しもた屋之噺(121)

杉山洋一

久しく休んでいた学校の授業も今日から再開。外はまだ暗闇ですが、拙宅の傍らを一番電車が走り抜けてゆきました。ジャンベッリーノの通りをナポリ広場まで歩いて、帰りに出来立てのパンと朝食用の菓子パンを購うのが日課で、そろそろパンも焼き上がる頃かと思います。上着を羽織って出かけてこようと思います。

2012年1月X日 02:25
元旦。丸一日ノーノのCantiの譜読み。昔使った楽譜が突然本棚から姿を顕す。自分の古い書込みに、余りに雑な当時の勉強の様子が浮上る。ドナトーニはノーノの音列作法を最後まで嫌っていたが、ノーノの無骨でプリミティブな音の並びこそ、ノーノの魅力ではないか。
同日10:00
今朝早く散歩をすると、爆竹だらけの昨日の歩道が綺麗に片付けられている。パン屋の親父が、カーニバルのとき食べる「キャッケレ」という揚げ菓子を店頭に並べた。「クリスマスが終わったとおもったら、もうカーニバル気分かい」と客に言わせたいがためだという。いみじくも、後から入ってきたご婦人が一字一句違わず文句を垂れて、一同声をあげてわらった。昨日の夜明け前、道ですれちがった男に「新年おめでとう」と思いがけず声をかけられる。

1月X日 08:30
夢に三善先生やI先生、N君が出てきた。夢で、大学入学当時、同期の作曲仲間でずば抜けていた別のN君の話をしている。彼はしばらくして学校を出て自分の活動を始めた。大学の頃、作曲仲間の間では商業音楽の憧れがとても強かった。当時はまだ社会は潤っていて、ちょっとしたコマーシャルでもフルオーケストラで録らせてもらったりした。2分ほどのスコアをかき、パート譜も徹夜で書いてスタジオに通った。N君は当時既にNHKドラマの主題歌など書き、和音もアレンジも垢抜けていた。作曲仲間通しでいかに平易な旋律にテンションの高いコードをつけられるかを競い合い、武満さんの映画音楽やポップソングは、我々の憧れだった。「どですかでん」や「波の盆」、「はなれ瞽女おりん」など我先にと真似を試み、同時に中川さんはコマーシャル音楽に新しいジャンルを確立しつつあった。そんな話を夢で恩師と語り合い、若い頃胸を躍らせ音楽と付き合った感覚が甦ってくる。

池谷裕二、糸井重里共著の「海馬」に出てくる、脳はパターン化して理解し記憶する話を、ノーノの「Incontri」を譜読みしながら思い出す。この作品は、全体が彼がよく使う鏡像形で、臍から前後に読みひろげ構造を把握する。便宜的にフレーズを決めると、今度は音楽がそのようにしか眺められなくなるのが不思議だ。観念の固定化、音楽のロールシャハテスト。古典であっても、フレーズを一度決めツボに填まれば、そのようにしか感じられなくなるし、調性も決めてしまうと、その色でしか感じられなくなる。

ノーノのように、強弱や長い音符のクレッシェンドで音楽のドラマを形作るのは、ドナトーニにとっては姑息な手段だった。音符を書く「手」そのものが満足できるかどうかの問題だろう。改めて眺めると、ノーノの初期作と「プロメテオ」の音の質感や和音の手触りは存外に近しいことに驚く。古いノーノの楽譜を拡大し顕微鏡で内部に走る神経を切り出してフェルマータをつけると、それはちょうど時代をくぐるトンネルになって、プロメテオの胎内へつながっている。ドナトーニもノーノも、まったく違う音の真実を信じていたが、恐らくどちらも正しかったと演奏してみて思うのは、どちらも発された音に魂が宿る瞬間があるから。魂の種類は明らかに違ったけれど。義父が写生した熱川の風景を額にいれ、古い燕尾を直す端切れを買いにゆく。

1月X日 0:40
満月がうつくしい。漸くブーレーズのフレーズが音楽的に感じられるようになってくる。音の知覚が、表面的なデジタルなものから、身体の奥でアナログ変換される感じに変化は、せいぜいそうなってほしい、という希望に近いもの。元来自分の身体になかった細胞が、少しずつ身体へ染みこんでくる。ブーレーズの解釈について、何ヶ月も悩むとは思わなかった。自分が作曲者の演奏スタイルと違って構わないか、自分なりの納得する落とし所を見つけるのに、時間がかかった。ユニヴァーサルの出版譜の最後に付録されている、作曲中の自筆譜のタクトゥスと浄書譜との相違が、自分の解釈を推し進める決めてになった。ドビュッシーと同じ。

作曲時の均質化された一定のタクトゥスを正当化できるよう全体を眺めなおし、現実に即した配分をかんがえる。指揮者がさまざまなオプションから選び、演奏してゆかなければならないから、当然作曲者と演奏内容が変わることが作曲者の希望に違いない、と自分に言い聞かせて、楽譜を読み進む。際限なく書き込まれているルバート記号の実現は、リハーサル時間も制限とのせめぎ合いになるだろう。

楽譜をよみ練習していると、作曲者としてのブーレーズと演奏者としてのブーレーズが、くっきりと別の次元として浮上ってくるようになった。こんな風にして読むフランス音楽は、相当フランスのエスプリからかけ離れ、イタリアの田舎臭さが充満しているだろう。それがいいとも思わないが、ここで習った楽譜の勉強は、クラシックであろうと現代作品であろうと、こんな不恰好なものだった。

1月X日 02:00
ブーレーズの勉強を終え、寝る前にメールをチェックすると、コントラバスのスコダニッビオの訃報がとどいた。正確には何のコメントもなく、新聞記事が転送されてきただけ。「さようなら、ステファノ」とだけ書いてあり写真が張ってある。いつもお茶目な冗談を飛ばす彼のことで、最初はずいぶん質の悪い冗談だとおもったのだが、記事を読むと、冗談でもなんでもなく、訃報だった。
同日15:35
朝、小学校を遅刻させ、保険局で息子の予防接種。今日の接種内容のカルテに納得できない女医さん二人が、わざわざ自ら二年前のカルテを探してきて疑問点を解決してくれる。15分ほど治療はストップするが、誰も文句を言わない。隣の部屋で家人が「焔に向かって」を練習していて、ペダルを外し速度を落とし内声を浮立たせる。まるでミヨーのブラジル音楽のような響きがして、改めてスクリャービンはリズムのないジャズコードだったとを思い出す。ブーレーズの共通音と中心音をマークし直す。これで少しは楽譜から音が浮ぶようになるか。

1月X日 01:00
機内は驚くほど空いている。グラーツ辺りを通過中酷く乱高下してジェットコースターさながら。そんな中でブーレーズの楽譜を開くと、無意識に「頭の歓び」という言葉を反芻している。作曲とは純粋に「頭が歓ぶ」行為で、楽譜を読み下す行為も等しく「頭の歓び」だと思う。頭が歓んでくれているお陰で、ジェットコースターも気にならない。

1月X日 01:00
お濠端のスタジオでラジオの収録を終えて、癌で片肺を全摘出したA先生に会いにでかけた。目の前にずいぶん痩せた恩師がいて、笑顔で話していても心で涙がながれ、時々それが目からこぼれそうになるのを堪える。久しぶりにT駅を降りて通い馴れた道を探すうち、路頭に迷う。親同然に可愛がって頂いた恩師を何年も訪れない間に家が建ち並び、風景はすっかり変わり果てていた。言葉をうしない、暗闇で自責の念に押しつぶされる。

1月X日 09:20
東京に初雪が降った。
両手を使って指揮するのは、不器用な人間には残酷な仕打ちだ。譜めくりすら馴れるまでは苦労するし、現に今でも失敗する。毎朝歩きながら左手の練習をするのだが、生まれつき左利きの癖に、右手と独立した動きが出来ない。生徒の苦労を、こんな風に実感させられるとは思わなかった。ブーレーズはアウフタクトの細かい指示をたくさん書き付けているが、こんな曲でも強拍と弱拍、フレーズが古典的であることにヨーロッパの伝統を感じる。イワトに悠治さんたちのリハーサルを覗きにでかけ、平野さんが出してくださったニッキ入り暖かいリンゴジュースが、身体の芯に染みる。

1月X日 23:00
リハーサルを終え町田に両親を訪ねる。夕食を終え三軒茶屋に戻ろうと外に出ると、大雪。昨日は「膀胱切開手術図」の演奏会へイワトに出掛け、そのまま流れで神保町の「源来酒家」へ。新節を控えた大晦日で、8年寝かせた紹興酒の樽を割って振舞ってくださる。嬌声につられ見物にでかけた平野さんの戦利品。実のところ、昨日の練習が終わり九段下へ向かおうとすると財布に1銭もなく、海外のカードでキャッシングできるATMを探して、上野の街を小一時間放浪した。

1月X日13:55
機内では、無心でエマニュエル・バッハの譜読み。和声を分析し書込みをしていると、ローマに着く2時間ほど前に赤ペンのインクが切れて、仕方なく眠る。読込むほどに、大学時代エマニュエル・バッハばかり読んでいた頃の喜びを思い出す。目まぐるしい和音の連結は、人間の豊かな表情に似ている。一句一句、顔の表情に抑揚をつけて話すさまが目に浮び、話しながら目尻に皺が寄ったかと思えば表情がくぐもり、目の奥が輝く。気がつくと、無意識にスコダニッビオの少年のような表情を思い出していた。最後に彼に会ったとき、まだ彼は元気で、ボローニャの楽器博物館の2階の広間で、恥ずかしそうに頭を掻きながら自作を指揮していて、「指揮をするのが子どもの頃からの夢でさ。下手なのはよくわかっているんだけど」と話す表情は、純粋であどけなかった。

あれから暫くして、筋萎縮性側索硬化症で動けなくなり、寝たきりの彼の部屋とテレビ電話で繋いでリハーサルをしていると人づてに聞いた。連絡を取ろうと思ったが、言葉が見つからなくてそのままになってしまった。初めて彼と演奏したのは、随分前のことでルクセンブルグだった。ドナトーニの複雑なピッチカートを、ジャズでもやるように嬉々として弾き、夜はバーに繰り出しビール片手に怪しげなテレビを一緒に眺めた。あれから何度か一緒に演奏したし彼の曲も演奏したけれど、ベッドから動けなくなった彼と会う機会もなかった。彼から誘われ来月マチェラータに演奏に出掛けることになり、最後に来たメールには「grazie caro yoichi」とだけ書きつけてあり、すべて小文字でやっと書いた感じが伝わって胸が痛む。おそらく奥さんが代筆したのではないだろう。どんな思いでこのエマニュエル・バッハをマチェラータで演奏することになるのか。

サントリー本番の朝、息子に届ける三軒茶屋の小学校の宿題を受取りに、朝早く担任のT先生を訪ねると道路は一面氷ついていた。校門前の床屋二階のベランダが道路に崩落していて、驚く。教室の廊下に児童の書初めが貼られていて、それぞれ字が個性を主張していていずれも力作だった。本番前に舞台裏でいただいた大福餅の旨かったこと。久しぶりに会う旧友の笑顔。Sと抱擁しようとして、互いに強か顔をぶつけて大笑いする。ミラノに戻ると、庭の樹には蕾がたくさん膨らんでいた。

(1月28日ミラノにて)