しもた屋之噺(138)

杉山洋一

半年ぶりに日本に戻ると、やはり前とは随分違う街並みだと感じます。子供の頃から通った渋谷や下北沢の駅でまごついてしまうと、流石に自分の環境適応能力が低いのかと悲しくもなります。家人絡みで「ブエノスアイレスのマリア」を観た帰り道、息子に話の筋は分かったのかと尋ねると、「マリアの話でしょ。その程度は分かった。ところで、あれはペルー語だったの」と答えが返ってきました。彼のミラノのクラスメート、フェルナンドやアレッサンドラ、ヴァレンティーナなんかがいつも話している言葉だと思ったようです。ところで、彼は自らの故郷はイタリアだと思っているそうで、「だって生まれたのはミラノでしょう」、と至極当然という顔で言われたときは、少し驚きました。
思えば、自分が小学校3年生だったころに、自分の故郷について考えたこともなかった筈だから、息子が少し羨ましい気もするし、成るほどこうした積み重ねが、アイデンティティの形成の根底を成すのかもしれません。三軒茶屋の駅から家までの道すがら、一時的に通っている世田谷の小学校で習った言葉の意味を尋ねられました。「あたたかい気持ちを伝える」ってどういう意味。感謝を伝えるということなの。有難うという気持ちなの。
「さあ、どうだろう。それだけではない気もするし、すべて収斂させれば、確かにそんな意味になりそうな気もするが」というと、息子は不思議そうにこちらへ顔を向けました。「お父さんは、日本語上手なの?」。

6月某日 サンマリノ・旅籠「リーノ」にて
サンマリノの常宿に久しぶりに足を踏み入れると、皆がよく帰ってきたね、と集まってきた。オーケストラの練習場に着くと、どうして久しく来なかったのよと皆に声をかけられ、2年ぶりに会う練習場横の可愛らしい喫茶店の妙齢jは、可愛らしい赤ん坊を抱えてこぼれそうな笑顔で挨拶してくれた。笑顔に囲まれるのは、幸せ。
久しぶりにグラズノフのサックス協奏曲をやったが、弾きにくいのはいつでも同じ。変へ長調に臨時記号と経過音を載せて真っ黒になった楽譜を見ながら、いにしえの封建的ロシア社会ヒエラルキーの一端を見る思い。どんなに難しいパッセージを書こうとも、演奏家はとにかく音を並べなければならない。後年の「平易でなければならない」というソビエト文化のスローガンは、してみると逆説的どころか諧謔的にすらひびく。どんな楽譜を書こうとも、平易そうに聞こえなければならない、さもなくば、平易に聴こえさえすればよい。和声は実は平易だが、何重にも重ねられた装飾でほとんど見えないほどのこともあるし、聞こえさせまいと懸命に飾り付けているようでもある。
過度にきらびやかな装飾と、神経質なまで簡潔で欺くことのないかくされた骨組みは、チャイコフスキーでもスクリャービンでもショスタコーヴィチでも同じ。ショスタコーヴィチは、この「平易な姿」をほとんど逆手に取った作風を展開した。プロコフィエフやラフマニノフが西洋風に聞こえるのは、骨組みに西洋風な手を加えているからだが、本質的な傾向は一緒。少し見る角度は違うかもしれないけれど、ストラヴィンスキーだって本質的には同じだろう。ロシア正教会をロシアでみたとき、少し彼らのバックボーンが見えた気がした。天井はあまり高くなく、単純な作りだけれど、ひしめく装飾と、ほのぐらい空間に浮き上がる、数々の神秘的なイコンが、焚かれた香の向こうでゆらめいている。全く反対に、一見何の変哲もない風景に見えながら、まるでだまし絵のように構造が入組んでいるのが、たとえばハイドンかもしれない。
常宿の親父の家に招かれ、オーケストラ練習の始まる5分前まで、彼の息子のピアノを聞いてやってほしいと引き留められた。そうして練習時間ちょうどにリハ会場に入ると、オーケストラ団員がヨーイチが消えたと揃って心配している。二日目の練習は、リハーサルがサッカーのチェコ・イタリア戦と重なり男性陣は気もそぞろ。「みんなイタリア人じゃないでしょう」と悪戯っぽく言うと、誰もが決まって恥ずかしそうに頭をかく。よって休憩を減らし練習も早めに切り上げる。こちらも勢い宿でステーキを頬張り、ウイスキーを呷って、サッカー観劇。

6月某日 自宅にて
市立音楽院の卒業証書が国立音楽院と同じ資格をとれるようになったので、全体職員会議が開かれた。新しく書かれた学校規約を皆で読みながら、各自意見を言い合う。
「レッスン室内での飲食は一切禁止する」。この項はどうですか、と学長が講堂一杯に並んだ教師陣に問うと、歌クラスの教師が手を挙げた。「歌の生徒たちはみな飲物を持参しなければなりませんがどうしますか」と発言して、周りの教師たちの失笑を買う。それに応えて、「それなら、韓国人の歌手にニンニク禁止令を出してくれんとな。教室が臭くてたまらねえもんな」と聞えよがしに話す輩が近くにいて、気分がわるくなる。「ああ、日本人のことじゃないから悪くとらないでよ」とこちらに目配せしてくれて、逆効果。
日本政府は、原発の再稼働と輸出に力をいれているけれども、それに対して自分が何を思っているのか、見失いそうになる。9月の本番のために、サロウィワにまつわるヴィデオを片っ端から見直す。オゴニランド、ベインの女性たちが、毎木曜日の朝6時に、サロウィワの遺体が何時しか埋葬されたと信じている墓の周りに集い、キリスト教の聖歌を歌い、断食して祈りを捧げる姿が、しずかに心を穿つ。
95年にサロウィワが処刑される前から、彼女たちは毎週サロウィワと集い、祈りをささげ、断食を続ける。処刑後、そこに集う女性の数は増え続け、サロウィワの墓は、みなが集まる教会のような姿になった。教会のもっとも自然な姿であると同時に、クリスチャンがクリスチャンに何の罪悪感なく手を下せるとしたら、宗教とは一体なんだろうとも疑問を覚える。尤も、それは不遜で邪まな思考なのだろうけれども。
教会入口に掲げられた旗にはモットーが書かれている。「断食と祈祷」。その下に描かれた二人の天使の足元には、「イエスの名のもとに、神はわれわれと共にあらせられる。アーメン」。
近代化された生活を享受する自分に、誰をも糾弾する資格がないのは、よくわかっている。

6月某日 ミラノ行最終列車内にて
朝、R社に楽譜を取りに行き、そのまま練習会場へ向かう。毎日微分音のリハーサルをしていると、耳が変化してくる。それが良いことかどうかはわからないが、ていねいに音程を合せる大切さを改めて感じる。互いに音を聴きあうことで、音をぶつけ合うことがなくなり、アンサンブルの音そのものが円やかになる。
パリのジェルヴァゾーニのクラスに、妙なピアノが2台鎮座していたのを思い出す。一つは四分音低く調律されたピアノでもう一つは16分音ピアノ。微分音が文字通り鮮明過ぎるほど聴こえてくる。このピアノで毎日微分音の作品を聴いていれば、まるで、平均律ピアノで訓練された耳で歌うソルフェージュのように、微分音が操れるようになるのだろうが、個人的にはそう訓練したいとは全く思わない。思えば子供のころは、今よりずっと絶対音感があった気がするけれど、特にイタリアに住むようになって、どんどん曖昧にしたいと願ってきた。一見不明瞭にすることから、自分の耳で音をさぐる面白味が見えてくるから。
今日はピアノの調律をグリゼイのために変えてもらう。「音の渦」では、このピアノの四分音が、さまざまな部分の音程合せの核となる。四分音は、言ってしまえば西洋音楽の訓練を積んだ管楽器奏者や弦楽器奏者にとっては、無意識に唇や指の当て方で微調整する範囲なので、どの部分でどの音からどう音をつくるか、あらかじめしっかりと理解しておかなければならない。たまたま近くを通りかかったヨガ教室の生徒さんたちが、揃って通し稽古をきいていた。何でも扉の向こう側で、45分間立ち尽くして耳を澄ませていたそうだ。ヨガをやっているだけはあると感心するが、みな一様に言葉もでないほど感激していて、却ってこちらが驚く。
ところで、昼休みソファーで寝ていると、若い男が呼び鈴を鳴らして入ってきた。
「すみません、イントナルモーリを受け取りにきました」、と出し抜けにいとも簡単に言うので、耳を疑ってしまった。「確かにトイレの前に、怪しげなレバーが付いた箱がある。まさかとは思ったが、あれは本物のイントナルモーリだったのかい」。「ああ、これです。有難うございます。ずいぶん大きいですね。一人で持てるかな。ああ、大丈夫です。それでは失礼いたしました」。「イントナルモーリにしては、ラッパがないけど。これでいいのかい」。「たぶん、これでいいと思うんです。ありがとうございます」。
その暫く後に、今度は家主がやってきて、後で誰かがイントナルモーリを取りにくるので宜しく頼む、と言う。
それなら、さっき若い男がきて引取っていったというと、箱の下のブリキの筒も持って行ったか尋ねるので、それは持っていかなかったと答えた。果たして、くだんの若い男が戻ってきたので、
「ラッパを忘れたんだね」。
彼はわらいながら肩をすくませ、ずいぶん大ぶりのブリキのラッパを抱えて出て行った。

さて、さきほどパルマでアルフォンソの演奏会を聴き終わり、がらんどうの最終特急でミラノに戻っている。
往きにパルマのクレープ屋で道をたずねたところ、蜂蜜クレープから蜂蜜が滴り、上着とズボンが偉い目に遭った。ここ数日、北イタリア体感温度は摂氏42℃。酷暑どころではない上に、教えてもらった道順はどれも悉く間違っていたが、今にして思えば互いに暑気にやられていたのかもしれない。何れにせよイタリア人に道を尋ねることなかれ。それから、演奏会前に蜂蜜クレープは頼まぬこと。会場で知り合いに握手を求められ、「すみません、手が蜂蜜だらけでべとついているものですから」というと、怪訝な顔をされる。
アルフォンソは今晩、1曲目にプリペアドピアノを演奏し2曲目に「子供の情景」を弾いた。その折、シューマンを弾く前に取り去るはずだった1曲目の全てのプリペアドを、一つ二つ残してしまっていたらしく、左手で突然妙な音がした。どうするのかと思いきや、繰り返しは器用にオクターブずらしてプリペアドを避けていたのに感心する。エキセントリックな「子供の情景」とショパンの前奏曲だったが、個性のある演奏は別の意味で説得感もあるし、作品の気が付かなかった側面が見えて面白いこともある。あそこまでペダルを外し、独特のアクセントをつけたショパンの前奏曲は、黒死病で踊る死神の姿を彷彿とさせた。自作よりも骸骨の踊る不思議なショパンの前奏曲が、よほど印象に残ったのだから、やはり彼の作戦勝ちだと思う。

6月某日自宅にて
Sで練習が終わり、夜はミラノ工科大学で、ディヴェルティメント・アンサンブルの演奏会におもむく。屋外に舞台が組まれ演奏会が催されたのだが、近所では大音量のロックコンサートが同時進行中で、絶叫する観客の歓声とあいまって、目の前の音響はさしずめノーノの「森は若々しく生命に満ちていて」のようにも、「真昼のように煌々と輝く工場」のようにも聞こえる。かいつまんで言えばアンサンブルが何を弾いているのか、まるで聴こえない状態で、演奏は一時中断。
夕べは練習が終わっても立上る元気がなく、練習も座ったままやり過ごした。何とか家にたどり着き、熱を測ると39度。起きているのか寝ているのか意識も定かでないまま、布団に入り、まだ夜明け前の朝の4時半にひどい寝汗で体が凍えて目が覚めた。すると、上でなにかコトリと音がしたので、耳をそばだてる。暫くするとまたコトリ、と音がする。初めは、耳の錯覚か、隣の家で犬がうろついているのかと思ったが、三度目にコトリとした瞬間、文字通りパンツ一丁で階段を駆け上ると、果たして庭に面したガラス戸を、黒装束の男2人が何やらこじ開けようとしていた。そのまま彼らに駆け寄り面と向かって大声で泥棒だ!と怒鳴ると、男どもは線路伝いに逃げて行った。尤もあと1分も遅ければ、彼らは家に侵入していたに違いない。二人に組伏せられてどうなっていたかも知れないことに気が付き、初めて鳥肌が立つ。

6月某日 マントヴァからの帰宅途中車中
夕べはミラノで「時間の渦」を演奏し、個人的に何通かメールまでもらった。ミラノのスペクトル音楽を書く作曲家などから、ずいぶん興奮したメールをもらったので、自分の楽譜の読み方も悪い所ばかりではなかったのかと少々安心。昼に、友人の結婚披露パーティーのために、アッビアーテグラッソ近郊の農場へでかけ、午後4時過ぎの電車でマントヴァにでかけた。
車中一人でぐっすりと眠りこんだ。ヴェネトとロンバルディアと、エミリア・ロマーニャの交差するマントヴァの街並みは、何時きても美しいとおもうし、人も明るい。今日は一切お目にかかれなかったが、料理も飛びぬけて美味。今日の「時間の渦」は、夜のとばりに立ち上る深紺の怪しげな積乱雲と不釣り合いな月に照らされながら、16世紀に作られた屋外の舞台で演奏したが、遠くに聴こえる鳥の声や、木々をわたる風の音が、グリゼイと絶妙に雑ざるのが新鮮だった。後で送ってもらった写真をみると、立ち上る雲は、人が手を広げたような姿でもあり、息子曰く、吠える龍のようにも見える。幻想的な夜の風景。響きすぎず、かといって乾きすぎず、舞台の音響も思いのほかよく作られていて、先人の文化人たちの趣味の良さに舌を巻いた。確かにそのころ、マントヴァは文化都市として花形の地位を築いていた。
夕べ、ここ暫く練習に通ったスタジオSで、主人のフランコが自慢げに、漆塗りに蒔絵がほどこされた、ずいぶん古そうなお盆を見せてくれて、何でもロンドンの骨董品屋で見つけたという。1800年代のものだとかで、朱はところどころ剥げて、金箔もすっかり黒く変色しているけれど、賑々しく品もある絵柄が魅力的だ。何しろ芽出度い雰囲気なのがいい。ふと押されている印に目を凝らすと、確かに「杉山家」と書いてある。余りに妙な因縁に、思わず愉快な気分になった。

(6月30日 三軒茶屋にて)