しもた屋之噺(269)

杉山洋一

すっかり今までの気候の感覚がずれてしまうような、肌寒い6月が過ぎました。本当に今までなかったほど雨が良く降ったので、庭の樹もよく葉を繁らせているし、芝も奇麗に生えそろっています。毎日のように、ひどい夕立が降り、その度にミラノの街並みは冠水していました。夕立といっても、嵐と呼べばよいのか、竜巻一歩手前というのか、雨と雷と風が吹き荒れる、見たこともない一カ月が過ぎていったのです。冬に羽織った薄手のジャンパーをいつも携えているのも初めての経験で、何か今まで回っていた歯車がずれてきているのを感じます。

6月某日 ミラノ自宅
サンドロの家を借りて、久しぶりの指揮のプライヴェート・レッスン。7月初めにティラナの音大で卒業試験を受けるFが朝早くからレッスン。
アルバニアの音大でレッスンをしたから雰囲気はわかるが、指揮者と演奏者は常に距離を保って交わらないのは何故だろう。販売されているCD録音を使って指揮のレッスンをすることも多いと聞いたが、その影響か。その昔、アルバニアとソヴィエトの国交があったころ、音楽教育も大きく影響を受けたそうだが、指揮はどういう位置にあったのだろうか。F曰く、アルバニア最初の交響曲はザデーヤが1956年に書いた交響曲第1番だ、と力説していたが、あれほど古い歴史のある国で1956年まで交響曲が一切生まれなかったのが、どうにも解せなかった覚えがある。
1939年から43年まではイタリアが統治していて、ティラナにはファシズム建築も残されているのに、56年以前まで大規模な管弦楽作品そのものがなかったのは信じられない。F曰くアルバニアは民族音楽が盛んなので、クラシック音楽の定着が非常に遅かったのだそうだ。

6月某日 ミラノ自宅
家人と二人、自転車を漕いでサン・パオリーノ通りの市役所出張所にでかけた。家の前にあるミラノ・アレッサンドリア線の線路とナヴィリオ運河をまたぐドン・ミラーニ陸橋は、足が本調子ではない家人にあわせ、自転車を押してゆく。
ファマゴスタ駅手前で横道に入りしばらくゆくと、少し古めかしい、どこか打ち捨てられた佇まいの団地群があって、出張所は団地のアーケード一角にあった。予めインターネットで予約をとって家人の住民票登録がされていない、と相談にでかけたわけだが、お世辞にも親切ではない窓口の女性曰く、必要な書類をもってくれば今からでも作ってあげます、というので、家人を残して一旦家にもどった。怪しげな場末の出張所だからか、意外に融通が利くのである。
結局3,4時間かかってしまったが、家人の住民票登録は無事完了して、近くの喫茶店でフレッシュジュースを飲んで家に戻った。面白いのは、住民登録はできるが、夫婦としてではなく、同居人として取敢えず今日は登録しておくわね、と言われたことだ。20年前、家人をイタリアに呼び寄せる時に作った、公印、アポスティーユ付きの結婚証明書を持って行ったが、それでは古すぎて現在の婚姻関係を証明できないと言われた。婚姻証明書は3カ月しか有効ではないらしく当然だろう。書類ですら3カ月以上の婚姻関係は保証できないということだ。まあ、とにかく奧さんをミラノに入れてあげることが先だから、と妙に頑張ってくれる。同居人か夫婦かの肩書の違いで、税金の支払いや権利には一切の違いは生じないという。
よくわからないのは、その昔、モンツァから引っ越した際、何かの手違いで彼女の分の住民登録がこぼれてしまったにせよ、しっかり国民健康保険証はミラノ市から発行されていて、無償のがん健診など、定期的に市からお知らせが届き、市から家人のためのかかりつけ医も決められていて、無償でレントゲン撮影のための保険局のチケットなどは、そのかかりつけ医がいつも書いてくれている。管轄が違うと言われればそれまでだが、ここまで書類が電子化されそれぞれ簡便に共有されているのに、まだ紙で書類していたころの名残がそこはかと感じられて、少し懐かしいような切ないような不思議な心地だ。
家人より、垣ケ原さんが手首を骨折したと聞き気を揉んでいた。電話をかけても出るのが大変ではないか、メッセージを書くのも大変ではないかと逡巡しながら、結局お見舞いのメッセージを送ると、すぐに返事が届いたから、少し安心した。中央スーダンでRSF(即応支援部隊)により100人余り死亡との報道。

6月某日 ミラノ自宅
今日は日がな一日、学校で聴覚訓練クラスの試験であった。一人20分程度かかるから、朝9時から始めて、夜の7時半までかかった。こちらはずっとピアノの前に座って質問をだしていて、一人終わる毎に、学生は一度外にでて、マルレーナとクラウディアと3人で点数を決めるまで待ってもらう。よく出来る生徒であれば、ものの5秒か10秒ですっと点数が決まるが、そうでなければ、どことどこを間違えたから何点相当だが、前の何某には何点を出したからこのくらいが相当だ、などとていねいに話し合うことになり、紛糾すれば5分とか10分とかかかることもある。それから、学生を呼び込んで、われわれはこの点数を提示するが、受け入れるかどうか尋ねる。提示された点数に納得できなければ拒否ができて、次の試験シーズンに再試験となる。
教え始めたころは、このやり方がどうにも不思議だったが、大学の卒業時の成績に少なからず影響を与えるから、仕方がないと思う。入学時から積み重ねてきた一つ一つの試験の成績の平均点から卒業試験の最低点が決められ、そこに最終的に審査員が何点足すかで、卒業時の点数が決まる。卒業試験で審査員が足せる最高点は7点で、学院長だけが特別に何点か足す権限を持つ。110点が満点だが、それまでの試験の平均が27点なら卒業試験の出発点は101点となり、卒業試験で最高点をとっても108点となる。論文や口頭試問もあるから明らかに外国人には不利だろう。尤も、点数を気にする学生もいれば、実力に自信があって、卒業時の点数など意にも介さぬ学生もいる。
日本の大学は4年生だが、現在イタリアの音楽院では、大学課程と同じく、3年でまず学士号のディプロマがあって、その後2年間の研鑽を経て修士のディプロマをとる。今日の試験はほとんどが「トリエンニオ」とよばれる学士課程の学生だったが、数人修士課程の学生も交じっていた。
とあるイタリア歌劇場のオーケストラで弾いているフランス人がいて、イタリアのオーケストラに就職するためイタリアのディプロマが必要だとかで、今年から修士課程に登録している。去年の秋に学校から電話がかかって来て、彼は演奏に忙しくて通えないが、優秀な演奏家なので、能力には問題ないだろう。どうか試験だけ受けさせて通学したことにさせてやってくれ、という。よく出来る学生がわざわざ授業で時間をつぶす必要はないと考えているので快諾したのだが、その学生が今日の試験にやってきてみると、驚くほど全く何もできなくて、我々は頭を抱えてしまった。
授業には通えないが、コロナ禍の遠隔授業のためにつくったヴィデオで自習する約束ではあったが、哀れなくらいに出来ていない。それどころか、こんな難しい課題はできない、フランスではこんなことはやらない、などと不平までこぼすものだから、同僚もすっかり怒り心頭である。
彼の性格なのだろうが、なるほどフランス人がイタリアの教育機関をどう見ているのかも垣間見られて、「あらあら、おフランスはよほど文化水準が高すぎて、何もできないのかしら」と、フランス人の口真似をしながらフランスを貶す同僚たちの姿にも、普段は隠している複雑なイタリア人の本心を覗き見たようで興味深かった。外国語に堪能な彼女たちがあんな風に話すのを見たのは初めてである。
もちろん、フランス人学生は今まで何人も教えてきたし、イタリア語もみな上手で、言われなければ気が付かないことすらしばしばである。同僚たちがこうした学生を批難するのは見たことがない。
イスラエル軍ガザで4人の人質救出成功。奪還作戦に巻き込まれて死亡したパレスチナ市民は、210人死亡とも274人とも報道されている。何が正しいのか、間違っているのか、誰が正しいのか、自分の頭で考えることすらむつかしくなってきている。
欧州議会選挙では極右政党Fratelli d’Italiaのメローニ首相のイタリアはじめ、ドイツ、オーストリアなど右派の台頭が顕著であった。フランスでは極右政党「国民連合」が与党連合に圧勝、マクロン大統領は下院解散総選挙発表。

6月某日 ミラノ自宅
試験の翌日、エルノに住むピーターを訪ねる。コモからベッラッジョ行のバスに乗り、湖畔沿いをしばらく走ってネッソの瀑布を超えたところで右に折れ、ティヴァーノの方へと山道を登る。ピーターは途中のネッソ停留所から乗り込んできた。バスと言っても乗客は6人ほど、そのうちの3人はアメリカ人の観光客で、ピーターと知合いだった。ピーター曰く、昨日彼らがネッソで路頭に迷っているところを助けてあげたらしい。
ネッソからそのまま湖畔を走れば、次の町がレッツェノになる。6、7年くらい前まで、息子を連れてよくここの湖魚料理屋に通っていた。レストランの経営者が漁師で、週に何回か湖でとってきた魚を食べさせてくれるのが、実に美味であった。そうして食後、腹ごなしに、近くの浜を散歩して、息子と湖面に石飛ばしなどして遊ぶのが楽しみだった。
エルノは、ネッソからバスで20分ほど山道を登った先にあって、ネッソの滝の源流にかかる古いアーチ橋の手前が集落の入口になる。ここを登った先が自由広場で、ここから眺めるとエルノはこじんまりとした集合住宅が固まる、そこそこ立派な村に見える。このすぐ先にあるヴェーレゾ村に属するエルノ集落という扱いになっていて、村に住民登録されている人数はわずか50人足らずだというのが信じられない。ちなみに店は一軒もなく、8割以上がセカンドハウスか、空家なのだろう。
食料を買うためには、ネッソかヴェーレゾに出かけるしかないそうだが、ピーターの近所に住む恰幅のよいシニョーラ・アンジェラなどは、ネッソからときどき食料を宅配してもらっているらしい。ピーターはパン焼き機を購入して、自分でパンを焼いていた。
このあたり独特の細い石造りの路地が集落中を縫うように張り巡らされていて、咲き乱れる薄紫のラヴェンダーが美しい。その前の建物には、消えかかった屋号が「某食堂」と辛うじて読める。その隣の建物には、「某精肉店」とも読める。その昔この集落にも活気があったころを偲ばせるものだ。
隣のヴェーレゾ村へ徒歩で向かうには、トレッキング靴で、さきほどのネッソの瀑布源流を踏み石伝いに渡ってから、そこそこ急峻でぬかるんだ山道を登るしかない。街灯などどこにもないから、暗くなったときには、頭に懐中電灯を巻いて歩く。一度、ピーターがこの山道から滑落したときは、山岳救助隊がヘリコプターで救助にきて、病院に搬送されたそうだが当然であろう。
ピーターの家の窓からは遥か眼下にコモ湖が、そして目の前には雄大な山々がひろがっている。空気が美味しいねというと、まあ不便だけどとピーターは笑った。食事と打ち合わせを終えて、少し散歩をすると、シニョーラ・アンジェラ含め3人のご婦人が、幅2メートルもない細い路地の上り坂の中ほどで楽しそうにけたけたと談笑していた。50人足らずの住人のうち、ピーターを含めすでに4人に会ったことになるから大した確率だと思ったが、結局その後はバス停で1人見かけただけで、集落はずっと閑散としていた。ちなみに、50人のうち、ピーターがイギリス人、年金暮らしのドイツ人が一人、あとタッキの工場で働くアジア人家族が住んでいて、おそらく5、6人は外国人が交っているということだ。
ピーターが「こちら日本人の指揮者の方です」と紹介すると、「あらそれならアレーナ野外歌劇場で振れるといいわねえ」と言われる。どうしてここから近いミラノのスカラ座ではなくて、わざわざヴェローナの野外歌劇場が口をついてでてきたのだろう、と不思議に思っていると、目の前に7、8頭のヤギが放牧されていて、こちらの姿を見つけるなり、ビャアアアア、ビャアアアアと声を上げて寄って来る。その隣の路地には、1メートル強の小型の猪が5頭ほど群れていて、悠然と歩いていた。猪は野性だそうだ。
19時6分の最終バスでコモに戻ろうと「自由広場」で待っていると、15分過ぎてもバスが来ない。ただ遅れているだけかと思っていたが、どうやらバスはなくなってしまったらしい。ピーターは、「ヒッチハイクで、ネッソまで乗せてもらおう」と橋のところで、親指を立てて暫く立ってくれていたが、一台も止まる気配はなかった。車の運転手からしても、事情がわからず不気味な二人に見えたに違いない。
仕方がないので、橋のたもとから少し下った先までピーターに送ってもらい、徒歩でネッソまで下ることにする。
「ここからひたすらまっすぐ歩いていってね、どこまでもまっすぐ行って、突き当ったらOnzanigoを探して」と不安そうに言われ、これを持って行って、とトレッキング用の杖を貸してもらう。
ネッソからエルノまでの車道は多少勾配はきつかったが、きれいな道だったし、湖畔まで出ればあとは何とかなる、と気軽に考えていたのが間違いであった。
歩き出して暫くゆくと、先ほどの8頭のヤギの放牧地の端にでて、相変わらずビャアアアアとけたたましく鳴き声をあげていたが、とにかくそこを過ぎたあたりから、俄かに雲行きが怪しくなった。想像をはるかに超える下り坂で、杖がなければ簡単に転びそうである。このところずっと酷い雨が続いていたから、ぬかるんでいるところは滑りやすい。足場の左側は急峻な山腹で、そのはるか奥には、先ほどの沢だか川だかの激しい水の音が聞える。携帯電話の電波はほぼ入らない状態でバッテリーも切れかけている。一番の問題として、日が暮れたら万事休すであった。
こんなところに来るとは想像していなかったから、普通の靴しか履いていない。これではさすがに危ないし心許ないこと極まりない。ここで足を滑らせても、救助を呼ぶことすらできないが、日暮れは近づいているから、出来るだけ早足でひたすら下ってゆくが、どこまで行けども湖の陰すら見えない。歩いていると、さきほどの猪の群れを思い出して、嫌な気分になる。普段なら猪はかわいいと思っているが、こんなところで5頭の猪に出会って、突き落とされたらどうしようもない。最近日本では、山でクマに襲われたニュースが頻繁にきかれる。ネッソの山で最終バスに乗れず山道を歩いて熊に襲われ行方不明、ではさすがにやりきれない。
南無妙法蓮華経とおもいながら歩き続けると、途中ふと高い梢が絶えて見晴らしのよい場所に出た。眼下を眺めると、足下まだ遥か彼方にほんのちらりと夕日が湖面が光ったときには絶望しかけたが、今更エルノにもどっても日が暮れることには変わりがない。ここで猪や熊の餌にはなりたくない一心で必死に下り続けると少しずつ足場がしっかりしてきて、間もなく家が見えて、ああ助かったとおもう。
ちょうど道がつきあたりになった辺りに、一人坂を上ってくる年配の男性がいて、彼にOnzanigoの通りを教えてもらった。バス通りまではまだここから暫くある、ということだったが、取り敢えず生きて帰れるとわかり、安堵しきったのか一気に疲れが噴出してきた。
幸い、バス通りまで出たところでちょうどコモ行のバスに乗れたので、さほど遅くならずにミラノに戻れたが、流石に動悸が止まらなかった。どのくらいの時間歩いていたのか、後から計算してみると、たかだか40分程度に過ぎなかった。バスで20分もかかるのを徒歩40分で降り切ったのは悪くない。
コモ行きバスの運転手に、エルノの広場で待っていたのだが最終バスが来なかった。あそこは通らないの、今日は何かで運休だったの、と尋ねると、隣に座っていた乗客が、その最終バスなら、その下のバス停を走っていくのを見たよ、という。運転手曰く、今日は特に運休の話は聞いていないが、運転手が広場まで上がるのを忘れたか、乗客なんていないだろうと寄らなかったのだろうよ。へえそれで、ネッソまで歩いてきたのかい。いやあ、そりゃあいい運動になってよかった、あっはっは、と明るく笑い飛ばされてしまった。家に帰って調べると、ネッソは海抜300メートル、エルノは集落のあたり海抜750メートル、エルノ山の頂上は海抜1050メートルにもなると書いてある。40分で450メートルも一気に下るのなら、それなりに見合った靴は必須であった。

6月某日 ミラノ自宅
ピーターの家を訪ねた帰り、コモ行のバスに乗った時のこと。最前列の乗客が運転手に盛んに大声で話しかけていて、どうやらこのあたりに住んでいるらしい。彼がコモ湖を訪ねる世界中の観光客を口汚く罵っていて、聞くに堪えない。運転手もうんざりしながら相手をしている。狭いバスに大きなトランクを平然と積み込み、年配者が立っているのに席の間にトランクを置く。とんでもないやつらだ。言っていることは尤もだが、あまりに汚い言葉が続くので、堪らない。
日本でも以前からオーバーツーリズムは問題になっているが、コロナ以前は各国ともに今ほど深刻な問題に捉えていなかったように感じる。何がきっかけで潮目が変わったのか。コロナ禍の不況解消か、精神的ストレスか、さもなければ地球の気候変動か。
日本のインターネットサイトでは、訪日欧米人の日本文化発見や紀行文、日本食のレポートが人気を博しているが、イタリアのサイトでイタリア人向けに、イタリア訪問中の外国人観光客のレポートは見たことがないし、あっても殆ど興味もひかないに違いない。
何しろ、ゲーテの「イタリア紀行」やアンデルセンの「即興詩人」を始め、文豪たちの文章には事欠かない。和辻哲郎の「イタリア古寺巡礼」は、今もミラノの自宅にしっかり本棚に並んでいるし、改めて読んでも実に深い文章だと思う。
「イタリア」と名前がつく音楽作品を羅列すれば、枚挙に暇がない。バッハ「イタリア協奏曲」、シューベルト「イタリア風序曲」、ベルリオーズ「イタリアのハロルド」、メンデルスゾーン「イタリア交響曲」、リスト「ヴェネチアとナポリ」、チャイコフスキー「イタリア綺想曲」「フィレンツェの思い出」、リヒャルト・シュトラウス「イタリアより」と、特に外国人作曲家が作った作品であれば際限なく続けられそうだ。それに比べると、イタリア人が「イタリア」と銘打ったり、「イタリア」をテーマに作った作品は、当然ながら限定的である。
元来イタリア人作曲家はロッシーニの「アルジェのイタリア女」のように、イタリアを一見茶化す性格のオペラのリブレットに、うまい具合にイタリア人やイタリア文化を忍び込ませていた例は散見できそうだ。第一、ローマ時代の神話などを題材にオペラを書けば、舞台は名指しされなくともイタリアを想像してしまう。19世紀になってヴェルディが、「アッティラ」や「シチリアの晩鐘」のようなイタリア各地の故事を使ってオペラを書き、国家統一運動の精神的な支えとなったのはよく知られている。そしてそれらは、過去の音楽文化の遺産の再評価へとつながってゆく。レスピーギの「リュートのためのアリアと舞曲集」などはこの潮流の先にある。その頃になると、文化と政治がかつてないほど近しい関係を築くようになり、結果として「ローマ三部作」やカセッラの「イタリア」のような作品に収斂されてゆく。
クラシック音楽における日本文化でよく知られているのは、「ジャポニズム」と呼ばれた異国趣味が高じたもので、遊郭に売られる少女を描くマスカーニの「イリス」や、芸者が主人公のプッチーニの「蝶々夫人」だから、日本の文化や風土との関わりは二次的なものになる。カウエルの「富士山の雪」も、蛾の姿をした少女の魂が富士山を登ってゆく姿に霊感を受けているそうだ。
プーリア州でのG7サミットに於いて、フランシスコ法王が人工知能に言及。今後更なる不公平を生む可能性があると懸念をしめした。
パリ郊外のクルヴェヴォワの公園で、12歳のユダヤ人少女が、12歳の少年1人、13歳の少年2人より「汚いユダヤ人」という理由で性暴力被害をうけた。加害者の年齢があまりに低いため、どのように扱われるのか、さまざまな意見が噴出している。
息子が小中学校時代、仲の良かった友人二人の家に、或る早朝、突然警察が訪ねてきたという。警察がまず彼らに通告したのは、ここで自主的に隠し持っているものを警察に渡せば減刑されるが、隠しているものを警察が見つけたら罪が重くなるということだった。果たして、二人は所持していた大麻を警察に差し出し、そのうち一人の少年は秤も提出したという。秤の所持は、使用しただけではなく、密売に関わっていたことを意味するのだそうだ。二人とも特に恵まれた家庭に生まれたし、何不自由なく育てられたのも知っている。本当に可愛らしい子供たちだった。仲間がデザインした服を着て、街角でグラフィティをスプレー書きする姿をSNSに投稿して、人気もあったという。

6月某日 ミラノ自宅
ミラノ大学の前の美容院に散髪に出かけた。自転車でスフォルツェスコ城辺りを通ると、親パレスチナのデモ行進が終わるところだったようだ。すごい人いきれで、辺りは厳重に警官が並んでいる。散髪中に、何とも不気味な、低いどよめきとも叫び声とも判然としない、奇妙な音があたり一面に響き渡った。
デモは終わりかけていたように見えたから不思議に思っていたのだが、帰りしな、ミラノ大学の入口からふと中に目をやると、大きな旗を掲げる親パレスチナを訴える学生たちが中庭一杯埋め尽くしていて、無意識に恐怖を感じて逃げ出してしまった。彼らが何か一言発すると、その界隈一体に重苦しいような、波打つようなエネルギーを持った音響が広がってゆくのだった。
考えてみれば、息子と同世代の学生たちだ。毎日のように学校で教えている学生たちだし、実際教えている学生のなかでも、ミラノ大学とダブルスクールをしている学生は何人もいる。パレスチナを支援したいのは充分理解できるが、この無意識に感じた恐ろしさは、社会がどうにも分断され、引き剥がされてゆくその途轍もない力を感じたからだ。
対ドル為替160円。38年ぶりの円安水準。もはや対ユーロでは為替は170円を超えるのが普通になりつつある。

6月某日 ミラノ自宅
家に帰っていると、出し抜けに息子から、好きな協奏曲はなにか、と問われ、はたと言葉に窮す。
特にこれが好きな協奏曲、という曲名は思いつかないが、好きな演奏家とよく聴いた録音は、三つ子の魂なんとやらで未だにどうしても切り離すことができない。一番最初の記憶では、ハイフェッツが弾くグラズノフの協奏曲で、いつも鳥肌を立てながら聴いた。今と違って当時はさまざまな演奏家を気軽に比較して聴けるような情報量もなかったから、どうしてもその演奏を繰り返し聞くことになる。コ―ガンの弾くショスタコーヴィチの1番や、オイストラフの弾くショスタコーヴィチの2番。当時あんなにレコードが磨り減るほど聴いた演奏を、それもヴィデオで演奏風景まで見ることができるようになるなんて、全く想像もできなかった。初めて見るコ―ガンの演奏風景は凡そ想像していたとおりの姿勢だったが、オイストラフが2番を弾いている姿は、レコードで想像している姿からはまるで違って、もっとずっと激しく、文字通り全身全霊で弾いていた。どちらもヴィデオが見られたのはちょっと言葉にできない感動を覚えた。エルマンの弾くハチャトリアンは個性的で大好きだったから、各箇所の独特の節回しのルバートまでよく覚えている。プロコフィエフの3番のピアノ協奏曲は、曲としては昔から好きだったけれど、本人が弾いている演奏を聴いて初めて全体の構成がよく見えた。こうしてつらつら思いつくままに書き出すと、案外ごく普通のクラシック愛好家の愛聴盤と変わらない気もするが、それを知って息子は果たしてどう思うのか。
対ドル為替は一時161円。米大統領選テレビ討論会で、バイデン大統領悉く不評。

6月某日 ミラノ自宅
フランス下院総選挙でマリーヌ・ルペン率いる極右政党「国民連合」躍進。最大政党となり、マクロンの与党は3位。
このところ、事あるたびに思う。我々はいま、1930年の少し前、今から100年前ごろの世界を追体験しているのではないか。作曲家たちが何を考えていたのか、何も考えていなかったのか。政治的に現在言われているのは正しかったのか、間違っていたのか、或いはそうせざるを得なかったのか。とどのつまり、自分は何を考えるべきなのか。若い頃、戦前戦後の逸話を読みながら、当時はどんな世界だったのかと想像を逞しくしていた。そして現在、半世紀以上生きて襲ってくる既視感は、本で読んだことのある一世紀前の世界の姿を、まるで追体験しているように感じるからだ。そう感じているだけならよいが、現実に追体験しているとしたらどうだろう。
市民のなかから、ナチスはどのように芽生えたのか、芽生えなかったのか。実際のところ、本心では、当時の社会をどう受け止めていたのか。本当に望んだのか、そうでなかったのか。どこかに恐ろしさを感じていたのか、無邪気に表面だけを見ていたのか。音楽家は政治とどう関わったのか、関わらなかったのか。綺麗ごとではなく、我々自身が今この状況をどう感じているのか。
ナチス傀儡政権下でフランス人は自身の文化の誇りをどう保ったのか、保たなかったのか。優れたインテリだったはずのムッソリーニは、結局イタリアの伝統文化の価値を正しく理解していたのか。カセッラやマスカーニやレスピーギは、それぞれファシズムをどう捉えていたのか。資料としてではなく、追体験を通して、我々自身が自分事として不可侵であった、当時の芸術文化活動を身をもって理解しようとしている。ローマ三部作の本来の意味も、今であればより現実的に感じられるかも知れない。
本で読みながら彼らは何を感じていたのかと自問していた部分を、我々は今、恐らく各人それぞれの思考をもって対処しつつあって、進むべき道を選択しつつある気がする。何が正しいとか正しくないではなく、イデオロギーだけでもなく、究極としてこれは純粋に各々の人生の選択なのかもしれない。
仕方なく世情を受け容れ、迎合した芸術家、市民も多かったに違いない。それを今、我々は追体験している。我々が歩んでいる方向は、全世界の人間が、ほぼ無意識に少しずつ舵とりに加担してきた結果なのだ。だから、それを覆すのは簡単ではないし、覆らないと思う。
自分は移民として外国にいるのだから、極端なナショナリズムには異議を唱えざるを得ないが、ナショナリズムが台頭する理由も、それに賛同する市民の気持ちも理解できないわけではない。実際自分の周りにいる人々は、こうしたポピュリズムを望んでいて、その結果が現在の世界を生み出している。尤も、民主主義といっても、文化や伝統に沿って、国ごとにそれぞれの形態をあらわすから、日本とヨーロッパの民主主義を凡そ比較するだけでも、内情は大分違う実感がある。正義を求めているのではなく、今まで自問してきた疑問を、自分自身で考え、答えを与えたいだけだ。そうやって、体内に溜め込んできた塵や澱を吐き出して身軽になりたい。まるで年代物のずっしりと重い外套を脱ぎ捨てるように。

(6月30日ミラノにて)