しもた屋之噺(167)

杉山洋一

急に寒が厳しくなったせいか、界隈全体に給湯するボイラーが壊れました。もう三日も温水が来ないばかりか、暖房もつきません。粉雪が散らつき朝晩零度前後ですから、湯沸し器二つとストーブ一つを購い、何とかやり過ごしています。
少なくとも三日、実は何時直るか分らないと言われ、この冬枯れの下、幼い子供や老人を連れ、国を捨てて行き場を失う無数の人々を思います。街がイルミネーションに埋め尽されるクリスマスは、すぐそこです。

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 11月某日 ミラノ自宅
小学校の最終学年になるまで、校名について息子と話したことすらなかった。唐突に11月4日第一次大戦終戦記念日に、警官隊が学校で式典を催すと連絡が廻ってきて、4年生と5年生は全員クラスで国旗を作り、イタリア国歌を練習している。

毎朝ミケッタを買うビニョーリ通りのパン屋で、学校名のNazario Sauroが誰かと息子に尋ねると、「第一次大戦中、昔イタリアが外国に盗まれた土地を奪還すべく大活躍した英雄」と、さも自信たっぷりに云うのに愕いてしまった。イストリアを、イタリアでは外国に盗まれた土地と教わる。

 11月某日 ミラノ自宅
家族で揃って出掛けられる週末も中々ないので、紅葉を見ようとコリコへ出掛ける。湖畔で一番地元客で賑わうレストランに入り、ラヴァネルロの塩焼と、ボッリートという肉の水煮、ソバ粉のパスタ、ピッツォッケリに舌鼓をうつ。

ボートから湖面に集う無数の水鳥を眺める。彩り豊かなマガモか、黒地に白のオオバンが大半で、そこに白鳥が雑じる。遥かアルプスのボルミオから端を発したアッダ川が、ソンドリオを通って湖に流れ込むあたりは、水の色も濃くて凍るように冷たい。

音もなくさざめくように無数の葦がなびくまにまに、何百というオオバンの黒と白がうつろい、エンジンを止めて見入る。山々の向こうに夕陽が少しずつ沈むとき、何重にも重なる墨絵のような稜線がうつくしい。

 11月某日 ミラノ自宅
息子がヴォツェックの児童合唱をやっていて、面白そうなので観劇。息子の出番は、オペラの末尾2分ほどのわらべ唄のみだから、集合時間は、本番が始まり10分程経ったところ。それから衣装に着替えて声を出しても出番まで充分な時間があるらしく、机に突っ伏して寝たり、宿題をしているらしい。今日も何時ものようにインスペクターのキアラに息子を渡して、そのまま劇場に入ると、ボックス席案内係の男女が、狭い廊下で激しく抱き合っていて、もう観客は通らないと思ったらしい。互いに決まりの悪いままボックス席に通されると、目の前の舞台でも激しいラブシーン。妙に筋が通っている。

末尾にスキップをしながら息子たちが輪になって踊るところで、息子は呆れるほど満面の笑顔。尤も、彼に悲壮感が漂う必要はない。終演後別ボックスで観劇していたメルセデスと合流、文芸人珈琲「カフェ・デル・レッテラート」で話込む。まあ子供の観るオペラじゃないわね。

 11月某日 ローマ ・エウクリデ広場喫茶店
昨日一日フィラルモーニカ・ロマーナで「瀧の白糸」リハーサル。想像通りタイムコード合わせに苦労したが、ヴィデオ担当のシモーネはとても親切。昨晩の夕食会で、マッテオ・ダミーコからローマ音楽界の苦労話を聞き、マルチェッロ・パンニとは彼が作曲したオペラ「班女」の話。と或る日本の作曲家が同じ台本でオペラを作った話と、近藤譲さんが登場人物「吉雄」は二音節と云った話を繰返しきく。全ての道はローマへ続くけれども、その道はちと遠い。高校の頃マルチェッロの指揮するドナトーニの「室内交響曲」のレコードを、擦りきれるほど聴いた。元気で陽気なローマの老人は、年齢不詳。

前日は、後藤さん、辻さん、アルドとクリストフと連立ち、旧くからのローマ食堂「S」に出掛ける。美味なアマトリチャーナとトリッパに舌鼓を打ちつつ、壁を埋め尽くす写真と絵の中には、先代の趣味だとかでムッソリーニの写真と肖像画が何枚も雑じる。ラツィオ地方は未だに右派が強いから、と食後、腹ごなししながらアルドが呟いた。海が近く、人気ない夜半、鴎が啼く。

 11月某日  トリノよりミラノ行最終列車
トリノにSさんがいらしたので演奏会にお邪魔する。本番30分前までハイドンとバッハの話に喫茶店で花が咲き、こちらが心配になる。次から次へと演奏者から共に演奏する喜びを引き出すから、どこまで音楽を繰広げても余裕が残っている。充分なフォルテの後に、それを凌ぐフォルテが瑞々しく響きわたる様は、馬力満点のレーシングカー。

 11月某日 音楽院脇喫茶店
一昨日、サンドロの家で一日レッスンをした後、預けてあった息子を迎えにヴェローナ出身のパオロ宅へ出掛ける。例のナザリオ・サウロはヴェネト州と所縁が深いから、パオロが何と言うか興味があった。ローマのおばちゃん食堂のムッソリーニの話をすると、途端に彼は顔を顰めた。「あれ程の国民を死に追いやった人間を崇めるなんて正気の沙汰ではないね。その食堂に足を踏み入れたら、自分だったら気分が悪くなる」。
では息子がイストリアを盗まれた土地と呼んでいたが、どう思うかと尋ねると、それは強ち間違いではないと云う。やはりイタリアにとってイストリアは国土の一部らしい。ナザリオ・サウロの名前は第一次大戦の英雄として当然のように知っていた。

昨日は、長年学校で伴奏をしてくれているマリア・シルヴァーナにも、ナザリオ・サウロについて尋ねた。マリア・シルヴァーナはトリエステ出身だが、彼女の父はナザリオ・サウロが生れ育ったイストリア出身で、彼女の母はヴェニスにほど近いフリウリ・モンファルコーネ軍造船所で働く祖父母の下で育てられた。サウロが最後の航海でオーストリア軍に逮捕された折には、ヴェニスの軍港から潜水艦で出航したし、サウロの名は当時から知られていたから、彼女の祖父も当然知っていたはずだ。

彼女の祖父はその後軍造船所を辞め、ユーゴの社会統一運動に合流した。チトー政権下のユーゴでは彼女の祖父のような親ソヴィエト共産党員は敵対視され、逮捕直前でイタリアに逃げ延びたところ、今度はイタリアで、国を捨てた裏切者として長く迫害されることになった。まともな仕事にもつけず、親戚の家の納屋の天井部屋に長らく居候暮らしをせざるを得なかった。最近まで、こうしたユーゴ統一に貢献したイタリア人労働者の話は伏せられていたのが、漸く研究者によって全貌が詳らかになりつつある。

「君は自分はイタリア人と感じるのか」と尋ねると、彼女は「当然だ」と言う。
「そのイタリア人と思える感覚が、20年住んでも未だに納得がゆかないのだよ。君が自分をイタリア人だと思うのは理解できる。トリエステは第二次大戦後も厄介が続いたけれど、その後イタリア領と認められてから、生れ育ったわけだから。
それに反して、サウロはオーストリア帝国下のイストリアのイタリア人コミュニティで1880年に生まれていて、イタリアが誕生して既に20年ばかり経っていたが、イストリアはオーストリア領だった。ルネッサンス時代のヴェネチア共和国の隆盛以降ハプスブルグに吸収されるまで、イストリアはずっと不安定だったでしょう。だからイタリアの一部と単純に括ると腑に落ちない。ヴェネチア・フィリウリ・ジュリアの一部と言うなら未だ分かるけれど」。
「オーストリア帝国統治下でも、私たちはずっとイタリア語を話してきたの。尤も、イタリア語と云うよりヴェネト言葉だけれど。オーストリア帝国はドイツ語を強制しなかったでしょう。その影響は大きいと思うわ」。

 11月某日 ミラノ自宅
サンタゴスティーノのスリランカ食堂で久しぶりにイングリッドに会う。優れた音楽学者で現代音楽、特にスペクトル学派の研究で認められた。未だエミリオが学校で教えていた頃に指揮クラスにやってきて、彼が辞めた後も何年か彼女に指揮を教えた。

彼女はクロアチアのポーラで生まれ、イタリア人コミュニティとスラブ人コミュニティが同居する街で、それぞれのコミュニティに友達も居ていがみ合うこともなく、ずっと自然に暮らしてきたと云う。ところが、イタリアに住み始めてから、ポーラをイタリアの土地だと信じるイタリア人が未だに沢山いるのを知ってショックを受けた。

「どこの生まれと聞かれて、他愛もなくポーラと答えたお陰で、どれだけ厭な思いをしてきたことか。あら、あなたはあの本来イタリアの一部であるはずの土地から来たのね。じゃあ、あなたもイタリア人ね、と返されたことがどれだけあったか。その度にわたしは歴史を一から説明しなければいけなくて、逆高すらしたわ」。

息子が学校でイストリアを「盗まれたイタリア」と習った、と言うと、表情が一気に険しくなった。
「近代史の再教育かしら。信じられないわ。あの土地には、もう1000年以上前からスラブ人がコミュニティを築き、それが未だに残っているのよ。後にイタリアから渡ってきた人たちがイタリア人コミュニティを作ったけれど、どちらがどちらを支配したこともなく、1000年もの間、ごく普通に一緒に住んできたのよ。
その間、様々な国の支配を受けたけれど、イストリアの文化は常に同じだったわ。数だけ言えばスラブ系よりイタリア系コミュニティは今も昔もずっと小さく、それは何百年も変らないわ。それは問題にすらならず、彼らは家ではイタリア語を話し、現代で云えばイタリア人学校に通わせる程度の違いよ」。

「イタリアが統一された時、イストリアはイタリアではなく、オーストリアだったのよ。それを何故イタリアから盗まれた土地だなんて呼べるの。ゴリツィアのように街の真ん中を国境が分断して、未だにイタリア系とスロヴェニア系のコミュニティがいがみ合っている地域とは違うの。あそこの大学で働いた時は、スロヴァニア系学生への差別はあからさまだった」。

「だから、イストリアを盗まれたイタリアの土地と呼ぶのは歴史を単純化し過ぎで、酷すぎるわ。父方の祖父はムッソリーニ時代、学校でイタリア語を学ばなければならなかったからイタリア語は多少は話せるけれど、それとて現在のヴェネチアでは到底通じない旧いヴェネチア方言よ。イタリアの社会政策は、近代まで何ら問題もなく共存してきた平和な土地に踏み込んできて、無理やりイタリア化政策を施したのよ」。イングリッドのイタリア語は、浮び上るヴェネトのイントネーションに近い。

「兎も角、イストリアのイタリア系コミュニティは常に少数派だったから、たとえその中の一人がこの土地をイタリアにと発言しても、スラブ系コミュニティはおろか、イタリア系コミュニティからも相手にされなかったと思うわ。ナザリオ・サウロはそんな狂信的なイタリア主義者だったのよ。オーストリア帝国は、土地の言葉をドイツ語化しようとはしなかったでしょう。ムッソリーニとは根本的に違ったの。文化とかアイデンティティは、普段気に留めることすらないけれど、それを守る必要を感じた瞬間に、出し抜けに噴出すもののようね」。

結局、文化とは言語なのよ、とイングリッドは繰返した。普段何気なく家で話す言葉が自らの文化を形成する。ソウルからやってきた韓国人が、日本で出身を尋ねられ、あの日本だったところからやってきたのだから、あなたも日本人ね、と言われる感じか。土地が繋がっているのと海に隔てられるのでは、こうも違う。ソウルで両民族が常に平和に共存してきたわけではないけれど。

 11月某日 ミラノ自宅
昨晩パリで同時多発テロ。その前日夜には、拙宅からさして遠くない日本人学校裏のサンジミニャーノ通りで、キッパーを被ったユダヤ人肉屋の主人が、何者かに顔を5回刺され病院に運ばれた。幸い命に別状はないが、視神経がやられて失明の危険、と新聞に書いてある。新聞には、男性がキッパーを被り、イタリア語は話せずユダヤ教正統派に所属とある。イタリア語が話せないことが、事件とどう関係あるのか分からないが、記事に、犯人はアラビア語は話さなかった、ともある。

その記事を読んだ直後に、パリのニュースを知る。キリスト教大からは、アメリカ人留学生に向け緊急メールが届く。万全の保安体制を整えているので、安心するようにとのこと。日本では何と報道されているのか。外国人排除の論調が広がらないことを願う。

 11月某日 ミラノ自宅
今朝、サクソフォン独奏曲を書き上げ、大石くんに送る。テナー・サクソフォンのために書く約束だったのに、書き始めるとバリトン・サクソフォンの音が頭から離れない。

息子のクラスでは、算数の時間、若くて可愛らしいロベルタ先生が、皆を車座に座らせて、今回、パリのテロに報復するフランス軍の爆撃は正しいかと質問した。全員が揃って、それは間違いだ、と照し合わせたように答えたと云う。その後、ロベルタ先生は質問を続けた。「では、あなたがフランスの大統領だったら、どうしましたか」。

エジプト人のマリアムは、「あたしはまず監獄のテロリストに面会にゆくわ。どうしてそんなことをしたのか話したいから」、と言った。ムスリムで口を開いたのは彼女だけだった。
フィリピン人のカールは、「分からないようにイスラム国にスパイを送り込み、兵士たちを煽動して士気が萎えたところで投降させる」、と意気込んだ。他の生徒たちも、彼ら二人の意見に賛同して、口々にイスラム国の人たちと話をしたい、と語り合った。ムスリムのソフィアやヌールは、黙って皆の話しに耳を傾けるばかりだった。いつも少しひょうきんなフィリピン人のエンドリックは、友達の話の途中、自分の意見で遮ったから、先生に怒られて車座から外されてしまった。

今日のロベルタ先生の算数の宿題は、「お父さん、お母さんがフランスの大統領だったら、どうするか、きいてくること」。数日拙宅に寓居中のピーターも、ワイングラスを傾けながら、息子の勢いに驚いた。ロべルタ先生が、先ずフランスの爆撃の意義について話したのは、ムスリムの生徒たちが他から乖離しないようとの気遣いからだったのだろうか。息子の両親は、結局何も答えてやれなかった。「フランス大統領が、我が国が戦争状態にあると宣言したよ、どうしよう」、と息子は恐がっている。

大石くんに書く。前に「悲しみにくれる」を演奏してくれたときも、パリでテロがあり、今度もテロがあった。何という巡り合わせだろう。中央駅近くのホテルも、国立放送局の鉄塔も、ミラノのあちらこちらのビルが静かにフランスの三色旗にライトアップされている。

 11月某日 ミラノ自宅
大学でずっと一緒に演奏してきたMちゃんが亡くなった。何も知らなかったが、子宮癌だった。夏にご主人と一緒に仕事した折、Mちゃんはと尋ねたかったのに、不思議に出来なかった。明日がお葬式、とメールを受取り言葉を喪う。結局お花を送ってご主人に手紙をしたためたがMちゃんのため、というのは口実で、結局自分のエゴのため。自分が自分に納得できないからさ。嫌な奴だと自らを賎しむように覗きこむ自分がいる。
夕刻、ミラノ・ドゥオーモ駅に爆発物との連絡があって地下鉄駅は閉鎖。夜半、息子が泣きながら起きてきた。劇場で本番中機関銃を持った人が乱入してきた、と震えている。

キリスト教大から改めてメールが届く。アメリカ大使館から護衛兵と私服警官が派遣されるとのこと。改めて最大限の保安体制を講じているので案じないように、とのこと。昨日息子は、A4紙とストローで作ったイタリア国旗を学校から持ち帰り、それを振りながらイタリア国歌を歌った。今日はフランス国旗と日の丸を学校から持ち帰った。

世界の情報がどれほど身近になっても、現実とは確実に乖離せざるを得ない。音楽と同じとよく知っている筈なのに、それすら忘れてしまう。パリの翌日、ベイルートで酷いテロが起きたとしても、我々の関心がパリにばかり向けられるのなら、次回のテロは、ベイルートより効果的な都市が選ばれるに違いない。

その昔、我々の祖先は、やられたらやりかえす、という原始的規範のみでは、社会が成立しないと理解し、理性と知性を培うことで、一歩でも二歩でも進んだ社会の規範を築こうと努力してきた。

併しながら、国や民族という、我々がまだ自分を諌める裁量のない次元に於いては、かかる原始的規範は歴然と鎮座したままであって、そこまで我々の社会は昇華できなかった。遥か未来、我々の興味が地球外に向けられるようになって初めて、地球上の采配を、我々自身で行えるようになるのかも知れない。敵対する共通の対象物が現れて初めて、我々は互いにアイデンティティは共有できるというのか。今回に限っては、それでは恐らく、遅すぎる気がしている。

 11月某日 ミラノ自宅
大石くんと松尾さんの演奏した「かなしみにくれる女のように」の録音が届く。「ギターの美しい響きを聴くことに集中しながら音楽を進めていいたら、あっという間の15分間でした」。

ひたひたと寄せる想いが、無数の綾を空間に残してゆく。縛らず音楽を規定しない喜びとは、こういうものか。自分には音楽の欠片もない。自分は音楽ではない。悲しみも喜びもない。何もなく、ただ意味を持たない媒介に過ぎない。

あるパレスチナ少女の死の残り香が、素材に偶然振りかけられたに過ぎない。彼女の周りで、無数の失われた光が、空間のあちらこちらで鈍く明滅する。その一つ一つが言葉を発するようでもあるが、恐らくそれは主観に過ぎぬ。死に対して、我々一人ひとりが自ら生きてきた時間と自分との距離を投影しているに過ぎない。命とは何だろう、自問を繰り返しながら、聴き返す。自分の答えを探したくて、聴き返す。

ロシア軍機がトルコに撃墜され、トルコの救援車列はロシアに爆撃された。同じ頃シカゴでは、昨年ナイフを持った黒人少年に16発射撃して殺害した白人警官が追訴されたという。様々な命が、日々ねじり畳まれた時間軸のまにまに呑み込まれてゆくのを、我々はただ傍観に甘んじている。心をとざして。
(11月28日 ミラノにて)