しもた屋之噺(110)

杉山洋一

こちらにいると元旦は普通の休日程度の印象で、朝食の後は早速庭の落ち葉掻きをして汗をかきました。家人が元旦の夕方に東京から戻ってきたので、我が家の今年初のお雑煮はお屠蘇と共にに正月二日の朝食に並びました。尤もこれは雑煮とは言葉ばかりの、湯河原の父方の家に長らく伝わる、出汁に大根のみたっぷり入ったあっさりした大根汁で、香り高い貴重なハンバ海苔を振りかけて食べるのが本来の流儀です。ミラノでは海海苔で代用しましたが、それでも一寸した正月気分を味わうには十分過ぎるほどでした。

さて今週は、5歳の息子が通う幼稚園に併設された、ミラノ市立の小学校へ入学手続きにでかけました。手続きにやってきた周りの親も外国人の割合がとても多く、先日の説明懇談会でも、イタリア人の父兄から外国人が多くて国語が遅くならないか不安だと意見が述べられていました。

懇談会では、ファシズムの時代に建てられた数少ない歴史ある小学校で、食料難のために当時は校庭に畑を作って野菜を育てていたとか、概観もどっしりした典型的ファシズム建築で、とりわけ高い天井と高さ2メートルはあろうかと思われる窓は、ペニシリンが普及していなかった当時、ジフテリア対策として太陽光線をあてていたためだとか、「健全な精神は健全な肉体に宿る」を度々引用していたムッソリーニの政策で、当時としては斬新な、学校内に立派なプールまで誂えられて、現在も使用されていることなどを女性の校長先生が誇らしげに話しました。

同じ通りの数ブロック先には、無償の公立に反し格段に高い古くからあるミッション系の私立小学校もあって、登下校時には身なりのよいイタリア人ばかりが道に溢れかえります。日本人の知り合いなどからはそちらを勧められましたが、周りのイタリア人から先の公立小学校の評判も聞いていたし、幼稚園の同級生や先輩もみなそこで学んでいて、結局公立に決めたのでした。生活レヴェルの違いにかかわらず公立小学校に子供を通わせるイタリア人に共通する、「今も昔も学業は公立でしっかり学ぶべき」という信念の清清しさにも心を動かされました。

公立幼稚園に入学の折にも、イタリア語も儘ならない外人ばかりの市立なんて止めなさいと言われることもありましたが、同じように当時イタリア語が苦手だった息子も3年間とても良い時間を過ごして親として満足しているので、学校より結局は良い先生と出会うかに掛かっているのでしょう。家に帰ってきて、同級生の何某はスペイン語が話せるとかアラビア語が上手だとか聞くと、羨ましい気もします。

さて、その幼稚園に通いだして2年目くらいから、随分長い抑揚ある詩を皆で暗記させられていて、フィラストロッカと呼ばれていました。こちらでは暗記をすることが勉強ですから、小学校にゆく予行練習かくらいに考えていて、今回のフィラストロッカは随分滑舌もよく進歩したなあなどとぼんやり思って特に気にもとめていませんでしたら、ひょんな処からフィラストロッカに出くわしたのです。

ここ暫くレスピーギの「ローマの松」の日本版スコアのための解説を書いているのですが、冒頭のボルゲーぜ公園の松で使われている旋律こそ、フィラストロッカでした。「ドレ夫人」は、本来輪になってぐるぐる回りながら「あの子が欲しいこの子が欲しい」とやってゆく、「かごめかごめ」と「花いちもんめ」を併せたような遊びで、我々の世代が子供の頃までは遊ばないまでも良く歌われていたそうですし、レスピーギの楽譜の註釈に出てくる「ジロトンド(ぐるぐるぽん、というような語感でしょう)」
もやはりフィラストロッカと呼ばれていて、息子が近所のおばさんに最初に教わった遊びでした。今でも誰でもやっています。要は旋律があってもなくても、歌詞が口を付いて出てくるわらべ歌のようなものなのでしょう。

この作品を話すときに、当時の時代背景についてどの程度触れるべきか悩んでいます。個人的にはファシズムとこの作品を繋げるのは大袈裟だと思うけれど、黒シャツ隊のローマ進軍ののちファシスト党単独政権誕生した年に、政府の趣旨に等しく、古代ローマ軍の進軍ラッパを高らかに吹き鳴らしアッピア街道からカンピドリオを目指して無数の兵士が勇壮に行進する姿を描いていれば、当初の作曲者の意図がどうであれ、戦争の記憶を持つ人々の中にはこの作品に対して嫌悪感を持つ人がいても仕方のないことかも知れません。

今でも街角で何も考えず気軽に手を上げて挨拶をして、黒シャツ隊のような挨拶をするなと声を荒げられたことは何度もあります。先の息子の小学校の例に限らず、ミラノの中央駅のようにファシズム建築の多くは政治と無関係に市民に愛されているし、ムッソリーニの全てを悪だとは思っていない人が沢山いるのも事実です。人それぞれ戦争に対しての感じ方は違うのは、自分や周りの人々が培ってきた人生がそれぞれ違うのと同じで仕方がないこと。そんな前提を念頭に、客観的なレスピーギ像を恣意的にならずに伝えるため、本当に自分が書くべきことは何か、もう少し頭を整理する必要がありそうです。

政治と音楽の関わりでふと頭に浮かんだのは、日本でもよく知られるようになったベネズエラの音楽教育「エル・システマ」のこと。イタリアでは、クラウディオ・アッバードが直接指導に関わったりして、広く知られるようになりました。思いかえせば初めてベネズエラの音楽家と知り合ったのは、長らくアムステルダムのニーウ・アンサンブルでヴァイオリンを弾いていたアンヘルに会ったときのことだったでしょうか。

真面目で正確で情熱に溢れた演奏は魅力的でした。「自分の国は本当に貧しくて、アムステルダムが自分の肌にあっているわけではないが戻りたくない」、と少し寂しそうに話してくれたのを覚えています。自分の親も音楽家だったと聞いたかも知れません。

年末にペルーのリマからギターの笹久保さんがミラノを訪ねてくれたとき、ペルーの貧困や治安の悪さについても随分話しました。リマの歴史的中心街がシンナー袋をくわえた浮浪児や麻薬中毒者の巣窟となって、治安が悪化している様子を伝えるニュースなどを見ると、荒廃した中心街の姿は想像を絶するものでした。

一見華々しく報道されるベネズエラの音楽教育も、一歩間違えばこうした貧困層の泥沼にはまり込んでいたかも知れない若者のためだと思うと、より尊く感じられます。「エル・システマ」に参加する若者がインタビューで、「音楽は自分の人生そのものです」と語っていたけれど、その言葉の意味の深さを、我々部外者など気軽に理解することは出来ない気がします。

そんな話になったのは、その前日笹久保さんが画廊で開いたアンデス音楽の演奏会に、古くからの友人が連れてきていたペルー人の姉弟2人の養子の姿が、目に焼きついて離れなかったからです。明らかにアンデス人と思しき中学生と小学生の姉弟は、友人に寄り添いながら、どんな思いで郷里の音楽を聴いていたのでしょうか。

彼らもイタリアに来て8年ほど経ちましたが、当時友人が彼らについて色々と教えてくれたことが頭を過ぎります。姉弟は幼いときに親から捨てられて孤児院で育てられたが、周りの孤児たちが次々に訪れた欧米人に貰われてゆくなか、彼らだけが姉弟ということで受入れ先が見つからないまま暮らしてきて、人間不信が取分け激しかったといいます。

当初はただ理由もなく泣くばかりで取りつく島もない、どうして良いかわからない、と訴えるようなメールが届いたこともあります。彼らをイタリアに連れ帰って精神的に落着いてくると、今度は極端な赤ちゃん帰りにあって、同時にスペイン語とスペイン語を話す人全てに対する極度の拒否反応が現れました。スペイン語が分からないふりをして、スペイン語で話しかけられても無視したり、スペイン語を話す人を蔑んで見せたりしていました。

「ペルーの孤児院は劣悪な環境だから、考えられないような人生を歩んできたのでしょう」。
笹久保さんは目の前で弾きながら心が痛んで、夢にまで見てしまったと話していました。姉弟を連れてきた友人の気持ちも測りきれませんが、恐らく全てを分かっていたと思うのです。

ミラノ滞在中、笹久保さんがミラノのペルー領事館から招待を受けたので、住所を確認しようとインターネットサイトを開くと、サイトの一面の領事館の業務内容一覧には「養子縁組」と明記されていて、ペルーがどれだけ貧しいかを力説していた笹久保さんも、流石に肩を落としていました。国家が養子縁組を推奨しなければならない程の資金難に喘ぎ、親の居ない子供が余っていることは紛れもない事実であって、養子縁組の費用がどれだけ高いかも耳にしていましたから、裕福なイタリア人が貧しいペルー人を養子に迎える構図を、素晴らしいと手放しに褒めちぎる周りの社会に溶け込め切れない自分の温度差を、薄く感じたりもするのです。

子供たちが最終的に幸せになることは理解できるのだけれど、これが宗教観の壁なのか、恐らく一生完全には欧米社会に属することもなく生きてゆく自分にとっては、どこかやるせない気持ちも残ると言うと、分かります、と笹久保さんも頷きました。そんなことを書いていると思いがけなくリマからメールが届き、或いは以心伝心だったのかも知れません。先日の彼の演奏会の様子はUstreamから現在でも見られます。

ここまで書いて今朝学校の授業に出掛けると、車のラジオからインタビューを受けるウート・ウーギの声が流れてきました。「音楽には国境がありません。ローマでも東京でもニューヨークでも、言葉や文化の違いを通り越して、音楽を通してなら誰とでも自由に直接交流できる、そんな素晴らしい、恐らく唯一の芸術手段なんです」。

「どんな小さなことでも、どんな音楽でもいいけれど、いつかペルーでも”エル・システマ”のように、音楽を通して人々が繋がることが出来たらいいのだけれど」。
笹久保さんが何となしに呟いた言葉を、ふと思い返していました。

(1月29日ミラノにて)