肋骨はじめ、躰全体が変化してゆく。あれは一体何をやっているのか不思議で仕方がない。自転車ももう乗って良いと言われる。肋骨よりもむしろ、そのせいで身体全体が歪んでいる方が問題だという。
施術後、伊語訳江本勝「水からの伝言」を引っ張りだしてきて、この名著について君と今度語り合いたいと言われ、言葉に窮す。

5月某日 ミラノ自宅
隣の部屋から、息子が練習する「エオリアン・ハープ」が聴こえてくる。これを耳にする度に切なくなるのは、コロナ禍最初の厳格なロックダウンで、彼と家人が日本に戻り、離れて暮らしていた時のことを思い出すからだろう。あの時は、もう二度と家族の顔を見られないかもしれない、と覚悟を決めて暮らしていた。
世界保健機関は新型コロナ緊急事態宣言終了を発表。累計感染者数は約7億6522万人。累計死亡者数、692万人。神経が麻痺しているのか、飽和状態なのか、この数字をどう捉えてよいか分からない自分自身に、少なからず当惑している。

5月某日 ミラノ自宅
今年初めての芝刈り決行。家人には、芝刈り機のコードを持っていてもらい、刈った芝を線路脇に捨てるのも彼女に頼んだ。ダリオ・マッジの訃報にショックを受ける。本当に温和でよい音楽家だった。最初に彼の曲を聞いたのは、ドナトーニの「Toy」が収録されていた、チェンバロとマリオリーナ・デ・ロベルティスのチェンバロとトリオ・ディ・コモのレコードではなかったか。彼の作品の指揮を何度も頼まれかけていたのに、結局実現できずに亡くなってしまい、無念でならない。

5月某日 三軒茶屋自宅
3年ぶりにローマ経由で日本に帰国して、感慨を覚える。アリタリアは倒産し、イータに引き継がれたが、昨年暮れまでイータはコロナ禍の入国規制が厳しい日本向けの旅客便は飛ばさなかった。漸く規制緩和後に日本便が就航したので、今回初めてイータに乗った。ローマのラウンジは以前のままで、懐かしい。機内は満席で、9割以上がイタリア人、その殆どが日本を訪れる観光客のようであった。こんな経験は30年近くイタリアに居て初めてで、ただ驚くばかりだ。日本政府はこの3月末にも、「観光立国推進基本計画」を閣議決定していたから、さぞ喜んでいるだろう。左胸は未だ少し痛い。

5月某日 三軒茶屋自宅
母の日、米寿祝を兼ねて町田まで母にPCを届ける。胸の痛みは普段はさほどでもないが、満員のバスなどは甚だ恐怖を覚える。胸の怪我は水を吸い込む海綿のように、体力を吸い取ってゆく。
功子先生宅へインタビューに出かけた折、隣の福泉寺で菅子先生ご夫妻のお墓に手を併せる。何でも丁度お施餓鬼の日だったそうで、お参りをする人で思いの外お墓は賑わっていた。
八幡神社へ足を向けると、神社の境内にひっそり佇む、一発の砲弾に気が付いた。近くで掃除をしていた氏子に尋ねると、戦後掘り出されて、そのまま展示されているとのことだが、詳細不明だという。手前には小さな碑があって、丗六年だか、廿六年と彫られているらしいと何んとか読めるが、それ以外は消えてしまっている。
すぐ隣には、日露戦争の15、6人の出征者と9人ほどの戦没者名簿が彫られた明治40年の大きな石碑が立っていたから、ふと当時の砲弾かと思ったが、日露戦争で代々木に砲弾直撃とは聞いたことがないから、間違いなく太平洋戦争時の空襲時の不発弾なのだろう。
功子先生のお宅は、当時、この一帯で唯一焼け残った邸宅だったと聞いた。
何も覚えていないけれど、最初に功子先生に連れられて阿佐ヶ谷の三善先生宅を訪れたとき、先生は、パリから届いたばかりだと言うリラの花束を先生に贈ったところ、三善先生は何だか不思議な顔をされたという。それで、帰り路、ふと見れば、辺りには沢山のリラの花が咲き誇っていたそうだ。母にその話をすると、三善先生は当時、「この子には手伝いをしてもらいますから」と笑っていらした、と話してくれた。お約束したお手伝いがまだ仕上がっていなくて、先生にはただただ申し訳ない思い。
功子先生に、息子がカニーノさんのところに室内楽を習いに行っている、というと、以前、掃除をするときには、決まってカニーノのレコードをかけていた、と教えてくれた。輝くような音の彼のレコードをかけると、掃除が捗るのだという。わかるような気もする。
メローニ首相来日。洪水被害が広がっているから、訪日するのか訝っていたが、結局G7の先頭を切って空軍の政府専用機で来広。

5月某日 三軒茶屋自宅
14時起床。時差呆けを治したいが、胸が心配で、しっかり寝ないのも怖い。今日も床に就いたのは朝の6時であった。尤も、胸は多少疼く程度。先月まで、折れた3本の肋骨が笑う度に体内でジャラジャラと音を立てて不快極まりないどころか、激痛であった。家人に蕎麦を茹でてもらい、啜ろうとすると思わず涙が出てきたし、くしゃみが出た時には息が止まり、なるほど肺を患うとこうなるのかと、妙な覚悟までできた。
絶対安静を命じられながら、学期末が近づいていて日本にも行くので休講にも出来ず、結局学校には通ったが、学生たちは笑うとこちらが痛いのが分かっているので、出来るだけ笑わないように努めてくれた。ところが、そうすると余計皆が可笑しくなって笑ってしまい、肋骨もジャラジャラ音を立てて笑ってくれる、という悪循環でもあった。ともかくあんなことはもう御免である。普段、どれほど健康を享受して暮らしてきたのか、痛感する毎日が続く。
先月の肋骨骨折の折、一週間経って救急病院に駆け込んで、医者に呆れられた。一週間経って生きているのだから運が良かった、大丈夫だと真面目な顔で言うので、妙な冗談を言う女医だと思っていたが、その後かかりつけ医の再診の折にも全く同じことを言われたから、あれは冗談ではなかったのかと気が付き、初めて青くなった。ここ数日俯せにもなれるようになったし、かなり恢復が進んだ感あり。
ゼレンスキー、仏機で来日。早足でタラップを降りる姿が印象的。つい先日、ローマを訪れたばかりだが、今回のG7に向けて色々と詰めの調整をしていたのかも知れない。

5月某日 三軒茶屋自宅
家人より、ピアノ・シティでの息子の演奏会は立派だった、今までとは意気込みが全く違った、と連絡あり。オーベルマンの谷やスカルラッティ、平均律、エオリアン・ハープなどのハーフ・プログラムで、数年前に左半身が麻痺していたのが信じられない。
メローニ首相、G7を切上げて水害被害対応のため帰国。この状況下で良く日本まで来たものだと、彼女の胆力をみた気がしていた。広島を発ってカザフスタンで給油し、そのままリミニに飛んだ。G7では、メローニが自分の携帯電話を取り出して、フィノッキオ山の土砂崩れのヴィデオを、スナク首相や、トルドー首相、フォン・デア・ライエン委員長に大統領に見せている様子が報道されていた。イタリアから政府要人が日本を訪れているさまを、イタリアの報道でその動向を追うと、少し不思議な感覚に陥る。EUをはじめ各国から支援の申し出を受けたが、まだ被害状況を把握すらできていないと話す伊女性首相の姿は、まるでローマの記者会見場で話しているようで、日本を訪れている実感は殆どなかった。
日本の報道では、皆が揃って会議に臨むさまや宮島の記念撮影など、当然ながら別の視点で切り出されたG7の姿が映し出されて、興味深い。
メローニは原爆資料館の記帳で、「本日、少し立止まり、祈りを捧げましょう。本日、闇が凌駕するものは何もないことを覚えておきましょう。本日、過去を思い起こして、希望に満ちた未来を共に描きましょう」としたためた、と報道されている。イタリア人らしさが感じられて、正直、なかなか良い文章だと感心したが、「本日、闇が凌駕するものは何もないことを覚えておく」、の下りは、原文はどう書かれていたのだろう、と思う。「本日」、というのも、おそらく「oggi」の直訳なのだろうが、真意が量りかねたのでイタリアの新聞を読む。
Oggi chiniamo il capo e ci fermiamo in preghiera. Oggi, non dimentichiamo che l’oscurità non ha l’ultima parola. Oggi ricordiamo il passato per scrivere, insieme, un futuro di speranza.
今日、いまここで、わたしたちはこうべを垂れ、ここに足をとめ、祈りをささげましょう。このような今日にこそ、暗やみが最後の言葉など握っていないことを、わたしたちは忘れてはいけません。今日、いまここで、わたしたちが経験してきた過去に、今一度想いを馳せようではありませんか。ともに希望に満ちた未来を描くために。

5月某日 三軒茶屋自宅
分からないことは、分かっていないことである。ソルフェージュ能力が低いのか、リゲティでもシューベルトでも、判然としない部分を少しずつ紐解いてゆけば、単に自分が分かっていなかったと自覚するだけだ。分らない部分も、聴こえない部分も、理解していないから、分からない。理解していないから、聴こえない。当然ではあるが、身につまされる。
リゲティのリズムにしても、自分が解らないのなら、因数分解のようにして単純な言葉に置き換える手間を、決して煩わしく思うべきではない。

5月某日 三軒茶屋自宅
ソリスト合わせの後、蛇崩の沢井さん宅に寄る。コロナ禍があって、お目にかかるのは3年ぶりくらいだろうか。思いの外お元気な様子にすっかり安堵した。コロナ禍のように、本当に辛い時を過ごした時にこそ、我々の底から深い芸術が生まれると信じる、との言葉に深く感銘を受ける。
後から佐藤さんもいらして、先日の一柳先生の演奏会の様子を話してくださる。悠治さんが柱にしがみついて出す音が、とても芸術的で感動した、と繰り返していらした。

5月某日 三軒茶屋自宅
神奈川フィルリハーサル終了後、練習場に程近い星川杉山神社に寄る。参道入口の「杉山神社」と書かれた鳥居の写真を撮っていると、「お参りですか、ようこそいらっしゃいました。どうぞゆっくりしていってください」と、突然背後から神主と思しき男性に突然声を掛けられる。
そのタイミングと台詞が、まるで杉山神社の神さまに歓迎されたようだったので、吃驚もしたが、大変愉快であった。
なかなか落ち着いた趣を湛えていて、大変居心地のよい神社であった。同姓の誼みか、厳めしさを感じさせない、素朴でしっとりした印象を受けた。
そのまま町田の両親宅に足を伸ばし、先日母に贈ったPCのセットアップをして、金目鯛の兜煮と、自家製きゃらぶき、山芋ソテー等々、豪勢な晩餐に舌鼓。美味。

5月某日 三軒茶屋自宅
オーケストラ練習後、矢野君の結婚祝、近況報告を兼ねて、桜木町の駅ビル食堂で夕食。日本に帰国して2年で目覚ましい活躍ぶりだと目を見張る。現在18歳になった息子のことも、矢野君は5歳くらいから知っているのだから、思えば長い付き合いである。
軽い出血なのか、左眼の充血がここ2,3日続いていて、少し見にくい。この2か月、肋骨恢復のため、出来る限り躰を動かさなかったためか、立ったまま何時間かリハーサルをすると今まで身に覚えのないような困憊にも見舞われた。

5月某日 ローマ行機中
昨日の演奏会が、実に引き締まった良い演奏になったのは、オーケストラの力量は謂うまでもなく、コンサートマスターの戸原直さんに負うところが大きい。本番はとても演奏が収斂していて、月並みながら、室内楽を愉しむような面白さに酔った。副指揮の小林さんも実に的確で優秀だったから、すっかり甘えて助けてもらった。垣ケ原さん曰く、ソリストのMINAMIさんは数住岸子を思い出した、と形容していらしたけれど、なるほどその通りである。彼女の気迫と音楽の推進力にはすっかり舌を巻いた。
演奏会まで出来るだけ身体を庇いながら振っていたが、流石に本番はそうもいかず、リゲティで振り絞るような大音量を引出すところで、思わず左半身にも力を籠めてしまい、左胸が疼きながらシューベルトを振っていたので、すわ大事に至るかしらと焦ったものの、どうやら大丈夫のようだ。思えば、日本で指揮の仕事があるが大丈夫かと医者に相談した際、あなたどうせ右手で振るんでしょ、左手を使わなきゃ大丈夫よ、とイタリア人らしく軽くいなされたのが功を奏したとも云える。
演奏会1曲目のレスピーギを振っているとズボンがどんどんずり落ちて来て、内心困り果ててずっと腰のあたりを押さえて振っていた。先月から5キロも痩せたので、考えてみれば当然なのだが、慌ててレスピーギの後、袖にいらした鎌形さんにベルトを貸してもらい事なきを得た。
今朝、羽田に向かう前に、高野耀子先生宅で朝食をご一緒したが、頗るお元気で安心した。カラ元気よと仰るけれども、病気は気からとも言うから、カラ元気も強ちわるい遣り口とも思えない。ピアノを弾くとき、譜めくりが不便なので、AIで弾いている部分を認識させて、そのまま少しずつ後ろにスクロールしてゆく譜めくり機があると良い、と発明家のご友人に頼んでいるそうだ。
日本文化について。たとえば、畳は隣の部屋でも、隣の家であっても入れ換えて使える。西洋ならば、簡単に隣の部屋の床と入れ替えるという発想はない。和服は、生地を縦に裁っているから、さまざまな体型に合せて着付けが可能だが、洋服は、体型に合せて生地を曲線で裁つから、使いまわしが出来ないし、すぐに傷まないように生地を上下に入れ替えながら使ってゆく。もちろん、雑巾から襁褓にいたるまで、無駄なく再利用してきた。そんなお話を、十穀入りパンにカシス、チェリーとイチジクのジャムをつけていただきながら伺う。美味。
羽田空港では海老名さんを初め、以前のアリタリア成田スタッフの皆さんと、3年ぶりの再会を喜んだ。

5月某日 ミラノ自宅
昨日は朝8時半から夜8時半まで学校。2か月ぶりに自転車に乗り、ちょっとした感動を覚えた。朝は指揮レッスン、午後は聴覚訓練、夜は映画音楽作曲科試験。家人は今日から日本。晩御飯を食べながら、息子より、お父さんはどうやって作曲しているのか、旋律を思いつくのか、和音とか和声とか?と畳み込まれて言葉に窮す。モスクワ郊外にてドローン攻撃。暗やみが最後の言葉なんて握っていない、あらためて、そう信じたいと思う。

(5月31日ミラノにて)