しもた屋之噺(150)

杉山洋一

ここ十日ほど、とても不安定な天候が続いています。今朝は日本のニュースで斎藤晴彦さんの訃報を知り、新宿の焼身自殺について知りました。
タルコフスキーの「ノスタルジア」で、ローマのカンピドリオ広場でドメニコが自らに火を放つ場面で読む、トニーノ・グエッラの詩が高校時代からとても好きで、そのうちの一節はオルガン曲の、もう一節は大学の終わりに夭逝した友人に捧げるピアノ曲の題名にしたのを思い出します。

 空気とは、
 おまえの顔のまわりにあって
 おまえが笑うと、鮮やかになる
 さらさら軽い、あれのこと。

東京で学生をしていたころ想像していたイタリアは、あの映画に似て、神秘的で鼠色とも煤色ともつかないフィルターが掛っていました。ともかく今日はどこか厭世観に満ちていて、曳きずって歩いた6月を終えるには恰好な一日となったのでした。

  ・・・

 6月某日
波多野さんのために書く歌の詩を探していて、ユージさんに教えて頂いたギュンター・アンダースとイーザリーのやり取りを読むが、これを歌曲にする勇気はまだない。今回の機会に相応しくないのと、ギュンター・アンダースがイーザリーに書いた最初の手紙が、どこか自分と異質なものに感じられたからか。尤も、差異はむしろ当然だともおもう。

 6月某日
仕事を終えて家に戻るとミーラから電話がかかった。今月末のレッスンの話かと思いきや、ご主人のフランコが昨日亡くなったという。俄かには信じがたく、これからそちらに向かうと言い、受話器を置いた。

果たして、一張羅の背広の上下を着て、臙脂のスカーフを首に巻き、胸にもタイをさしたフランコが、自宅のベッドに仰臥していた。目は薄く開いているようにも見え、口は軽く開いていたが、安らかな寝顔だった。部屋にはきつめの冷房がかかっていて、花瓶にさした百合の香りと相俟って霊安室の匂いが漂う。鼻と口にはガーゼがつめてあり、背中には氷枕が敷き詰めてあるという。

病院の霊安室より、どれほど良いだろう。バスタオルだけが一枚敷いてあるベッドに普通に横たわっているのを見るのは奇妙にも思えたが、程なく馴れた。よい習慣だと思うが、後で匂いが染み付かないかと、不謹慎なことを考えたりする。昨日臨終を看取ったのは、ミーラと彼女の女友達の二人だけで、終油の秘蹟も彼女たちが自分たちでしたのだという。

夜遅く、家人と息子もやってきて、横たわるフランコに会った。9歳の息子は当初少し怖気づいていたが、実際亡骸をみると、むしろ少し安心したようだった。人が死ぬ姿はしっかりと息子に見せてやりたかったし、ここの葬式では棺は閉じられ顔すら見えず、匂いも嗅げない。一度焼き場に送れば火葬には立ち会えず、骨も拾えない。全ては歴としたカソリック文化の上に成立していて、未だ火葬は背徳行為に毛が生えた程度の扱いでしかない。

 6月某日
フランコの死に接した息子は、人が腐敗することが気になって仕方がないらしい。誰でも死ねば、土に帰ると説明はするが、彼は恐らくまだ蛆虫すら知らない。あのように安らかにベッドに横たわる亡骸を見ると、あのまま置いておけそうな錯覚に陥る。ただ、時間とは無情で、やはり自分たちは何かに支配されていると思う。ミーラに頼まれて、家人は死者のためのミサで歌われる、「アヴェ・ヴェルム・コルプス」とフォーレの「リベラ・メ」を伴奏しに出かけた。

息子と同級の女の子が繰返し家庭の話をするのを、息子は嫌がっている。彼女の母親は、しばしば違う男を家に連れてきては、娘の眼前で行為に及ぶといい、詳細に次第を説明されるのが、息子は耐えられない。担任のヴィットリアに相談すると、教師たちは状況を既に把握していて、来学期から彼女は児童相談所に保護が決まっていた。「秋からはこの学校には来ないから、息子さんは心配ありません。辛いけれど仕方ないわ」。

彼女たちはアルゼンチン移民で、父親はアルゼンチンで投獄されている。どういう経緯でイタリアに来たかは知らないし、どんな職業でも蔑みはしないが、娘の目の前で仕事をする必要はないだろう。ただ、どんな状況であれ、慕っている母親と引離さなければならないのは不憫でならない。

 6月某日
夜半3時、物音に反応して目を覚ます。飛び起きて窓のところへ走り寄ると、果たして泥棒が庭から入ろうとして失敗し、逃げようと土壁をよじ登っていた。スタジアムジャンパーに、野球帽を目深に被った若い男。

生まれたのち、人間形成が完成されるのは何時だろう。やがて死に至り人格が消滅するのはどの瞬間か。夜半に目が覚めて寝付けないままに、そんなことを思う。先月エトヴォシュさんとお会いしたとき、作品が完成する瞬間はどこだろうと考えていたのに似ている。楽譜が完成しても、それは作品の完成とは言い切れない、そう改めて感じたのは、彼の音楽への情熱にほだされたから。

 6月某日
お箏の演奏にかかわる裏方作業について、仲宗根さんよりお便りを頂く。皆目見当もつかない世界の話で、面白くて仕方がなかったが、約束なので詳述しない。

弦楽のための「シチリアのカノン」送付。音楽祭の窓口になっている作曲家のロベルト・カルネヴァーリは、20年以上前にシエナのドナトーニ・クラスで知り合った。バッハの3声のカノンを12声に分け、バッハとゴールドベルクの名前から取った数列に沿って崩してゆく。それを改めて頭から書き直して下地を作り、数列に則って音色、強弱、アーティキュレーションのカノンを二重三重に施してゆく。こうやって書くと、何だかラザニアのレシピのようだ。

 6月某日
息子と連れ立ってカニーノさん宅へ伺う。約束の時間より30分ほど早く着くと、シューマンの協奏曲を練習しているのが聴こえて1楽章の第一主題をピアノが弾き始めるところだった。息子は飽きるかと思って喫茶店でも行こうかとも思ったが、開け放たれた窓のすぐそこから聴こえてくるシューマンが素晴らしいので、折角だからここでカニーノさんのピアノを聴こうというと、息子は大喜びで垣根に座って聴き入った。

今週末にミラノでシューマンの本番があるのはセレーナから聞いていた。通し稽古をしていて、ほんの数か所何度か弾き直して確かめている。待ち合わせは20時15分だったが、3楽章を弾き終わったのが20時13分だったから、文字通り1分も無駄にせず暮らしているのだと感嘆する。

そのカニーノさんの車で、ミラノ南部オペラ地区の僧院へ、セレーナが参加するブラームスの五重奏2曲を聴きに出掛けた。息子は二列目のカニーノさんの隣に座らせてもらって、目を輝かせて演奏を見つめる。ヴァイオリンの妙齢が、体を撓らせて弾く姿に魅せられたらしい。ブラームスの室内楽2曲を飽きもせず見られるのなら、たとえ不純な理由であれ彼の歳なら充分だろう。

演奏会後、楽屋でこんなに素敵な室内楽ができるのなら、指揮など勉強しなくてよいのにと言いそうになって口をつぐむ。素晴らしい室内楽は、どんなオーケストラ演奏にも勝る。オーケストラは指揮者が纏め役だろうが、室内楽は纏めることが目的ですらなく、それを互いに弾きこんで音楽を全角度から磨き上げる作業だろう。ベクトルが一つでないから、光が乱反射する美しさを放つ。

 6月某日
今週は学校の試験期間。今日はイヤートレーニングの試験で、昨日はヴェルディ・オケを使って大学生の指揮科の試験。大学卒業資格は今年から新しく発足した制度で、何を基準に判断するかを喧々諤々やっていて、なかなか採点に入れない。

 6月某日
カニーノさんが初めて弾くというシューマンの協奏曲を聴きに、家族総出で出かける。息子が揚々と一番前の席を陣取ったので、家人もその隣に恥ずかしそうに座る。指揮はアントニオ・バリスタで、彼らは二人は長年デュオをやっているだけのことはあって、本当に息があっている。息子はつい先日車に乗せてもらったばかりの紳士が、オーケストラをバックに颯爽とピアノを向かう姿を見るのが愉快で仕方ない。

先日の車中で、シューマンを初めて弾くこと、元よりシューマンのピアノ独奏作品を今まで弾こうと思わなかったこと、弾きながら暗譜を思い出すタイミングを今も色々と試している、と話していらしたことが印象に残った。全体に少し遅めだから一音ずつの響きが聴こえ、それは一見ごついようだが、稜線の描き方がとてもていねいで、フレーズは深く長く広がる。表面をなでるような音楽の作り方とは根本的に違う。

 6月某日
家人がスクリャービンの白ミサと黒ミサを弾くので、息子と連れだってマントヴァ行きの電車に乗った。車中タッパーに詰めた赤飯を二人で交互に喰らう。美味。マントヴァに着く辺りで家人から電話。夕飯を買ってきてほしいというので、マントヴァ駅前の喫茶店でイタリア風クロックムッシュを作ってもらい、茹で卵を購い会場へむかう。白ミサより黒ミサの方が白熱した演奏だったからか、息子は手に汗を握りながら聴いていた。尤も、あれを家で毎日さらわれるのは不健康でたまらない。息子は白ミサは聞き飽きたとこぼしていた。怪しげなパッセージの繰り返しを、毎日息子の部屋でさらわれていると、確かに文句の一つも言いたくもなるのだろう。

 6月某日
バンコクのシラセートからメール。ドナトーニが好きなのに楽譜を見たことすらないと云うので、リコルディに頼んで楽譜を二冊送ってもらう。先に日本に戻る家人と息子を空港に送りにゆき、空港の書店で息子に伊語の本を買う。ジロー二モ・スティルトン探偵ものシリーズ。慌てて家に戻り、自転車で「Amë nö Fï(天の火)」のリハーサルに出かける。

万葉集の「君がゆく 道の長路をくりたたね 焼き滅ぼさむ 天の火もがも」から題を取り、クラリネットには狭野茅上娘子から4篇、ピアノには中臣宅守から3篇、相聞歌を選んで各曲の数列とする。旋律素材には奈良の子守歌「北山の子守歌」をクラリネットに、同じく奈良の遊ばせ歌「おいよ才平は」をピアノにもちいた。

そこまでは実はずっと前に決めてあったのだが、全く書く気が起きなかったし、何を書いても嘘になる気がして厭だったので、今回は勘弁してもらおうかと思っていたところだったのだが、フランコの亡骸の前で「わたしはこれからどうしたいいの」と泣き崩れるミーラの手を握りながら、彼らのために、やはり書かなければいけないと思い立った。既に素材が準備してあって、殆ど自動書記的に書くのにも関わらず、それだけで作曲行為は成立しない不思議を思う。

 6月某日
フランコが亡くなって3週間になる今日、朝から一日教えてから、夜「天の火」を聴きにでかけると、ミーラも演奏会にやってきた。曲の後半、ふと彼女の方に顔を向けると、頬はすっかり涙に濡れそぼっていて、盛んにハンカチを使っていた。

作曲は、むしろ自分の手を離れた何かだと思う時がある。作曲する自分はいるけれど、殆ど何の感情もなく書いていて、むしろ書かされている感覚に近い。セレーナもアルフォンソも、演奏が終わったあと、震えが止まらなかったというから、ちょっとしたオカルトだ。その手に興味はないが、彼らもフランコをよく知っていたから、思わず感情がこもったのだろう。

 6月某日
レッスンにモーツァルトの39番を持ってきたセレーナに誘われ、ドゥオモ脇の20世紀美術館に向けて自転車を漕ぐ。カニーノさんが「リッカルド・マリピエロ生誕100年記念イヴェント」でピアノを弾き、作曲家の孫娘で演劇女優のベネデッタ・チェスクイ・マリピエロによる朗読でガヴァッツェー二の大戦中の回想録を読んだ。
「ヴィットリア門のあちらで、盛んに閃光が立ち上っている。はげしい喧噪で、思わずヴェランダに躍り出る。見れば山の方角が、明るく照らし出されているではないか。慌ててラジオをつけると、果たして何事もなかったかのごとくベッリーニがかかっている。拳を上げてリッカルド・マリピエロが叫んだ。またオペラか。いつものオペラか」。

最後に読まれたマリピエロの手記の、「これほど沢山の音楽がこれまで生まれているのに、自分が作曲する意味とはなにか」という下りを反芻しながら家に着くと、Mさんより「今の時代にこういう音楽を書く意味は、とか、今の時代に作曲を続ける意味はなにか、とか改めてつくづく考えさせられていました。70年前にケージも同じことを言っていたけれど」とメールが届く。

昼食時、ピアノのヴィットリオが、テクノロジーは人間を退化させると盛んに力説。昔は普通に力仕事をして体を鍛えていたのが、今はわざわざ車に乗ってスポーツジムに通う矛盾を考えろ、と声を上げる。スマートフォンなんてとんでもない。俺のこの電話をみろよ。20ユーロで何の機能もついていないが、電話ができれば十分だ。そこに居合わせた殆ど全員が旧型の携帯電話を持っていたので、一人だけスマホをもっていた一番若い生徒は、椅子からはみ出しそうな巨体をうんと小さく申し訳なさそうにしていて、気の毒なことをした。

(6月30日ミラノにて)