しもた屋之噺(122)

杉山洋一

いま、中部イタリア、アンコーナから30キロほどのところにあるイェージのホテルで書いています。神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世、ペルゴレージとスポンティー二が生まれた小さな街で、ホテルのすぐ右脇の40段ほどの階段を昇り左に折れると、高い丘の上には共和国広場があって、そこにペルゴレージ・スポンティー二劇場が建っています。昨日はじめて訪れましたが、小さいけれども、実にうつくしい劇場でした。ホテルの窓から外をながめると、道路脇には雪が所々残っていて、10日前には1メートル近い大雪で街中が麻痺状態だったと聞きました。

  * * *

2月X日04:00 ミラノ自宅
昨晩からの粉雪が少しずつ降り続いている。庭のローズマリーに純白の雪が積もるさまはうつくしい。イタリアは寒気が凄まじく、今日は氷点下5度だったが明日は氷点下12度まで下がるそうだ。
ラヴェル和声分析終える。意外に苦労したのが、旋法をどう捉えるかヴィジョンが明確でなかったから。旋法に基本的に機能はないが、機能和声に旋法を取り込んで、機能をぼやかせていることを踏まえて、落とし処を自分なりに見つけなければならない。ラヴェルの音楽に開放感はなく、禁欲的で箱に寸分違わずきっちりと収まっている美しさ。自虐的ですらある快感。モランジュが書いた本だったか、ラヴェルのヴァイオリン・ソナタ冒頭、単旋律ピアノパートのむつかしさについて書かれている一節を思い出した。

2月X日09:00 自宅
息子を小学校へ送って帰ってきた。目の前は相変わらず雪景色一色で氷点下が続いている。昨晩は家人の練習のため、息子をこちらの寝室で寝かしつけていると、壁側では寝たくないので場所を替わってほしいという。壁に映る影が怖いのだそうだ。自分も幼い頃は子ども用たんすに書かれていた絵柄と、今も両親が使っているたんすの木目が人の顔にみえて仕方なかった。影は死んだら出来なくなるんだから、ある方がいいじゃないかと息子に話すと、椅子もピアノも机も生きていないのに、どうして陰があるのか尋ねられるが、暫く考えてから、彼は分ったというように手を打ち、「椅子もピアノも机も存在しているからか」と声を弾ませた。
最近彼は学校の宗教の授業で習った、神さまが太陽をつくった話に心を躍らせている。

2月X日17:00 Jesiへの車中
車窓から眺める限り、ボローニャからリミニ辺りまでかなりの雪が残っていたけれども、アンコーナに近づくにつれ雪は消えた。
ノーノを読んでいると、昔やった「プロメテオ」に出てくる、シューマン「マンフレッド」引用に似たフレーズが散見される。「Canti」冒頭には、「ブーレーズの人間性に」と手書きで献呈が記されているが、当時は彼らはどんな協力関係にあったのだろう。
ノーノの音楽には「挑み続けるフレーズ」があって、何度否定されても果敢に挑んでゆく。彼が意図していたか不明だが、そんな風に読めなくもない。後年の作品にも通じる、フレーズなしに単音だけで音楽を描いてゆく手法は、少し暗めの色使いと太い筆で、大胆に描いてゆく抽象画のようでもあるし、木を太いノミで荒削りしてゆく彫刻に見えたりもする。旋律と伴奏というヒエラルキーを破壊した共産主義的な発想ともいえなくはないが、恣意的すぎる解釈だろう。

同日20:00 Jesi レストランにて
イェージはアンコーナより少し内陸に入るので、雪も大分残っていて寒いのだが、街はカーニバルで浮き足立っている。ミラノよりも地方都市のほうが、カーニバルは大切な行事に見える。イェージが「Jesi」と「J」で表記されるのは、古代ローマ時代に「Aesi」と呼ばれていたから。ラテン語からイタリア語へ変化するなかで、「AE」は「JE」になった。

最初のリハーサルをしたアンコーナの劇場は、歴史的中心街の脇、港のすぐ目の前にあった。どっしりしているのに、一見すると劇場に見えなかったのは、ひしめくような街並みの中に建っているからか。昼食は劇場裏のレオパルディ通りでみつけたカフェテリアで、バカラの煮つけ。やはりこの辺りの魚は美味だった。
自分の思っていること、感じていることを、丁寧に相手に伝える作業の大切さを、指揮をするたびに思う。分ってくれるに違いないという思い込みは傲慢であって、頭から否定しなければいけない。

2月X日09:25 ホテルにて
ペルゴレージ劇場までホテルから歩いて5分ほど。小さな馬蹄形劇場で、天上や壁面はとても美しい。
久しぶりにチェロのフランチェスコに会う。リゲティの協奏曲を軽く合わせて、エマニュエル・バッハの協奏曲のリハーサルが始まると、実におもしろい。ルバートを随所に挿入しつつ、シャープな音感で大胆に踏み込む、今まで聞いたどの演奏とも違う解釈。ピリオド奏法的な雰囲気も皆無ではないが、古楽と感じはなく、カデンツァはハーモニクスを多用するほど。
彼が好きなロックのようなアグレッシブさと、極限の繊細さを瞬間的に掛け合わせつつ、出来るだけ決めないで合わせたい。寧ろ合わなくてもいい、ずれてもいいから、自発的な音を出してほしいと言われて戸惑っていたオーケストラも、少しずつ楽しみ始めている。彼はいつもやっているカルテットの丁々発止を求めていて面白すぎるほどだが、リハーサル時間が足りない。

近くの食堂「第7天国」でフランチェスコと遅い夕食。
「今まで自分はとても充実した人生を生きてきて、思い残すことは何もない。何もできず植物人間になってまで生き続けたいとは全く思わない」。
スコダニッビオが1年ほど前、落着いた様子でフランチェスコにそう言ったそうだ。メキシコについて間もなく彼がこの世を去ったのは、単なる偶然とは言い切れないかもしれない。「クープランの墓」は、ラヴェルが戦死した友人らに捧げた曲集だけれども、一体なぜスコダニッビオは「クープラン」を選んだのだろう。明日の演奏会には、未亡人もマチェラータから駆けつけてくれる。

同日17:30 イェージの劇場控室
古く煤けた感じの細いへろへろの廊下の一番奥が、おそらくいつも指揮者のために使っていると思しき年季の入った控室で、目の前に石畳の共和国広場がみえる。広場では子どもたちがサッカーをしたり、老人が一列に並んで話している。誰かが廊下でタイスの瞑想曲を弾いている。

このプログラムの最後の練習が終わる。オーケストラは殊の外協力的で、もう1回、もう1回とオーケストラの方からパッセージ練習をこれだけ積極的に頼まれた記憶はない。如何せん練習時間は限定されていて、どうしても先にいかないと、ご免ねと言うたびに、髭を蓄えた厳つい初老のヴィオラのトップが、それは悲しそうな顔をする。ところで、イタリアのオーケストラのコンサートマスターは、概して似たような印象があって、爽やかでスポーティーな出で立ちをしている。洒落た皮のスニーカーを履きこなし、スタイリッシュなジャージを羽織って颯爽と現われるコンサートマスターを5、6人は知っているが、概して家庭の匂いがしないのは、地元でなく外から雇われてやってきているからだろう。

練習が終わって、劇場下の食堂「いかれ猫」で、フランチェスコと彼のお母さんと食事。彼女がここに来たのは、フランチェスコの本番もさることながら、フリードリヒ2世の出生地をどうしても見たかったから、と興奮さめやらぬ様子。
「あんな均整のとれた文化人は後にも先にも彼だけだわ」。
フランチェスコと同じ、裏返るような抑揚が心地よい。

2月X 日10:30 ホテルにて
いま、こうして書いていると、ホテルのどこかから、フランチェスコがエマニュエル・バッハを練習している音が聞こえる。
朝、イェージの街を散策する。劇場脇から伸びる古い石畳がペルゴレージ通りで、コスタンツェが公衆の面前でフリードリヒ2世を産み落とした広場に繋がっている。広場には土曜の朝市が立っていて、イスラム教に寛容で、ローマ教皇から追い出されることになったフリードリヒ2世らしく、イタリア語とアラビア語で出生についての説明が彫り込まれていた。

2月X日 08:15 ホテルにて
昨日の演奏会は思いのほか聴衆が多くて驚く。フランチェスコのエマニュエル・バッハは、とても心に響いた。特に2楽章は触れると崩れそうなほど繊細で、3楽章で快活さを取戻すため、楽章間でいつもより間を取らなければならなかった。

ラヴェルの美しさが引合いに出されるとき、しばしば「精巧な時計のよう」と喩えられる。その通りだけれども、ラヴェルはそこに思いもかけぬあどけなさが同居していて、魅力が増す気がする。昨日の「クープラン」はオーボエが冴えていて、彼を聞きたくて皆が耳をそばだてて弾いた。フォルテでこっそり一小節ファゴットが増やされたり、ピアノでラッパが1小節増やされるオーケストレーションで、音を塗りたくるのは逆効果に違いない。一緒くたに食材を入れて最後にミキサーにかけてスープにしてしまうのは、さすがに勿体ない。
演奏会後、楽屋に記者の婦人が訪ねてきた。
「ラヴェルのこの作品はエキゾティックな感じがしますが、あなたは親近感を感じますか」。

今日は来週から練習の始まるノーノを読み返し、レオパルディの最後の詩による作曲のつづき。明日はスコダニッビオが招いてくれた演奏会を振るため、40キロほど離れたマチェラータの劇場へ出掛ける。レオパルディは、マチェラータ県のレカナーティに生まれ、このマルケの丘や緑を眺めて育った。
日曜朝の礼拝なのだろう。街中の教会の鐘が、一斉に鳴り出した。

(2月26日イェージのホテルにて)