しもた屋之噺(109)

杉山洋一

今回零下のミラノから成田に着くとき、気温は思いがけず22度という機長のアナウンスが入り、流石に驚きました。翌日から14度程度まで下がりましたが、12月とは思えない日和のなか家に戻ったのをよく覚えています。
4年ぶりにご一緒した東混のみなさんは、最初から最後まで誠実に練習にお付き合いくださり幸せな2週間でした。何より、言葉と人の声の表現力の強靭さに、練習からの帰り道はいつも感激していました。全員が発する言葉に同じ気持ちがこもった瞬間に現れる、信じられない程の現実感と具体感は、オペラをする声とも全く違い、もちろんオーケストラと純粋音楽を演奏するのとも全く異なる、文字通り強烈な体験でした。

上野の文化会館に向うため、駒留の自宅から三軒茶屋の駅まで歩いていたときのこと。世田谷通りを大きな自衛隊の濃鼠の装甲車がゆっくりとやってきたのです。前方左側にはヘルメットを被った自衛隊員が頭を出し、じっと前方を見据えていました。その傍らには白く書かれた「走行訓練中」という表示がみえました。世田谷通りではあまり見慣れぬ光景に、周りの通行人も驚いた表情をしています。走行訓練という文字をみて、漸く胸のつかえが取れたものの、有事でも起きたのかと思わず身体がこわばりました。

それから田園都市線に乗り、表参道で銀座線に乗り換え上野の坂をのぼりながら、ずっとこの装甲車と自衛隊員が頭から離れませんでした。今はまだ世田谷通りを装甲車が走っていれば、周りは思わず驚くけれども、いつまでもそうであることができるのだろうか、気がつくと、装甲車が世田谷通りを走っているのが普通になっていたらどうだろう。そんなことを思いながら、最後の通し稽古を終えて、先ほど出遭った光景を合唱団のみなさんに伝えました。

自分にささやかな希望があるとすれば、それはせめて息子が息を引取るまで、彼が戦争に巻き込まれずに生き存えられること。戦後65年間、日本は戦争に巻き込まれずに何とかやりすごしてきたけれども、今後いつまで続けられるかは分からない。平和とか自由とか気軽に口にしているけれど、それは本来ずっと尊いことでわれわれが守ってゆくべき重責だと思う。音楽を通してせめてもそれを伝えてゆきたいと思う。そこには左も右もなく敵も味方もない。北朝鮮、中国、韓国と国で呼ぶのが簡単なのは、そこには顔が見えないから。

でもどの国にもさまざまな人が住んでいて、恐らく良い人も悪い人もいる。一からげにはできるはずがなく、その一人ひとりに大切な家族がいる。敵であろう味方であろうと兵士が一人死んだとすれば、その死を悲しむ人はたくさんいる。そうして結局傷つくのは殺しあいに係わらなければならない下っ端のわれわれであって、戦争を操作する人が同じ苦しみを共有することはないかもしれない。共有していたら戦争は出来なくなってしまうし、きれいごとだけで国を治めることは出来ないのは、われわれも歴史からよく学んでいる。だからこそ、自分たちが置かれている状況の大切さを、あらためて自覚する必要があるのではないか。遠くから自分の生まれた国を眺めていて思うとことも多く、「人間の顔」がどれだけむつかしいかは理解していたけれど、この機会にどうしても取り上げたかった。そんな指揮者の勝手な希望だが、本番でふと頭の片隅に思い起こして頂けたら嬉しい。そんな話をしたところ、演奏会のあとみなさんから、お話を思い出して一所懸命歌いました、話してもらってよかった、と思いがけず声をかけて頂いたのには感激しました。

今回の帰国に併せてピアノの大井くんが自作をまとめて取り上げてくださったのも、実に有難くそして貴重な出来事でした。普段音楽を聴くこともなく、自作を顧みることもないなかで、学生時代から現在までの作品を連ねて聴くのは想像だにしなかった発見、よく言えば感慨がありました。同時に自作の合唱曲にも稽古をつけていたので余計そう感じたのかもしれませんが、どの曲もみな同じであって、まるで留学前から現在まで20年弱自分に変化もなければ成長もない事実を、肯定的に受け止めろと言われても戸惑わざるを得ません。

東京から零下のミラノに再び戻った翌日、奇しくも自分の誕生日でしたが、2日前97歳になったばかりだった祖母が湯河原で亡くなっていたのを後で知りました。演奏会の当日も容態を確認して安心していたところで、まるで無事にミラノに着くのを待って息を引き取ったかのように感じられ、半年以上も落着いてお見舞いすら出掛けられなかったことが、ただ申し訳なく今さらながら悔やむばかりです。

そんな気持ちを引きずりながら大雪の残るサンマリノに出掛けたのは、年末恒例の国会での記念演奏会に参加するためでした。サンマリノに通い始めて数年が経ちますが、崖の頂にあるサンマリノの旧市街に出掛けたのは今回が初めてでした。麓のボルゴ・マッジョーレから急勾配を這うように登るロープウェイからの眺め、遠くはリミニやアンコーナまでを一望するサンマリノの壮大な夜景は息を呑むほど美しく、旧市街の国会周辺の建物や憲兵などはお伽の国に紛れ込んだ錯覚を覚えました。以前から問題になっていた対イタリアのマネーロンダリングは経済にとてつもない深刻な打撃を与えていました。サンマリノ人がイタリアに仕事を求めるなど以前では考えられなかったことで、流石に驚きました。

慌しくミラノに戻ったクリスマス25日の昼食に招いてくれた精神分析医のアントネッラが話してくれたのは、意外にもこの時期の患者全員が揃って訴える「クリスマスの恐怖」についてでした。日本の元旦に相当するイタリアで最も大切な宗教行事クリスマスは、特に家族の絆が強いイタリアに於いてはパンドラの箱にも匹敵して、普段互いにやんわりと付き合っているはずの家族の関係が、イタリア人の包み隠さぬ直截な性格も相俟って、あっさりと崩れることが往々にしてあるのだそうです。ワイン片手に談笑している我々の傍らで、5歳の息子が皆にむかって食後のケーキをまだかまだかと盛んに催促していて、大人も慌てて食事を口元に持ってゆくのが愉快でしたが、気がつけばこうやって慌しかった一年が瞬く間に終わろうとしているのでした。

来年がどんな年になるのか想像もつきませんが、地球上の一人でも多くのひとが、一日でも多く、平和で安寧な毎日を送れることを心から祈るばかりです。

(12月31日ミラノにて)