しもた屋之噺(161)

杉山洋一

芝生を刈りながら、どうか葉と葉の合間に息づく虫たちを,無為に殺したりしませんように、と無意識に祈りながら芝刈り機を押していることがあります。昨日も芝刈りを終えると、目の前に、それは見事な黄金色に光る、テントウムシのような形の昆虫、これもコガネムシなのかなと、思わず手に取りました。

戦争で爆撃などで、人を殺めるのも、こんな感じなのかしらと思ったり、でもあちらはそれを前提とする行為だから、少しは違うかしらと思ったり。ああ間違って殺ってしまった、という感じなのかと思ったり。間違いを何度も繰り返すうちに、感覚が少しずつ麻痺してきて、それが愉快にさえ感じられるようになるのかと思ったり。
狩りが趣味だった時代があるとすれば、殺める行為のどこかに、本質的にわれわれの本能のどこかにドーパミンを発するスィッチが残っていて、何かの切っ掛けでそこに電流が流れるようになるのかしらと思ったり。
たとえ倫理的におかしいからと、普段は頭から切り捨てていたとしても。

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 5月某日
ミラノで反万博のデモ。昨日まで授業をしていた基督教大学のあるカルドゥッチ通りで、車が放火され、銀行や菓子屋のガラスが粉々に叩き壊された。突然繰り広げられる超現実的な光景に衝撃を受ける。息子は万博よりこの反万博のデモ隊が気になって仕方がないらしく、盛んにニュースのスレッドを検索している。イタリア人がやっているのかと思いきや、彼らはヨーロッパ各地から集まって来て、昨晩はミラノの北公園や、ジャンベッリーノ地区に滞留と国営放送が発表したので驚く。この辺りに匿われているらしい。

 5月某日
左手の親指に疼痛。終いには酷くて鉛筆も持てない。リューマチかしらと思っていたが、どうやら先日自転車に乗っていて、車と接触したところだと気がついた。ウィンカーも出さず、携帯電話を見ている運転手の傍らで自転車は危険極まりない。
ここ暫く拙宅に身を寄せている矢野君が、カニーノのレッスンから戻ってきた。109を持って行くと、繰り返し和声について指摘されたという。その彼と息子を連れダヴィンチ展へゆく。
膨大な量の人体や動物の骨格、筋肉、解剖学的スケッチや、陰影の入角計算、遠近法の計算など、徹頭徹尾主観を排除し対象物を描こうとする態度が貫かれていて、ゴシック期を経て、真理を求める当時のメタ宗教観でもあるだろうし、古代ローマ文化への憧憬もカソリック文化との矛盾を晒け出す。精神性とは、前提としてアプリオリに存在するものではなく、最終的な帰結点として彼が目指し続けたもの。写実性を高めることで、真理に近づくと信じたのだろう。
イタリアの文化は、かかる現実主義に培われ現在に至る。109の精神性は、均整のとれた骨格と、無駄のない美しい筋肉をあつらえることで生み出される。高邁な精神性、観念性をもってしても、筋肉や骨格を寸分違わず埋め込むのは不可能だと悟っていたに違いない。

 5月某日
作曲科生二人を相手に、三階端の教室でビッチェとピェイグ・ロジェの和声課題を読む。先週はディティーユとメシアンを読み、メシアンの「キリストの昇天」や「おお聖なる饗宴よ」を弾いて聴かせた。今日は低いヤマハの縦型ピアノでは、階下で稽古しているボエームの声量に負けて何も聴こえない。仕方がないので共鳴板を跳ね上げると、丁度学生との間に目隠し板がある格好になり、フランチェスカが笑いながら、「ちょっと止めましょうよ。これじゃあ教会の懺悔室みたい」と声を上げた。民放ラジオで一番大きな「ラジオ・ポポラーレ」で、クラシック番組を長く担当しているフランチェスカの声はよく通る。
「両親が熱心なカソリックだったから、14歳までは毎日曜日、教会のミサに通ったわ。そうして懺悔なんかもさせられて」。
どんな心持ちなのか尋ねると、
「あんな偽善にわたしは我慢できないわ。体裁としては神に懺悔するわけだけれど、実際は懺悔している相手の神父が誰だかも知っているし、神父も私が誰だか知っている。ただの茶番よ」。
定期的に懺悔をしなければいけない、というので、特に懺悔をすることがないときはどうするのかと尋ねると、
「懺悔することがない人間なんて、聖人でもなければ無理ね」
と、至極真面目に応えられてしまった。
「両親は大層がっかりしたけれど、或る時からカソリックであることを止めたわ。うちの娘にもまだ洗礼を受けさせていないの。彼女が自分で洗礼を受けたいと云えば反対しないけれど、自分が信じてもいないことを、娘に課すのは間違っているでしょう」。
いつも明るく笑っているフランチェスカから、そんな話を聴くとは想像もしていなかった。
少し驚きながら家路につき、息子を小学校に迎えに行くと、親友のグリエルモと別れるところだった。
「グリエルモは今日初めて教会で懺悔をやるんだって。お父さん懺悔って何」と尋ねられて、言葉に詰まった。

 5月某日
ビッローネの楽譜を読みながら、ヴァレーズ、カウエル、アンタイル、ルッソロといった人々が一世紀程前に目指した音響体と、ジョリヴェやハリソンのような民族主義が混交する錯覚に陥る。百年前は大音量で機械的な音響を目指していたが、科学の進歩や技術革新が進んだ今日、シェルシやノーノ、シャリーノやラッヘンマンといった人々を経て、マクロからミクロへと視点は転換し、微細でより機械的でない音響が求められるようになった。
ビッローネの楽譜が、思いの外構造的に構築されていておどろく。東洋思想など影響を受けているから、そうした手続きを意識的に避けていると思いこんでいた。詰まる所、丹念に描き込まれた陰影を、どれだけ正確に実現できるか、ということ。余計な先入観も観念性も排除したところに彼の音楽の本質が浮かび上がるのだろう、などと考えていて、何だかイスラムの教えのようだ、と荒唐無稽な思考が頭を過る。観念的な視点では、人間はどうにも恣意的に都合良く理解したつもりになるものらしい。

音楽学校で四声の和声を学ぶのは、言い換えれば、西洋音楽の伝統は全て四声で表現できるから。四声で言い尽くせるのは発想の限界と揶揄されるかも知れないが、これ程豊かな無数の音楽が、四声から紡ぎ出される驚異をおもう。尤も、四声に収斂できるという発想そのものが、西洋的なのだろうけれど。
階下で矢野君が、バッハの「旅立つ兄への奇想曲」を練習している。飾り気のないプロテスタント教会を思い出し、幾度も繰り返し試している装飾音が、土壁のシミのように音楽に吸い込まれてゆく。飾っても華美にならぬ純朴な宗教心を思うのは、カソリック文化に囲まれて暮らしているからか。

 5月某日
沢井さんから「東アジア琴箏の研究」を頂戴し、嬉々として読みふける。中国の古琴の奏法をはじめ、各楽器についてこれほど丁寧に噛み砕いて説明されていることに驚嘆し、安易に情報を得られるようになった昨今、我々の知識がどれだけ表面的で薄いものになってしまったか痛感する。「マソカガミ」に演奏に際し、彼女は当初、正倉院の楽器を復元した七絃琴が、表現力に欠けることに落胆していらしたが、現在の古琴の先入観さえ棄ててしまえば、丘公により近い少し和琴にも似たあの乾いた音、渡来人が携えてきた当時の音で、聴いてみたいとお願いし、「真澄鏡懸けて偲へと奉り出す形見のものを人に示すな」と詠んだ、地の果てに流れ着いた中臣宅守を想う。

 5月某日
ある友人の音楽家からメールを頂く。「最近、日本国民でいることが恥ずかしくなってきました」とある。食事中に日本のニュースをラジオで聴くのが常なのだけれど、先日、沖縄の理解について話していて、70年前日本とアメリカは沖縄で戦い、その後27年間アメリカの統治下に置かれ、昭和47年に日本に戻ってからも、アメリカ軍が駐留していて云々と続いた。しかしながら70年前に何故日米が沖縄で戦いを交え、何故アメリカの統治下に置かれたのか、一切説明がなかった。一言では説明できないのも解るけれど、日本の無条件降伏か、せめて敗戦について説明しなければ、現在まで米軍が沖縄に駐留する理由に納得はゆかないだろう。
若い人々がものを知らない、と苦言を呈す前に、我々は全てを詳らかに説明する責任を負っているはずだ。
歴史認識における近隣諸国との軋轢に関して、どれが正論かは分からない。これがヨーロッパであれば、第三者機関に判断を委ね、その決定に国民は随うのだろうが、文化が違うので仕方がない。中東も、同じように問題解決ができるとは思えない。
近隣諸国による対日本の歪んだ歴史教育を糾弾する前に、我々自身が次の世代に全て正しく伝えているのか、鑑みることも或いは必要かもしれない。さもなければ、歴史認識の相互理解は乖離するばかりではないか。

 5月某日
イルカ追い込み漁禁止のニュースで、「日本文化の否定」に対して強い拒否反応があったと聞く。田舎が湯河原なのでイルカ肉については知っている。その昔肉を定期的に食べられなかった頃の貴重なタンパク源で、普通に肉が口に出来るようになった現在、マンボウの刺身のように特に好きな人が口にする程度で、それ以上でもそれ以下でもなく、鯨肉よりも希少なはずだ。
ただ、追い込み漁がどんなものかも知らなかったし、水族館のイルカと関わっているとも知らなかった。
水族館の見世物にされるイルカが可哀想という人もあれば、イルカの紹介を通して理解を深め、環境問題、自然破壊問題に目をむける切っ掛けになるという人もいるだろう。動物園の動物がどのように捕らえられているかも、我々は知らないし、知るべきかどうかも分からない。我々の食肉の屠場の様子や、薬品や化粧品の動物実験について、我々が敢えて知ろうとしないのと均しい。残虐で子供に屠場は見せられないが、肉は食べるという我々の矛盾に、あまり我々にも馴染みのない日本伝統文化の誇りが薄く混じっている感じか。

スカラで掛かっているバッティステッリの新作オペラ「CO2」を観にゆく。息子が毎日家で児童合唱の練習をしていて、彼の歌う場面の音楽は知っていた。
我々の環境破壊、エネルギー消費や消費世界、飛行機の二酸化炭素排出量増大が地球を破綻に導く、という啓示的内容。音楽は停滞せず展開し、舞台そのものが巨大なアップルのモニターになっていて、その中で物語がオムニバス形式で展開するのだが、舞台装置は前評判に違わず見事だった。そして、エネルギー消費削減を啓蒙する舞台を作るべく、電力とエネルギーと、世界各地から飛行機で集う演奏者や観客の不思議を思った。

(5月26日ミラノにて)