しもた屋之噺(282)

杉山洋一

日本も酷暑だと聞いていますが、ミラノも侮れません。天気ニュースによれば、今日の午後の最高気温は37度ということで、息子と二人、半地下の部屋に籠りきりになっています。酷い暑気にあたったのか、このところ、学校の同僚が立て続けに病院に運び込まれて緊急入院となっていて、先ほども学校から電話がかかってきて、昨日で今年の学校の仕事は全て終わったと一息ついていたところだったのですが、明日も試験官の代行にでかけることになりました。隣の部屋から聴こえてくる、延々続くシューマン、ノヴェレッテンのゼクエンツは、うだるような暑さと相俟って、あてどもなく魘されつづける今日の世界のようです。庭に出ると、太陽に反射して、あちらこちらできらきら金色に反射するものがあって、近寄ってみると、どれも暑さにやられた虫たちのうつくしい死骸なのでした。

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6月某日 ミラノ自宅
Rさんより一周忌法要のお知らせをいただく。今手掛けている作業は、Y先生が残したスケッチの挿絵を、自分なりに読み下すこと。「ゆめ」と書かれたその雲のどこかで、自分が書こうとしている無数の声と、先生が思い描いていた何かが、ほんの少しでも交わればうれしい。大気圏のずっと先、重力が薄くなってきたあたりで、穹窿のようにわれわれの天上を覆う、巨大な雲。誰もが見上げる空。乾いた土から仰ぐ空に、どこまでも無限にひろがっている。

6月某日 ミラノ自宅
学校の授業を早めに切り上げ、ジョゼッペがやっているセミ・アマチュア・オーケストラで、生徒5人が順番に振るのを聴く。自分とほぼ同じ年代のマッシモやジュゼッペを毎週、大学生と一緒に教えていて、こちらが学んだことこそ数えきれない。1時間弱のレッスンのために、学校のレッスンを終えてジェノヴァから通ってくるマッシモの情熱には、ただ敬服するばかりだ。個人的に数年前から彼に教えてきたが、思い切って、ミラノの学校への入学を勧めてよかったと思う。自分には情熱が残っているのか、齢と共に音楽への真摯な態度も消えかけていないかと省みることもあるが、彼らの情熱に寧ろこちらが励まされていて、感謝している。

6月某日 ミラノ自宅
もう10年以上前になるが、人権派ジャーナリスト、ガッド・レルナーとともに、ファビオ・チファリエルロ・チャルディの「受難劇」を上演した。ボローニャの音楽祭と、大地震の復興ままならないラークイラで、彼はファビオが題材にした社会問題について解説し、我々はその社会問題にインタビュー映像と同期する彼の作品を上演した。彼が昨日ローマの「ガザの虐殺をやめろ」集会で行った演説、「シオニストはファシストの意味ではない Sionista non vuol dire fascista, Netanyahu ci ha fatto anche questo」を見る。ガッドは、レバノン、ベイルートでユダヤ人の両親のもとに生まれ、イスラエル建国以前に現在のパレスチナ自治区に移住したユダヤ人だが、同じく名高いユダヤ人アーチスト、モーニ・オヴァディアとともに、激しく現在のイスラエルを糾弾している。「わたしが関わっているユダヤ人コミュニティは、ユダヤ人コミュニティ全体から見れば、微々たる少数派で、我々を背信者と呼ぶかもしれない。昨日も我々イスラエル人平和主義者はガザの境界線まで水を届けに行った。我々は(今やすっかり存在意義のすり替わってしまった)イスラエルという国を、我々自身の手で守る責任があるのだ。わたしの父のようにハイファ、母のようにテル・アヴィヴの地を踏むことができなかった同胞たちは、生き抜くことが出来なかった人たちだ。そんな辛い体験をした我々が、兄弟であるはずのパレスチナ人に同じ苦しみを与えているのは耐えられない。ガザでの惨劇が、ユダヤ人への憎悪をかきたてるのは否定しようがない。それに反駁するものは反シオニズムの名のもとに糾弾される。ネタニヤフはそんなところまで我々を強いるのだ。「ショアー」、そして「ナクバ」が本来は同じ意味だと理解しているイスラエル人とパレスチナ人こそ、社会をかえる強い力になる。大戦中ユダヤ人の民族浄化計画に誰も異議を唱えなかったのか、とレヴィに問うと、彼は答えた。大多数のドイツ人はその事実を知らなかった。なぜなら、知りたくなかったからだ。それどころか、知らないままでいることを望んでいたからだ。今日でも、同じように知らないままでいることを望む人々が存在している。それに対して、我々は口を閉ざしているわけにはいかない」。

6月某日 ミラノ自宅
ソナムさんから新しいチュパを頂きました、と林原さんから写真が届く。政治や宗教ではなく、音楽を通してチベットを知ってもらえるのは嬉しい、とよろこばれたそうだ。戸島美喜夫「ベトナムの子守唄」の美しさと優しさを思い出しながら、自分は何のために音楽をしているのか、考える。無から有を生み出すような才能はなく、この日記のように、ささやかな日常、その瞬間を、忘れないでいるために書きつけておく。子供のころ読んだ「人類にかわる新しい知性のために作曲する」という、些かうろ覚えの言葉を、ことある度に頭の中で反芻する。人工知能が少しずつ我々の前に姿を見せるようになり、改めて思う。新しい知性のためにこそ、作曲しなければならない。新しい知性のために作曲することは、新しい知性で作曲することではない。
それが良い結果をもたらす保証はどこにもないが、自分にとって作曲はあまりに自己から乖離した存在であるから、作曲そのものが、自分とは違う次元の知性を宿していると実感する瞬間も、しばしばある。ドナトーニから受けた最も大きな影響は、ともすれば宿命論に収斂されそうになる、言葉にできない知性への確信のようなもの。それは単なる誤解に過ぎないのかもしれないが、何れにしても、自ら判断するのは不可能であるから、唯この日々の営みを、徒に書き残すのみ。

6月某日 ミラノ自宅
途方に暮れつつ、朝からシャリーノCDプログラムを書く。昨年の日本語プラグラムを読み返し、殆ど使えないと落胆し、そこから拾えそうな言葉の切っ掛けを探す。実際に演奏した際の作曲者の言葉を思い出しながら、新しい切り口を探して見たりもする。少し書いては怪しげな英語に直し、また日本語で書き足しては英語に直す。英語に直す際、日本語をいかにいい加減に書いているのか詳らかになり、落胆。
昨日、イスラエルがイラン核関連施設爆撃。ミラノ、日本領事館より一斉メールが届き、「両国の関連施設に、可能な限り近づかないこと、中東情勢に関連する集会などが行われる場合には、近づかないように」とのこと。今日は朝から日がな一日学校の卒業試験で、息子の言う通り、通り道にあるユダヤ人学校を避けて通るべきか暫く思いを巡らせたものの、結局試験時間ぎりぎりになってしまって遠回りもできず普通に通り過ぎた。いつものようにイタリア陸軍の兵士が警備についていて、別段変化は感じなかった。

6月某日 ミラノ自宅
この春ニューヨークに帰国したスティーブが、ツアーの合間にミラノに寄るというので、ベルリンゲル広場の喫茶店で落ち合った。彼はエスぺリメンタル・ロック出身で、ピアノ、ドラム、ギター、トランペットなど何でも演奏できるマルチプレイヤーなのだが、指揮をやってみて、初めて天啓を覚えたという。春にリンカーンセンターで「三文オペラ」をやり評判になった、と聞いている。ニューヨークはとても競争が激しいし、若くて有能な指揮者は沢山いるから、自分が指揮できる機会など、到底見つからない、と落ち込んでいたが、聞けば、友人からブロードウェイの新作ミュージカルの指揮に声をかけられたらしい。ただ、演出家の性格が本当に悪いので、絶対引き受けるべきではない、とその友人に言われたから、と口ごもっているので、嫌な思いなら10年後にするより今やるべきだ、絶対引き受けるように力説する。何でも、ブロードウェイのミュージカルの指揮者は、週5日公演があり、そのうち何日かは昼夜二回公演なので、物凄い仕事量なのだそうだ。到底他の仕事などできない、とこぼすので、何時来るかわからない他の仕事を待って、この仕事を断るくらいなら、ブロードウェイで経験を積んだ方が後にも続く、と説得する。契約では40%までカバーの指揮者に任せられるそうだが、実際に40%休暇を取った暁には、もう次の仕事は来ないだろうと言われた、と絶望的な顔をしている。ブラックな仕事、というのは、万国共通らしい。
イスラエルの空爆で、イランでは少なくとも78人死亡との報道。ネタニヤフが自らの政治生命維持のために攻撃に踏み切った、とニュースではっきり断定していて愕く。イスラエルを支持する国は、次第に米国のみに集約されつつある。イギリス、ドイツが反対、糾弾しているのだから、余程のことなのだろう。米国、移民政策反対の暴動、国内20か所以上に拡大。

6月某日 ミラノ自宅
朝から仕事を続け、折り畳み自転車を抱えて午後15時45分の特急に飛び乗る。1時間ほどでヴェローナに着き、通りがかりの通行人に道を尋ねつつ自転車で記念墓地を目指した。グーグルマップで調べた道順では、自転車では道路を渡るのが危険だから、ブラ広場まで出てからアディジェ河を渡るように言われる。雲一つない青空で、心地良いことこの上ない。
最後にここを訪れたのは、コロナ禍前だった。マリゼッラも足を悪くしているし、息子のレナートも体調を崩していると聞いたので、原稿を送ったタイミングで、思い切ってやってきたわけだが、閉園1時間前なので、花屋はどこも既に閉店していた。
自転車をひきながら、ドナトーニの名が刻まれた石碑に寄ったあと、パンテオン群裏に広がる新区画のなかのその一番奥、引出し状と言えばよいのか、アパート状に並ぶ、市民墓地の一番左の区画奧のドナトーニの墓を訪れた。ろうそく型の細い電灯は相変わらず電気が切れていて、干乾びた花束の跡がドライフラワーになって残っているだけで、最近手向けられたような花は見当たらなかった。折角なので梯子で一番上まで上がり、墓石をぽんぽんと軽くノックして、旧恩を温めてみる。何となく、お前相変わらずうるさい奴だ、と墓石の中で苦笑いしているのが目に見えるようでもあった。記念墓地横の通用口には、夏になるとよく見かけるようになる、西瓜売りのスタンドが出ていて、氷水を張った大きめの水槽に、西瓜がごろごろ浮いていた。
そこから「音楽家地区」へ向けて自転車を漕ぐ。「音楽家地区」とは、その地区全体の道の名前が、プッチーニ通りだのロッシーニ通りだのと高名な作曲家の名前から取られているところで、記憶ではヴェルディ通りとポンキエリ通りの間にドナトーニの名を冠した児童公園があったはずだが、地図には何も掲載されていなかった。
交差点で信号待ちをしているときに、目の前の紳士に「バラーナ通り」はどこか尋ねると、「この先にあるが、君は一体どこへ行きたいのかね」と逆に質問されたので、素直に「ポンキエッリ通り」だと言うと、へえ珍しい、という顔をした後、「それではわたしについて来なさい」と道案内までしてくれるではないか。本当にヴェローナは人が優しい。なるほど、そう考えると、確かにミラノは不親切な輩が多そうだ、と少し悲しくなった。無事、「アミルカーレ・ポンキエッリ通り」に着くと、紳士と別れ、50メートルほど右に入ったところの、何の変哲もない児童公園を目指した。果たしてそこは、ブランコで遊ぶイタリア人の子供から、シーソーを漕ぐアフリカ系の子供、ベンチで話し込む老人たちですっかり賑わっていて、何だかすっかり感激してしまった。本当にドナトーニらしい、全くごく当たり前の何の変哲もない児童公園で、さまざまな人種が入り雑じり、さまざまな年代が混交しながら、明るく平和な空間が広がっていた。思わず、そこからマリゼッラにヴィデオ通話をかけて公園の様子をみせると、彼女も実に感慨深そうにしていた。当然ながら、その児童公園の名称に注意を向ける人は誰もいないようで、こちらが電話をしているのを聴きながら、へえ、そうなのかい、とちょっとびっくりした表情を向ける年配の婦人もいた。

6月某日 ミラノ自宅
朝、いつものように散歩に出かけると、コロナ禍でよく通ったジャンベッリーノ通りのパン屋も、運河沿いの食堂も喫茶店も店を畳んでいた。家人曰く、賃料が軒並み値上げされたに違いない、とのこと。運河には、ウグイと思しき魚がひしめいていた。水面近くに群れる、ほんの小魚もいれば、軽く3,40センチはあろうかという、鯉と見紛う成魚も川底あたりを悠然と泳いでいた。佐藤康子さんよりお便りをいただき、沢井さんに会いに出かけられたそうだ。「CDを何より喜んでいらして、本当にエネルギーがおありでした」。
未明、イランはイスラエルに向けて超音速ミサイル発射との報道。中国、テヘランから自国民の退避開始。テヘラン大学が爆撃被害。ハメネイ、トランプからの最後通告拒否。イランでインターネット遮断との報道。世界中、毎日、戦争の報道ばかりになった。弾道ミサイルとそれを迎撃する地対空ミサイル、それぞれが、まるで稲妻のような光の尾を曳きながら、縦横無尽に夜空を駆け巡っていて、俄かには現実とは信じられない。

6月某日 ミラノ自宅
原稿を読んだシャリーノから連絡あり。”de la nuit”の副題 ”Alla Candida Anima Di Federico Chopin, Da Giovane”について、animaはheart でもspiritでもなく、soul と訳して欲しいそうだ。”Candida Anima”は「純真な魂」ではなく、「世間ずれしていない、田舎から出てきて右も左もわからない若輩者のショパンが、皆からもてはやされて肩で風を切るような感じ」、が通じるように訳してくれ、と言われる。
爆撃を受けているイラン、イスラエルのニュースを見ながら、今まで欧米で出会ったイラン人の友人をおもう。彼らはどんな思いで、このニュースを見ているのか、想像もできない。政権交代を期待しているのか、一刻も早い平和を望んでいるのか。最早、何が正しいということも、誰が正しい、ということも、すっかり解らなくなってしまった。唯一理解できるのは、両国ともに罪もない市民が巻き添えになっているという事実。もはや、映像もニュースも、事実なのか模造されているのか、我々には俄かには判断できなくなった。結局、われわれが受取る情報と言えば、大戦時のプロパガンダとさして違わぬ水準にまで、ずるずると下げられてしまったということだ。

6月某日 ミラノ自宅
トランプ大統領イランの3箇所の核施設を爆撃と発表。この「真夜中の鉄槌」作戦には、飛行機125、潜水艦1、地下貫通爆弾14が使用されたとの報道。イタリア国内の北大西洋条約機構米軍基地の戦闘機がこの作戦に参加したのかどうか、イタリアの報道は過熱している。こうなると、イタリアはNATO基地の矢面に立たされるのであるから、当然である。報道によれば、イタリア国内に米軍は現在核爆弾を90保有しており、イランからみて西欧の最前線にあたるイタリア国内の米軍基地へ反撃の可能性はあるのか、という降って湧いたような恐怖である。イタリア政府、イタリア国内の米軍戦闘機は戦闘に参加していないと発表。このニュースを聴きながら、80年を迎える沖縄戦をおもい、このところ毎日のようにやりとりしている、仲宗根さんや彼のご家族のことを考えている。南西事変のための与那国島に地下シェルター2028年春完成、との報道。沖縄の人たちからみたチベットやウイグルの民族問題は、本土の日本人の視点とは、どうしても少し違うものになるのかもしれない。80年前であれ現在であれ、インターネットで世界の情報が手に入るにせよ、人工知能が何でも教えてくれるにせよ、戦禍で路頭に迷うのは今も昔も同じ、全く無辜の市民なのだ。イタリア各地COOP(生協)にてイスラエル製品ボイコット運動始まる。パレスチナ支援のためのGaza Cola販売開始。
アメリカの仲介でコンゴとルワンダが和平合意に署名。完全な和平の実現は未だ簡単には見通せない状況との報道。

6月某日 ミラノ自宅
仲宗根さんから、「待春賦」CD完成のお知らせをいただく。今年の元旦、沢井さんの「待春賦」のCDを作りたいので、CD制作会社立ち上げます、とメールを頂いたときは、驚きの余り言葉を失ったけれども、こうして気が付けば、段ボールにつまった完成品の写真がメールで送られてきて、あらためて感服している。この半年間、メールのやりとりは続いていたが、いつも日本時間の深夜か、早朝にこちらに届くので、当初は不思議だと思っていたが、仕舞いには仲宗根さんの身体が心配になるほどであった。実は、この半年間にわたり、深山さん、ピーター、柿沼さんの間で驚くほど丹念に英訳作業を進めていただいた。特に古代中国の五絃琴、正倉院の七絃琴を海外に紹介するにあたり、スタンダードな名称をどうするか、皆さんでさまざまな意見が交わされるのを、こちらは興味深く拝見するばかりであった。仲宗根さんの信じられないような情熱は、沢井さんの音が呼び覚ましたのである。改めて録音を聴きながら、沢井さんの音楽の深さに惹きこまれる思いであった。飄々と、そして黙々と仕事を続ける仲宗根さんの姿に、ふと平井さんを想起することもあった。こうやって、さまざまな人たちのお陰で生きてきた。不思議な出会いにその度毎に助けてもらいながら、気が付けばここまで馬齢を重ねてしまった。

(6月30日 ミラノにて)