しもた屋之噺(223)

杉山洋一

7月に入って自主待機が終わったら、富山にいる家族に会いに出かけるつもりでしたが、東京の感染状況が突出しているので、相変わらず一人静かに東京で仕事に勤しんでいるうち、気が付けば一ケ月が過ぎてしまいました。落着いたら頃合いをみて、などと悠長に構えているうちに、愈々状況は悪化して、先ほどの都知事の臨時会見では、都独自の緊急事態宣言さえ視野に入っていると発表しています。


 
7月某日 三軒茶屋自宅
日本の新聞を読んでいると、学校内のcovid感染が思いの外多い。イタリアでは、未だに学校を再開させないのが大問題となっていて、第二波を鑑みれば適切な判断だったのかもしれないし、第二波前に全く授業を再開できなかったと、先々後悔するかもしれない。
9月半ばの試験もZoomを使用が通知され、指揮レッスンのみ教室で行うことが許された。生徒を集めたテクニックの集団レッスンも暫く出来ない。広い校庭のどこか木陰に集って、少し散らばりながらやるのは可能だろうか。東京の新感染者数67人。イタリア新感染者数182人、死者21人。
 
7月某日 三軒茶屋自宅
水揚げされたばかりのメバルとカマス、メギス、アジ、カワハギなどの一夜干しセットが富山の家人より届く。さっそくカマスを焼くと、新鮮な上薄塩だったのですっかり気に入り、立て続けに二枚平らげる。干物と言えば、幼少より食べなれた、アジとカマスに勝るものなし。今夏は寿司屋を訪れる機会もないだろう。好物のサヨリは、もう何年も口にしていない。
 
来月東京で予定している演奏会を、粛々と準備する。今回関わる二つのオーケストラは、少しずつソーシャルディスタンスの内規も違うけれど、現在のCovid影響下で、安全策を講じながら理想の演奏会実現を目指す関係者の姿は変わらない。
オーケストラのみならず、マネージメントやホール、楽譜制作の関係者がそれぞれの立場から、演奏会実現という枠を超えて、今後の我々自身の将来を見据えて、誠実に意見を交わす。
もちろん、作曲者の希望や意見、作品の意図を作曲者から直接聞くのは、現在の極力制限された条件下に於いては、絶対的な意味をもつ。
 
 演奏会実現に向ける情熱はもちろんのこと、今後の展望を切り拓く使命を、それぞれ一身に引受けているのを感じる。医療従事者でも、エッセンシャルワーカーでもない我々に出来ることは、今まで無意識化にあった文化を、実体化させて共有し、再生に向け真摯に力を収斂させるのみ。
 
7月某日 三軒茶屋自宅
自主待機終了。朝五時半、世田谷観音まで歩く。低い太鼓の音が通りまで漏れ聞こえ、読経が終わるところだった。石段を昇ったところの、楓の美しい深緑の葉は、なめらかな面を形作りながらせり出していて、クセナキスのスコアの美しい折れ線グラフを思う。密集した楓の葉は、薄い雨水をすっかり蓄え、重みで垂れかけているものもある。
楓の葉がポリトープに似ているのではなく、クセナキスが自然を手本に音楽を創造したのだろう。読経を終えたジャージ姿の僧侶と、通りすがり軽く会釈する。
すっかり身体が鈍っている。最低限の体力を回復しなければ、マスクをつけて指揮など出来ない。モリコーネが亡くなり、ミッシャ・マイスキーとベアトリーチェ・ラーナがスカラ座で追悼演奏。ドナトーニに限らず、周りの作曲の誰と話しても、エンニオ程素晴らしい音楽は書けないと絶賛していた。ずっと昔、彼の小さな新作をピエモンテの田舎で録音したことがあって、モリコーネも録音に立ち会うはずだったが、体調を崩して来られなくなった。
 
7月某日 三軒茶屋自宅
高円寺まで自転車を漕いで、山本君作品の独奏者リハーサルに出かける。マスクをつけ指揮すると、すぐに苦しくなる。自主待機明けで体力が落ちているからだろうか。
自分で弾く拙いピアノの音以外、楽音そのものを長く聴いていなかったので、西岡さんと篠田さんのマリンバの音に、深く心を動かされる。そうしているうち、少しずつ指揮する感覚が蘇ってくる。以前に戻る感覚というより、新発見に嬉々とする新鮮さが勝ったのは、我乍ら不思議だった。常に、山本君の音楽には、揺ぎなく音楽を牽引する、強い求心性が宿る。
山本君の楽譜は、いつも正確に的確に、丁寧に記譜されていて、誰に習えばこう書けるのかと思いきや、作曲は独学だそうだ。
 
今朝、世田谷観音まで歩いた折、いつもの観音像の隣に特攻平和観音堂が、その奥には「神州不滅特別攻撃隊之碑」まで立っていて、おどろく。
 
7月某日 三軒茶屋自宅
余程達観した人間でなければ、早晩ひたひたと抑制された毎日に疲弊する。戦いであれば罵る相手があり、原子力発電所であれば電力会社を批難もできた。
伝染病となると、これら負の動力の矛先をどこへ向ければよいのか。鬱憤ばかり澱のように溜まりつづけ、精神までしんしんと染みてくる。
感染者や政府を非難してやり過ごしても、長引くほど、熱に浮かれたように生きてきた春まで、我々自身が堆くためこんできた齟齬の屑が刃のようにすっかり鋭く磨き上げられ、自らの喉元に突き付けられているのに気づく。
 
7月某日 三軒茶屋自宅
渋谷道玄坂地下の喫茶店にて、白石美雪さん、一柳先生と松平敬さんとウェブマガジン対談。久しぶりに再会した皆さんより、揃って、「まあよくぞご無事で」と声をかけられる。写真を撮るときのみ、マスクを外す。
一柳先生がお元気そうで嬉しい。卓球場の閉鎖が解け、休止していた卓球も再開されたそうだ。柔和ながら、精神は若々しく尖っていて、迎合せず泰然としていながら、新しい情報のアンテナの手入れは行き届いている。悠治さんの話をするときの表情は、二人で演奏会を開いていたころとまるで変っていない。横浜で一柳先生の自作ピアノ協奏曲でご一緒したとき、少年のように嬉々としてカデンツァを即興していらしたのが、鮮烈な印象を残した。
尖る、というのは、他人に迎合して丸くなったり諦観したり、ルーティンに甘んじることなく、常に自らを客観視し、律する能力ではないか。
現在の閉塞感と、大戦後の混乱は比較にならない、と話して下さる。怖い憲兵がそこら中で監視している生活が続いた戦争が終わって、アメリカが自由をもたらしてくれたからね。混乱していたとは言え、今とは全く違います。心なしか、そう話す一柳先生の声も弾んで聞こえた。
今の日本を見ていると、戦時中と似ている部分が気になります。
結局、日本人はあまり変わっていませんね。
 
7月某日 三軒茶屋自宅
「オルフィカ(1969)」譜割り。「般若波羅蜜多(1968)」と「歌垣(1971)」の間に作曲されているから、「般若波羅蜜多」や「Kraanarg」で学んだ経験が、読み進む上で役に立つ。似ている部分より、むしろ差異がより明確に浮き彫りになる。昨年暮れ、武満徹さんの60年代作品を集めて演奏した時に実感した音の実体の深さについて、改めて感じ入る。当時の作品が持つ、血の通った音が持つ、説得力の強さ。
「オルフィカ」の楽譜に、不規則に撚られた彩鮮やかな糸を思う。一つの線の周りをさまざまな糸が縁取り、絡めとってゆく。点が生まれ、そこからまた新しい糸が尾を引いてゆく。一つの糸の向こうで、千手観音のように、少しずつずれた無数の影がゆらめく姿を、垣間見たりもする。
音が見えてくる程に、音から離れて楽譜を見つめられる。近くで見ればごつごつしていても、遠くから俯瞰すればなめらかな線に見える。指揮はその稜線をなぞる作業であるべきなのだろう。
明薬通り沿いに古く小さな木造りの祠があって、中には小さな六手観音が鎮座している。長い間撫でられてきたからか、石像の少し角ばった顔の表面は最早なめらかに崩れきっていて、もとの姿は想像できない。
 
7月某日 三軒茶屋自宅
音楽学者のルチアーナ・ガッリアーノは、日本のそれぞれの町に、固有の「太鼓」があると言う。それは理想だよ、東京ではそんな光景は見られない、今度彼女にそう話そうと思っていたところ、授業の一環なのか、家の前の小学校では小学生が毎日盛んに和太鼓の稽古に励んでいて、これが目にも耳にも心地良い。
三軒茶屋独特の太鼓かは知らないが、少なくとも子供たちの身体にはこの時間、この景色、級友たちの姿とともに刻み込まれてゆくに違いない。
家の近所を歩くとき、何十年も前から持っている下駄を、多少音を抑えながらつっかけてゆく。その乾いたからんころんという、木の柔らかい音は耳にやさしく、足にも馴染む気がして、日本に戻った折の密かな愉しみだ。靴音を立てないヨーロッパで、下駄で闊歩するわけにもいかない。
 
二輪の純白の月下美人の写真が母より届く。
「12時を過ぎると萎んでしまうそうです。下さった方の話では、綺麗ね大きくなってねと話しかけると、どんどん大きくなるそうです。確かに、話しかけると花が動くのです。本当にすごい!生きてます」。
「太陽の塔」のような顔を懸命にもたげているように見える。ここ数日両親揃って咲くのを心待ちにしていたが、これだけ見事な大輪なら当然だろう。良い香りがします、とある。
 
7月某日 三軒茶屋自宅
元来14型で書いた「自画像」だが、至急12型のソーシャルディスタンス版を作った。作品の性格上、今回は弦楽器を細分して書かざるを得ず、原版のまま12型では演奏不可能だった。ソーシャルディスタンス問題は、コンサート会場に留まらない。リハーサルにおいても、演奏者を感染の危険から可能な限り遠ざけなければならない。
Go To Travel より東京排除決定。帝劇は劇場関係者感染により4公演休演。新宿小劇場の集団感染者数77人との発表。
ソーシャルディスタンスにより、身体的接触は厳しく制限されながら、covid以前に比べ、社会生活に於ける相互の共同責任、依存度は極端に引き上げられた感がある。ともかく健康を死守しなければならない、生まれて初めての強迫的緊張。
 
7月某日 三軒茶屋自宅
これだけ長く日本で過ごすのも久しぶりだが、これだけ誰にも会わず、どこにも出かけないのも、初めてではないか。友人の演奏会に出かけようと思っても、どのように行動するのが正しいのか、わからなくなった。この状況下、何とか演奏会を実現させようと懸命に尽力する人たちを見ていると、どうしても気軽に足は外に向けられない。一人でも外を歩く人数を減らすのは、感染拡大抑制のささやかな第一歩だし、万が一罹患すれば、演奏会の存続に関わる。
申し訳ない思いにかられつつ、演奏している音楽家たちを、心から応援することしかできない。音楽を愛でる態度とまるで対極にいるようで、何とも気持ちの整理がつかない。
ソーシャルディスタンスで、身体的距離をとりながら、以前よりずっと厳しく相互に関わり合う不思議を思う。困るのは、こうして互いに絡み合いつつ、温もりが培われるのではないところか。今朝早く、世田谷観音へ出掛けると、今年初めて蝉の声。
 
7月某日 三軒茶屋自宅
山根さん新作のエレクトロニクスについて、有馬さんより電話あり。
一見単純な譜面だが、実は複雑に絡み合っていて、かつ山根さんらしい音の色を引き出すのは、決して簡単ではないと思っている。山根作品の経験が豊富な有馬さんが演奏に参加してくださるのは、非常に心強い。夕日に映えるサイケデリックな色彩の風景を、セピア色のフィルターを通して投影するような印象を持っているのだけれど、実際演奏してみたら、全く的外れかもしれない。他者から距離を置こうとしているようにも見えるけれども、そこに引寄せられる強靭さに目を見張る。
 
昔教えていたアリアンナよりメールが届く。コモ国立音楽院の合唱指揮を110点中110点満点で修了したという。彼女に最初に出会ったときアリアンナは18歳くらいだったが、生まれて一度も音楽教育を受けたことがないが、指揮者になりたい、指揮をやりたい、と言って聞かなかった。周りの誰も真面目に相手をしなかったので、教えることになった。
ピアノを弾いたこともなければ、ヘ音記号すらまともに読めなかった。歌など歌った経験もなく酷い音痴だった。合唱を指揮する姿など、当時は想像できなかったが、人一倍努力しながら、信じられないような成長を遂げ、この便りに至る。彼女は、ベルリン音大のポストディプロマの入学許可の返事を待っている。
 
7月某日 三軒茶屋自宅
「あの演奏に痺れた」「稲妻が身体を突き抜けた」のように、神経に電流が流れる様子を直截に表現することは案外多い。
頸後ろ辺りの神経がじわりと温まったかと思うと、尾骶骨までその感覚が一瞬で到達し外へ抜けてゆくのが、実感する感動だが、文字にすると面白みも情緒もない。作曲中に感動した経験は未だないから、あくまでも聴いた音に対する生理的な反応に違いない。
作曲は頭に溜まっていた澱を整理するアウトプットの作業で、思い切って日記を書くと頭がすっきりするのに似ている。譜読みは当初混沌にしか見えなかった情報を、次第に紐解き整理して意味を形成させるインプットの作業で、小説を読むのにも、パズルを解く快感にも似ている。
身体から外へ排出されるアウトプットが生理的に反応しないのは当然なので、やはり感動とは音を体験する者の特権なのだろう。
今は身体がすっかり演奏者仕様に切替わっていて、作曲したことも忘れている。先日までどうやって作曲していたのか、何か考えていたのか、何も覚えていないし、熱に浮かされたように書いた記憶しか残っていない。これでは感動のしようもない。
 
7月某日 三軒茶屋自宅
スピード感をもって対処する。緊張感をもって見守る。危機感をもって注視する。
がさつで直截な発言をていねいに避ける、日本語らしい表現。最近流行の構文なのか、全く知らなかった。含蓄があるので、今度リハーサルで使ってみたらどうかと思う。
そこの打楽器、少し遅れて聞こえますね。スピード感をもって演奏してくださらないと。
おや、あなたは入る場所を間違ってしまいました。緊張感をもって演奏してください。
この部分、弦のみなさんの音程がすっかりずれていますよ。危機感をもって演奏してください。
緊張感と危機感に続いて、絶望感が到来しませんように。
 
7月某日 三軒茶屋自宅
イタリアは10月15日まで非常事態宣言延長を発表。欧州連合、復興基金の合意達成。
感染拡大阻止や、医療充実は当然だろうが、イタリアのように基本的に資金難の国にとって、covid禍を生き抜くにあたり、どれだけ潤沢な復興基金を落掌できるかにかかっていた。
日本はどうなるのだろう、と不安にもなる。多くの自然災害に巻き込まれながら、今後どこまで国や地方自治体が国民を支えてゆけるのだろう。
今日の新聞を開くと、ウクライナとロシアは停戦合意したが、アルメニアとアゼルバイジャン戦闘激化。ヒューストン中国領事館に閉鎖命令。
先日集団感染を起こした新宿の小劇場は、今後ワクチンが発表されるまで、公演はすべて無観客で行うと決定。パリのエミリオよりメールがあって、沢井さんの演奏する「鵠」に感銘を受けたたという。東京で一日366人の新感染者。
 
7月某日 三軒茶屋自宅
子供の頃、FMエアチェック雑誌で目ぼしい作品を見つけては、クラシックに限らず、民族音楽やバロック、現代音楽の番組をカセットに録音していた。特に、エマ・カークビーとジュディス・ネルソンのフランソワ・クープラン「エレミアの哀歌」と、演奏者名不明のカバニレスの「皇帝の戦争」という正反対の二曲は大好きで、覚えるほど聴いた。
「エレミアの哀歌」は後年楽譜を見つけてすぐに買ったが、カバニレスは他のオルガン曲集しか見つけられなかった。それをカベソンのティエント集と一緒に、ピアノで遊び弾きしては愉しんでいた。
鈴木優人さんへのオマージュを兼ねて「自画像」冒頭に「皇帝の戦争」を引用したのは、当時への素朴な懐古からだったが、何十年も経った今頃になって、あの演奏は誰だったのか無性に興味が湧いた。
演奏の特徴はよく覚えていたし、典型的スペインオルガンの音だったから、インターネットで演奏を聴き比べて、すぐにパウリーノ・オルティスがトレドのオルガンで録音したものとわかったが、この曲が1525年2月24日ロンバルディア「パヴィアの戦い」の描写とは知らなかった。
「パヴィアの戦い」はミラノ公国を占領したフランスが、今度はスペインに敗北を喫する決定的戦闘で、曲尾の祝典部分は勝鬨の声をあげたスペイン王カルロス1世、つまり神聖ローマ帝国カール5世の姿だと言う。フランスに接収されて以降、直前までダヴィンチらが活躍していたヨーロッパ名だたる芸術都市ミラノは、長大な頽廃期に迷い込んでしまった。
そのほぼ500年後、covidの立ち籠めるミラノで、独り唸りながらこの旋律を弄っていた。
 
7月某日 三軒茶屋自宅
小野さんより便りが届き、日本近代音楽館で保管していた「たまをぎ」合唱譜を、漸く手に入れたという。オーケストラパートは未だ消失したままだ。
その頃の悠治さんは、1968年アジアを題材に「般若波羅蜜多」をアメリカで初演し、翌69年5月にはギリシャを題材に「オルフィカ」を日本で初演。日本を題材に「歌垣」を71年にアメリカで初演。意識していらしたのか、そうでないのか、題材と初演地が逆転していて、73年日本を題材とした「たまをぎ」で、漸く初演も日本となった。こうしてみると、当時の悠治さんの音楽は、神や目に見えない世界に解き放たれていたようにも見える。ただ、譜面と付き合っていると、実際はそんな具体的な対象物としてではなく、もっとずっと普遍的な「音」や「世界」、「宇宙」や「真理」に繋がってゆく気がする。
悠治さん曰く、「オルフィカ」において指揮者は音を引き出さず、流れる音を眺めていて欲しいそうだ。オーケストラを相手に、それどのように実現すればよいのか、考えることは沢山ある。
80人の演奏者が、通常のオーケストラとは違う相手と並んで演奏し、既存のヒエラルキーから離れて演奏への参加が求められるのは、クセナキスの「Kraanarg」のように、68年5月パリ五月危機の影響だと聞いた。
「オルフィカ」は小沢征爾さんによって初演され、彼に献呈されているが、当初「Kraanarg」も小沢征爾さんが初演する予定で作曲が開始されている。
 
 7月某日 三軒茶屋自宅
コロナ担当大臣と経済再生担当大臣曰く、「少し昔の日常に戻ってしまった」。戻ってはいけない。不要不急の霞を糧に生き永らえてきた我々は、新しい日常で何をめざすべきか。若者たちに、何を伝えればよいか。
経済が疲弊し、下落が止まらなくなれば、誰もが政府の給付金、補助金にすがるしかなくなる。多額の負債を抱えながら、どこまで国が国民を支えられるのだろう。給付金、補助金が際限なく安定して持続されるようになると、感染の危険を冒してまで各人が懸命に働く意思は、消失してゆくかもしれない。
そうして社会主義社会が近づくと、社会に貢献しない不要不急の霞組にも、何某か社会に対して「汗をかく」よう圧力がかかるのが過去の常だった。
尤も、それ以前に、経済の下支えのため、税金引き上げも難しいのなら、最終的には紙幣を増刷して対処を余儀なくされるのかもしれない。その結果スーパーインフレが起これば、不要不急の霞組は、もはや食べる霞すらないだろう。
ワクチンか、さもなくば特効薬か、何が我々を救うことになるのか。幾多の諍いも伝染病もやり過ごしてきた文化という霞は、今回もしぶとく生き残るに違いない。アメリカでcovidによる死亡者15万人突破。東京の新感染者数367人。東京の新国立劇場バレエ公演中止。新宿の劇団で20人感染確認。
 
7月某日 三軒茶屋自宅
「オルフィカ」再考。
クロマモルフやローザスのような一段譜のピアノの旋律が、無数に折り重なるイメージ。
一つの旋律が無数の影と足跡を残し、3次元的に増幅されることで、空間の奥行きに無数の影を映し出す。そう考えてゆけば、本質をより単純化して把握できそうだ。複雑なものを単純化して提示すべきか分からないが、一つのステップとしては有効だろう。但し、情報量は極端に多い。
悠治さんの作品は、クセナキスより演奏が難しい気がする。悠治さんも演奏者だからに違いない。音と演奏家の生理がせめぎ合う感じがして、そこが面白い。
 
昨日のイタリア新感染者数は386人。死亡者数3人。
本日東京の新感染者数は463人。日本全国の感染者数1563人。
 
(7月31日三軒茶屋にて)