しもた屋之噺(162)

杉山洋一

季節は夜の8時から9時あたりの日暮れ頃、親鳥につれられた黒ツグミの雛たちが庭の芝生を闊歩しては、水撒きを心待ちにしているように見えます。日中の暑気のせいか、それとも水を撒くと餌の虫が動き出すのかも知れません。ここに住んで、夜明けに響き渡るツグミの歌声から、夏を意識するようになりましたが、毎年巣立っていった雛たちは、今ごろどうしているのだろうと思います。
目の前で煌々とひかる橙色の月をながめながら、我々自身はこれからどこへ行こうとしているのか自問しながら、この原稿を書いています。

 ・・・

 6月某日 バーゼル トゥルディ邸
ビッローネから頼まれたドイツの若いアンサンブルとの仕事で、初めてバーゼルを訪れる。ロンドン、パリ、フライブルグ、フランクフルト、トレヴィーゾ、バーゼルと、演奏者が別の場所に住んでいるので、演奏会のあるバーゼルでリハーサルとなった。
ポーランド生れでドイツに住むアグニェシュカが、以前ビッローネの打楽器曲「マニ・モノ」を演奏したというので、「だらりと垂れていて、ビヨンビヨン音のするあれは、何ていう楽器だっけ」というと、「あたしについていないアレよ」と大笑いした。「彼女についていないアレ」を曲中50秒間もシェイクし続けるのはどんなものか尋ねると「結構疲れるわ」。

 6月某日 バーゼル トゥルディ邸
「スイス人は親切なので、近くまで来たら通りすがりの人に道を尋ねて」とスイス人のベッティーナからアドヴァイスを受ける。
「ここに行きたい。この停留所で降りるように云われたので、着いたら降ろしてください」。
運転手に話しかけると、親切に運転中のバスを路肩に停め、差し出した小さな地図をしげしげと眺めて言う。
「ここにゆくのなら、次の停留所で乗り換えてください」。
「でもここで降りろといわれたのですが」。
「遠回りです。悪いことは言いませんから、この通りになさい」。
親切な運転手に指示通り停留所を降り、道行く人に目的地を尋ねる。
「この道の名前は聞いたことがあります。この辺りにあるはずです。安心してください。もうすぐ着きますから。きっとあの信号の向こう側ではないでしょうか。あちらまで行ってまた尋ねてみたらどうでしょう」。
「あらトランクをお持ちで大変ですね。この通りですか。確かにこの辺りですが、どうやら貴方は反対方向へいらしたようです。信号の向こう側左手あたりです。え、あちらからいらしたの、妙ですね。でも大丈夫、もうすぐですから」。
10人くらいに尋ねてはその度に励まされて、目的地の近所でトランクを曳きずりながら、小一時間徘徊し気がつくと目の前の細い通りが探していた通りだった。

この家の主トゥルディはベッティーナの母親代わりだ。最初に「私はベッティーナのグッド・マザーなの」と自己紹介されたときは、カソリック洗礼式の代母の意味だと勘違いして、プロテスタントの代母とは何だろうと不思議に思って尋ねると、「文字通りの母親代わり」、と破顔一笑した。
「本当のお母さんの身の上に事故や病気など何かがあったときに、私が母親になる取り決めがしてあって、いつもベッティーナとも連絡を取り合っているの。スイスではしばしば見られる習慣なの」。

 6月某日 バーゼル クララ広場喫茶店
練習場は、ザンクト・アルバンの塔を通り越した辺りで路面電車を降り、丘を登った公園の中にある。昼休みはチュルヒャー通りまで下って生協で何某か購うのが常だが、今日は珍しく生協の入口で手作り野菜サモサとおやきを売っていて購入する。聞けばネパール地震被災者への義捐金集めだそうで、代金は幾らでも良いと云われ困惑する。味はとても美味。
日中30度を越える暑さになって、夜半急に気温が下るからか、温度差に軽く風邪をひきかけたらしく喉が痛むので、中央駅の売店で適当なスコッチ・ウィスキーの小瓶を選び、寝る前に呷る。
駅前で路面電車の切符を買っていると、こちらに向かって笑顔で手を振る男がいて、気がつけば作曲のマクシミリアーノ・アミーチだった。昨年トリノのイタリア国営放送響と彼の「フローウィング」録音来の、思いもよらぬ再会に喜ぶ。

 6月某日 ミラノ ダルヴェルメ劇場
昨晩演奏会が終って朝4時にバーゼル駅に着くと、既に喫茶店が開いている。カフェラッテとクロワッサンを購入し、チューリッヒ空港行の一番列車に乗り込んだ。そそくさと朝食を済ませ車掌に切符を見せ、アイマスクをして空港まで眠り込む。
10時からミラノで指揮科の期末試験なので、8時半にはミラノに着いて郊外電車の切符を買っていると、聴講生のファビオが後ろに並んでいた。空港近くの街に住んでいて、試験を見学しにくるところだった。
今回のバーゼル滞在は懐かしくそして新鮮な体験だった。一つずつ発見し、音楽を丁寧に築き上げる喜びに、久しぶりに触れることができた。

演奏者も聴衆も等しく惹き込まれる、ビッローネの桁外れに深い表現力に舌を巻き、演奏後も興奮冷めやらぬ様子。
特殊奏法による非楽音で作品を作る行為が、普遍的ですらある現在、余程明確な音楽のファンタジーと構築力がなければ、説得力すら持たない。何故わざわざ穿った音で作品を書くのか分らない、程度の興味で終わってしまう。作曲者本来の音楽の豊かさが問われる時代になった証だろう。インターネット登場以前は、作曲家の内面は作曲を学ぶ上で培われ、世に登場してから、最新の技法なり技術なりを身につけたが、現在は手順が逆になったのかも知れない。
学校やワークショップで、まず新しい技法や演奏法を学んだのち、どう自分の音楽にするか向き合う。さもなければ情報弱者などと呼ばれる恐れもある。情報が多ければ多いほどよいと信じ込むのも、時としてどうかと思うけれど。

 6月某日 ミラノ自宅
コンクールを受けるため拙宅に数日寓居している生徒の母上が、急遽がんの摘出手術を受けた。急に決まったので彼は既にイタリアに到着していて、予定を変更も出来ず無念だったろう。参加した二つのコンクールを見事に連続優勝したのは、実力もさることながら、母上の励みになりたい一心だったに違いない。
家人の高校来の親友が、脳内出血で病院に収容されたと便りが届く。

 6月某日 ミラノ自宅
以前教えていた生徒に紹介されたと連絡を受けようになり、突然ハンブルグオペラでバッハのカンタータを振る通奏低音奏者や、ヤマハの早期音楽教育で学生オーケストラをしきるヴァイオリンニストなど、少し毛色の変わった生徒がやってきた。

イスラエルから伊政府給費留学で作曲を学びにきているAから同じように連絡を貰ったのは5月末。聞けば指揮の経験は皆無だけれど、9月に国立音楽院の指揮科高等課程の入試をどうしても受けたいと云う。ついては入試以前に夏期講習会にいくつか参加し、オーケストラを振っておかなければならないから、準備を手伝ってほしいと聞いた時には、呆れて物も言えなかったが、
「イスラエルに、実入りのよい仕事も、魅力的な彼女も、持ち家も全て捨ててきたのです。失敗するわけにも、諦めるわけにもいきません」、とまで言われ、なるほど捨て鉢か、さてどういう結果が出るのかと興味深く見守ることにした。

最初のレッスンで二つは大体こうやって、三つはこうやってという按配だったのが、一ヶ月足らずで曲がりなりにも、ベートーヴェンの交響曲1番と3番、ブラームスのハイドン変奏曲、コープランドのアパラチアの春、シベリウスのヴァイオリン協奏曲、マーラーのアダージェットをやっているのだから、意気込みには学ぶところが多い。
いくらイスラエル人でも、突然指揮が出来るわけでも、全ての楽譜が頭に入るわけもなく、彼のレッスンは未だかつてやったことのない類であって、「ここから先は見てきていません」。「でも先生全部最後まで振ってください。何百遍もヴィデオを見て真似してきます」。

ともかく捨て鉢で9月までの付き合いなので、彼の言うとおりにやってみているが、ここ暫く井筒俊彦の「コーランを読む」ばかりカバンに忍ばせているのは、彼には内緒にしている。こんなに面白い本だとは想像もしていなかった。
目に見えない曖昧としたものが、言語化した途端に意味やシンボルを持つことになるのは、宗教に限らず、もちろん音楽でも同じ。

その前に読んだ山本七平と加瀬英明の「イスラムの読み方」で、イスラエルのヨハナンアジア局長が山本七平に語った捨て鉢のくだりが頭に浮ぶ。
「日本のアラブへの経済援助はどんどんやって欲しい。生活水準が上がると意識が変わる。人間は失うものがないときに、一番無謀なことをやるけれど、少しでもなにか持てば失うまいとして慎重になる」。
それに対し、加瀬英明は「イデオロギー過剰は、失うものをもっていないから。理想を強調するのは、現実とのギャップの大きさを示す」と応えた。

 6月某日 ミラノ自宅
2年前の深秋、ピアノのアルフォンソが出したガスリーニのポートレートCDの発売記念コンサートに出かけた折には、まさか自分が彼の追悼アルバムに係わるとは想像もしていなかった。それほどガスリーニは矍鑠として情熱に満ち溢れ、これからはジャズピアニストの活動を制限して作曲に勤しむと意気揚々としていた。
目の前に並んだ彼のスコアは、とても自由闊達としていて清清しい。12音のセリーと、ジャズ風オスティナートと、魅力的な旋律がごく自然に共存していて、映画音楽と純音楽を分けて作曲するモリコーネよりも、寧ろ、一世代上のロータのよう。映画音楽が、彼本来の純音楽、もしくはライフワークのジャズスタイルに近かったのだろう。ミラノ国立音楽院時代の同級生だったカスティリオーニのピアノが上手で舌を巻いた話や、休み時間にベリオと古今東西の交響曲を連弾していた話が忘れられない。

 6月某日 ミラノ自宅
指揮のレッスンにやってきたセレーナが取り成してくれて、息子がカニーノにピアノを聴いてもらう。本格的にやらせる気などなかったが、十歳にもなれば親の云うことを聴くはずもなく、趣味の割りにプライドだけは高くて誰にも習いたくないという。
「カニーノの処だったら行ってもいい」と大言壮語甚だしく、それなら一度さんざんお灸を据えて貰おうかと軽はずみにセレーナに話したところ、本当に行くことになってしまい大変後悔する。あれほど緊張で居た堪れない思いはもうご免被る。

いきなりミクロコスモスで初見を試されたりして、余り上手くも弾けなかったので、流石に本人も省りみて今後の身の振り方も考えるだろうと高を括っていると、帰り道、「とても楽しかった。また行きたい」と、とんでもないことを言い出す。まあ当然断ってくれるものと思い、その旨伝えると、「折角やりたいと言っているものを、無理に辞めさせるのも可哀相だから」、「宿題をきちんとやるのであれば」時々見てくださるというではないか。
「叩けよ。さらば開かれん」と言うけれど、では「叩けば好いの」と言いたくなるが、家人は息子と性格が似て「小さい時に、偉大な音楽に触れることは良いこと」などととぼけている。思えばその昔右も左も分らないまま阿佐ヶ谷の三善先生宅へ連れてゆかれたのも、同じくらいの齢だった。息子からすればあんな感じなのだろう。
この調子だから、もしいつも日本に住んでいたら「悠治さんの処だったら、近所だし行ってもいい」とのたまったに違いない。ともかく息子は日本に帰り、カニーノからの夏休みの宿題、音階と初見とソルフェージュに勤しんでいる。

 6月某日 ミラノ自宅
MITO音楽祭で、アデスとフランチェスコーニの個展をやるので、譜面を開いている。同じ作家の作品を並行して数曲読むのは作家の色々な側面を知るのに役立つ。イギリス音楽は未だ自分の勉強不足を痛感しているが、いつも持つ印象は、音の雄弁さとミクロからマクロへ向かう構造だろう。本人が意識しているかは知らないが、タイやジルスのようなムジカ・スペクラティーヴァから現在に至る伝統が、やはりアデスの楽譜の奥に息づいている気がする。同じく構造を見せる音楽はイタリアにもあるが、マクロからミクロへ収斂してゆく印象がある。ほぼ同じ時代に、ダウランドのような世俗歌曲が生まれ、高邁な思索と世俗性の二つの柱が今まで英国音楽を支えていると理解してきたが、案外的外れの理解なのかと思うときもある。

 6月某日 ミラノ自宅
ディエゴから息子にメッセージ。互いに親の携帯電話のSNSでやり取りしていて、息子が宗教の試験が全く出来なかったので、落第したのではないかと気を揉んでいたらしい。キリストを洗礼したのは誰か、という問題で、洗礼者ヨハネ、イタリア語でジョヴァンニ・バッティスタが全く出てこなかったらしい。毎日教会に通う敬虔なディエゴからしたら信じられないのだろう。翌日またディエゴからメッセージが届く。突然だけれど、9月から学校を変わらなければいけないかも知れない、とあって涙のマークが続く。

驚いて電話したところ、偶然すぐ近所にいるからと、エルメスがディエゴを連れてやってきた。「ダニエラが急死してもうすぐ半年になる。僕も乳飲み子を連れ、今まで仕事もしないでこここまでやってきたが、流石に限界なんだ。月末には子供たちを連れてポルトガルに休暇に行く。そこからサンティアゴ・デ・コンポステラにどうしても徒歩で巡礼に行きたくて」。
0歳のガブリエレがいるので無理だけれど、少しだけでも歩いて巡礼したい、そう熱心に話すエルメスの傍らで、息子はディエゴに自分のお気に入りの黒い腕時計をプレゼントしていた。

(6月30日ミラノにて)