しもた屋之噺(268)

杉山洋一

このところ、ミラノは本当に酷いにわか雨に見舞われています。スコールと言った方が近いように思いますが、実際は、酷い雨と風のなか雷があちらこちらに落ちる、轟音を立てて大粒の雹がふりつもり、街路樹は暴風で倒れていて、まるで世紀末的な情景です。驚くほどの降水量に道路は排水が追い付かず、歩道の高さまで水たまりが広がっています。その中を自転車を漕いで学校へでかけるのは、何ともデカダンスですし、気温もあまり上がっていません。異常気象と片付けるのは簡単ですが、これを引き起こした原因が、本当に我々にあるのなら、これから先、地球がどうなってゆくのか、一抹の不安を感じざるを得ません。

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5月某日 ミラノ自宅
一昨日、母は初めて平塚に住む従兄の操さんを訪ね、せつさんの話を随分聞いたという。生前のせつさんの様子を知る親戚も、もう操さんだけになってしまった。秦野だか鶴巻温泉あたりまで娘の美和さんが迎えにきてくださって、そこから車で平塚の操さん宅へ向かった。母が一人で、小田原までゆき、東海道線で平塚まで行くのは難儀だと心配していたから、とても嬉しい。
どういうわけか、このところ息子がよく話しかけてくる。怖いものやら、飛行機の揺れが怖くて、遺書を携帯電話に書いたとか。
それを無事に残すために呑み込もうか、などと考えていたらしい。
ずいぶん長い間リスがベランダの石壁の上にぺたりと身体を伸ばして日向ぼっこしている。なんだか、飛んでいるモモンガのようだ。小刻みに動いては身体の向きを変えるのだが、いわゆる、ネズミとゾウの時間のように、リスにとっては、のんびりと少しずつ身体を動かしている感覚なのかもしれない。ダルフールの人道状況悪化。

5月某日 ミラノ自宅
朝から日がな一日学校。漸く一曲譜割りが終了。全く先が思いやられる。
RAI(イタリア国営放送)大規模ストライキ。アナウンサーなど全てストライキに参加していて、ラジオもテレビもすべて前以て用意された収録番組を放送している。4月25日、イタリア解放記念日の放送内容に、メローニ政権側からの指導と検閲があったことへの猛反発と、妊娠、病気等の欠員分の補充をせず、他の労働者がしわ寄せを受けているという。
ハマスは停戦受入れ発表。イスラエルは反発。米イスラエル向け武器輸出停止を発表。

5月某日 ミラノ自宅
家人のニグアルダ病院、ジャルダ先生の診察に付添う。診察室は10年近く前、息子が入院していた北病棟にあって、息子がリハビリに通った、2階のフランカ先生の施術室もあった。尤も、フランカはもうリタイヤしたから、入口が開け放たれていた当時のフランカの部屋は、違う器具が置かれていた。
ドナトーニが最後に入っていた病院もここだし、彼が亡くなり夏の暑い盛りに一人、地下の霊安室を訪れたのもこの病院だった。

5月某日 ミラノ自宅
日がな1日学校。映画音楽作曲コースの指揮法試験。皆、見違えるほどさらいこんであって、すっかり驚いてしまった。
夜、受講生の一人、アレッサンドロから、授業に参加した皆がものすごく喜んでいます。この授業のお陰で、作曲の方法も音楽に対する考え方も変わりました。本当にありがとうございます、とメールが届く。
夜半、ボローニャに住むクラリネットのラヴァ―リアから「おい、お前RAIのテレビに出ているよ」とメッセージが届く。不思議に思ってテレビをつけると、確かに2000年にエミリオと一緒にやったノーノのプロメテオ公演の抜粋映像が流れていて、当時の自分の指揮は、格好だけは今よりエミリオに似ているけれど、圧倒的に音楽に横幅が足りない。推進力を全開にした細身の潜水艦のようである。何より四半世紀経ち、自分はずいぶん肥えたものだと呆れる。

5月某日 ミラノ自宅
「星雲」譜割りを途中までやり、諦めて庭の芝刈りをする。このまま芝刈りをせずに日本に戻ったら、月末には芝が育ち過ぎて簡単には刈れないからだ。「星雲」のフレーズ決めは大変だろうと想像はしていたが、文字通り遅々たる歩みである。母の日に因んで、町田に鹿児島のさつま揚げを贈った。

5月某日 ミラノ自宅
朝、学校へ出勤前に「星雲」譜割りを終え、マックマホーン通り角の喫茶店でコーヒーとパンを購い出勤する。聴覚訓練の授業の最後に、いつものようにシャランを皆で歌い終わると、今日は学生の間から自然と拍手が沸き起こった。どうやら学生たちはよほど曲が気に入ったようで、何故シャランを知っているのか、彼が他にどんな曲を書いたのか、まだ生きているのか、と矢継ぎ早に皆から質問を受ける。シャランと仏語風に発音する輩もいれば、チャッランと伊語読みする学生もいるが、さまざまな作曲家の倖せの形があるものだと感慨深くおもう。夕方、サンシーロ病院にて家人のレントゲン予約。

5月某日 ミラノ自宅
どうにも解せないので、イタリア内務省のサイトで住民票をくまなく調べ、ミラノ市役所の住民票には家人が同居人として登録されていないとわかる。当方、未婚でも既婚でもなくて、「不明」となっていた。最初に家人がイタリアに住み始めたときのビザは、家族を呼び寄せるためのビザだったから、当然夫婦として受け入れられていたのが、どこかで書き換えがおざなりにされて、未だ彼女だけ以前のモンツァに住民票が残っているらしい。尤も、家人は「未だわたしたちは結婚していなかったのよ」と、息子に面白そうに話している。「それでこれからどうなるの」と息子が尋ねると、「お父さんとお母さんはこれからまた結婚するのよ」と嬉しそうである。

5月某日 三軒茶屋自宅
目の前の小学校校庭で、毎日、運動会の応援合戦の練習をしている。自分が小中学生だったころの応援合戦を思い起こすと、長い学生服を着て、声を嗄らした応援団員が思い切り胸を張って叫んでいて、改めて考えてみれば、何とも不思議な伝統である。尤も、今はずいぶん円やかになった。その昔、時々日本の学校に通っていた息子は、どんな心地で参加していたのだろう、ともおもう。イランのライシ大統領が墜落死。イスラエル、ネタニヤフ首相が国際刑事裁判所から戦争犯罪人として告訴の可能性との報道。

5月某日 三軒茶屋自宅
戦争では一人でも多く殺した方が英雄になると信じて疑わなかったが、ネタニヤフ首相告訴のニュースを聞くと、これだけ簡単に情報が共有できる現代においては、一概にそうとも言いきれないのかも知れない。パレスチナとの共存を選択して、彼らの生活をより豊かにすることこそ、イスラエルを利するように思うが、それは素人の浅はかな理想論なのだろう。

5月某日 三軒茶屋自宅
イタリアのニュースでは、アイルランドがパレスチナを国家として正式に承認したことがセンセーショナルに報道されている。スペインとスロベニアも続く予定だそうだ。同日、ノルウェーもパレスチナ正式承認を発表。せめても平和に役立ちたいのだ、との政府のコメントが書かれている‘‘。

5月某日 三軒茶屋自宅
東フィルはいつも明るく肯定的な雰囲気で、音は情熱的。そのお陰で、こちらは練習をすっかり楽しんでいる。
帰宅してRAIのストリーミング放送をつけると、国際司法裁判所で、ネタニヤフ首相を戦争犯罪で告訴する映像が延々と生中継されていて、関心の高さがうかがえる。大戦中の日本は、今のイスラエルに近い感じだったのだろうか。結局誰であれ、自らのDNAの一部に、通常では想像もできない狂暴性がセットされているのかもしれない。

5月某日 三軒茶屋自宅
練習が終わって、夜、町田の実家へ食事に出かけた。江の島で揚がったかますを焼き、カボスを搾って頂くと、大変美味であった。久しぶりに口にする蕨も、適度なえぐみが実にうれしい。イタリアメローニ政権、EUで初めてパレスチナのムスタファ首相を公式に招待。

5月某日 三軒茶屋自宅
マーク・アントニーは、とてもチャーミングで深い音楽家であった。楽譜の表面ではなく、実際に音になったとき、自分の心に何が伝わってくるのか、それを大切にしたい、と話していた。ドレスリハーサルが終わり、チェンさんは、感激して思わず泣いてしまいました、と皆に話した。
ロベルト・ベニーニ、世界子供の日のためのモノローグを、ヴァチカンのローマ法王の前で演じたことが話題になっている。
「お前たち、どこまでも深く善人であれ、イエスは言ったよね。それが人生というものなんだ。愛なんだ。人の悲しみを理解して、限りない深い憐みをおぼえる。だからね、世界が君たちにやさしく手をさしのべるのを待っているのではなくて、君たちが世界に手をさしのべて、やさしくしてあげてほしいんだ。せめて、君たちのすぐそばにいる人を、愛してほしい。愛するんだよ、いいかい。誰でもいいから、君たちの傍らにいる人を、愛するんだ。善良な人間でいてほしいんだ。愛して欲しいんだ。愛すること、みんな、愛ってなんだか知っているよね。君たちが愛をなんだかわからないと言うのなら、君たち自身が愛そのものなんだよ。まさに君たちが目に見えるようになった愛そのものなんだ。子供たちは、目に見えるようになった愛なんだ。だから、もし君たちが愛がなんだかわからない、といってしまったら、一体だれが愛を説明できるっていうんだい。君たちのお父さん、お母さんもよく知っているよね。君たちがすごくちっちゃかったころ、ゆりかごをやさしく押してくれていたでしょう。覚えているでしょう。ある有名な詩人はね、こう言ったんだ。揺りかごをおす手こそ、世界をおさめる、ってね。その通りだよね。でも、慈悲が、愛がなにかを知らないような人たちが世界をおさめて、実に愚かな罪をおかすこともある。戦争だ。戦争。よく聞いてほしい、この言葉がどんなに汚らわしいか。戦争!君たちの前で、君たちと一緒に、この広場で、とにかく汚らしく、すべてをどす黒く塗りたくる言葉だ。まったく聞いてられない。戦争!絶対、こんなことは終わりにしなきゃいけない。子供たちが戦争ごっこをするときは、誰か一人、子供が傷ついたらやめるでしょう。戦争ごっこはおわり。それなのに、戦争がはじまり、最初の一人の子供が辛い思いをしているとき、傷ついたとき、どうして戦争をやめられないんだろう。どうして?どうしてなんだ。なんて卑怯なんだ。アメリカの詩人イヴ・メリアンは、生まれてくる子供が、お母さんに、戦争っていったいなあに、って聞くような世の中が夢だと言ったんだ」。
ライフ・イズ・ビューティフルと全く同じ口調で、飄々と、少し畳みかけるように我々に語りかけ、我々の胸を抉ってゆく。全世界からあつまった、小学生くらいの子供たちへ向かって語りかけていて、言葉はしごく簡単なのに、涙がこぼれた。家人と一緒に国営放送を眺めていて、家人がいみじくも、なんだか齋藤晴彦さんみたいね、と呟いた。

5月某日 三軒茶屋自宅
沢井さんと佐藤さんによる、「待春賦」録音。沢井さんは、弾けば弾くほど音に力が漲る。二重奏だが、できるだけ二人の音が重ならないよう互いに心を配っていて、二つの楽器から繰りだす二本の糸は、一つに縒りあげられてゆく。沢井さんの名前を数字に読みかえながら調絃を決めたが、書いた時期もプロセスも全く違うのに、どこか先日の野坂さんのための「夢の鳥」に似た響きがするのが不思議であった。
夜Sさんから、本番の演奏のあとホセが涙を拭っていたと聞く。作曲家が音を書く作業の深さ、それは一体何に喩えることができるのだろう。

5月某日 ミラノ自宅
昨日は日がな一日、学校で今年最後の指揮のレッスンをやり、今日は朝早くからシャリーノに会いにいった。朝7時の特急でフィレンツェへ向かい、駅構内のバールで朝食を摂ってから急行でアレッツォに向かって、車でチッタ・ディ・カステッロを目指す。日帰りは流石に強行軍だが、他に仕方がなかった。
パスタチェーチとパンを削ってクスクス状にしたウンブリアの郷土料理に舌鼓をうちながら、Infinito NeroとDa gelo al geloは舞台ではなく、映像、つまり映画として作りあげたら自分の考えていた世界に近いものができる、と話していた。「ファウストの劫罰や、メフィストフェレスだって一緒でしょう。舞台で作曲者が望んだことを実現するのは、限りなく不可能に近い」。
シャリーノの最初期作「あかあかと」は、いつか浄書をしようと思いつつそのままになっていて、今実演しようと思っても、演奏するマテリアルがないそうだ。「あかあかと日はつれなくも秋の風」をはじめ、彼が日本文化に感化されたのは、まだわずか12歳のころ、先生から芭蕉の句集を見せられてからだという。

5月某日 ミラノ自宅
ずっと長いあいだ学校の隣の部屋で室内楽を教えていたMaria Di Pasqualeが亡くなった。暫く前にクモ膜下出血でたおれ、そのまま昏睡状態が続いていた。ブラジル音楽が好きで、自分でアンサンブルをつくって、振ったりすることもあり、少しでも時間ができると、こちらの部屋にきてじっと見学していた。時間が余裕があるときは、何度か指揮の手ほどきをした覚えがある。親しかった友人からユダヤ教に興味を覚え、改宗試験を経て無事ユダヤ教徒になっていたはずだ。
スロヴェニアがパレスチナを国家として正式承認。トランプ、有罪決定。

(5月31日 ミラノ自宅)