しもた屋之噺(147)

杉山洋一

明け方、まだ暗いうちの鳥のさえずりがとても賑々しくなってきました。あちらこちらから聴こえる呼び交わしを愉しみつつ、無意識にクセナキスの「テレテクトール」を思い出していました。中学生のころ、家を訪ねてくれた担任の先生に、「お前が好きな音楽はどんなもの」と聞かれて、擦り切れるほど聞いた「ノモス・ガンマ」と「ジョンシェ」のレコードをかけたのですが、今にして思えば先生がどれだけ困ったことか、想像に難くありません。少しずつ口をとがらせるようになってきた息子が、そのうちこんな風になってほしくないと、心から願う今日この頃です。

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 3月某日
最後まで書いて沢井さんに漸くお送りする。「浜つ千鳥、浜よはゆかず、磯づたふ」の部分。欲しい音をどう楽譜に書けばよいか考えあぐねた末、結局弾きやすいよう直してもらおうと開き直る。一応悩んだ、というのが自らに対しての安心料なのだが、演奏者からすればよい迷惑。千鳥の話なので、当初「千鳥」と仮題をつけたが、「千鳥の曲」があるので、現代風に読み替え「白鳥」にしようかとも思う。が、今度はサンサーンスのようになってしまう。結局旧いコトバで「くがひ」に決めると、ユージさんの「カガヒ」にそっくりになってしまった。

 3月某日
音に神秘はあるのか、という話は身体のようでもある。肉体はつくれても、魂はつくれるかどうか。息子いわく、人間は未来に向かってどんどん進化して、頭脳が発達し続ける、といっていたが、実際はどうなのだろう。ローマ駅裏の路地で、肉饂飩を喰らう。大変美味。が、主人はまったくイタリア語が話せない。ミェン、ミェンといって、近くで食べている人の肉饂飩を指さしたら、ハイハイ、といって出してくれた。野菜と豆腐を炒めてくれないかと、目の前に並ぶ食材を指さしながら手真似で伝えたのは、目の前で流れている中国のテレビで、ずっと美味しい豆腐料理の特集をしていたから。店の娘は、「アンタなんでイタリア語を話すの? アタイと一緒」、と破顔一笑。

 3月某日 
アラッラとカンディンスキーの展覧会を見る。小学生低学年のこどもたちが、校外学習できていてカンディンスキーを熱心に見入っている。ガイドは、「この絵にはどんな形がかくされていますか?」と分かり易いことばで、見るきっかけを与えてゆく。同じ会場で、ウォーホールの展覧会も催されていて、ウクライナ情勢が緊迫するなか、ロシアとアメリカのアーチストに並ぶ2本の長い行列の先に、作家たちの大きなポスターが旗めく。最初期のカンディンスキーを見ながら、無意識にスクリャービンの音楽がうかぶ。

 3月某日
以前は、作曲において、自分のスタイルを探すことに貴重な時間を割いていたと気づく。分かり易いスタイルを作り上げなければいけない、という無意識の強迫観念。演奏家を従わせるのではなく、自分が演奏家に従い、簡単なことから、思いもかけない結果を生み出したいとおもう。自分が指揮をすればするほど、演奏家を楽譜から解放したい欲求にかられるのはなぜだろう。おそらく、演奏家がそれぞれ自分らしく、本当に生き生きとした音をだせる状況について、多くを学んだからかもしれない。

 3月某日
多くの演奏家が、互いに別のフレーズを演奏するとき、指揮が壁や囲いを作ってそれぞれが豊かな音を出す邪魔をしてはいけないとおもう。作曲する立場からしても、演奏する立場からしても、それは同じ。クラシックであれ、現代作品であれ、指揮者は、それぞれの空間のなかを、邪魔せず行き来できるのが理想なのだろう。

 3月某日
「海がゆけば、腰なずむ 大河原の植草、海川いざよふ。浜つ千鳥、浜よゆかず、磯づたふ」。消えた航空機が、ふと八尋千鳥の姿と重なり合う。

 3月某日
無性に本が読みたい。ローマ駅の書店で買ったStefano BenniのTerra!。2157年、7月29日、パリの外気温は零下11度。第七次世界大戦後、世界は度重なる核戦争で気候が変わり、生活の基盤はすべて地中奥深くに再現されている。遥か昔のように、放射能の心配がなく、本物の自然のなかで暮らせるような惑星は、まだ見つかっていないが、荒くれ者の探検家が、遂にそれを見つけたという秘密のメッセージが届く。場所は不明。それを探しに出かけるという風刺の利いたベストセラー。

 3月某日
教えるというのは、何を意味するのだろうと学校にゆくといつも自問自答する。音楽をみる、その視点を教えたい。透明な窓のような「音符」という存在があるとして、内と外のどちらから、その「音符」を眺められるか、感じられるか。音符を外からいくらなぞっても、内からしか触ったときにしか得られないものがある。テンポのなかに音をあてはめてゆくのと、音をあてはめてゆく、テンポがうきあがるか、の違いだろう。後者のほうが、音が格段に鮮やかに際立つ理由は、よくわからない。

(3月29日ミラノにて)