オトメンと指を差されて(20)

大久保ゆう

いろんなボランティアを経験してきました。といっても遠出するようなものはあんまりなくて、ほとんどが生活圏内にとどまるのですが、それでもごく普通の人よりはやっているような気が致します。

ボランティアの集まりというのは不思議なもので、たいていが〈行為〉の部分でつながっています。何をするのか、という具体的な〈こと〉の部分で、同じことをしようと思っているから集まる、という感じでしょうか。

けれども人が集まる限りはもめたりもするわけで。それが避けられないわけで。特に〈気持ち〉の部分ですれ違ったりしてしまうと、何らかの形でずれが表面化してしまいます。ごくささいなきっかけひとつで。

しかしそれでも、ほとんどのボランティアは〈いったい何に対して奉仕するのか〉という対象がはっきりしているので、そこに集約することによって、物事は沈静化したりします。これまで”Trouble is My Business”とつぶやきたくなるほどに、たくさんのもめごとに巻き込まれてきましたが、落としどころとしてはいつもそんな感じだったという印象があります。

そうしてみると、たとえば青空文庫でのもめごとっていうのは、ちょっとだけ性質が違うような気がしてなりません。だってまずそもそも、ボランティアなのに〈いったい何に対して奉仕するのか〉があんまり明確じゃないのです。たとえば人なのか本なのか社会なのか文化なのか。もっと言えば電子の本なのか紙の本なのか。

もちろん行為としてはぼんやりと共通しているわけです。紙の本から電子テクストを作ってインターネット上に放流する、という一点は。でも奉仕対象は曖昧で、だからこそさまざまな動機を持った人が集まってくることができたと言えるわけですが、その曖昧さゆえに軋轢もまた生まれてきます。

表面的にはいろんなことがあるけれども、深層的にはいつだって〈何に奉仕するのか〉で食い違ってきたように、私の目からは見えました。でもほとんどの場合、青空文庫でのボランティアに熱くなる人というのは、自分の思う奉仕対象に対して何らかの情熱を持っている人なのだと思います。自分がボランティアする動機にそういうものがまずあるわけで、意見の相違が表面化したとき、それが自分のボランティア精神の根本とつながっているものだから、自分を曲げようにも折れようにも変えようにも、そんなことは無理だ、というふうになってしまって。

だから妥協も和解もありえようがないし、表面化してしまえば最後、あとは埋まらない溝を延々と掘り続けるしかありません。

ここで話は変わるのですが、いろいろなボランティアをやってきたなかで、青空文庫というのは個人的にちょっと気楽で楽しいものでもありました。どこか趣味の範疇に収まりきるというか、何と言いましょうか。最初の頃は、感覚としてそういうものであったかもしれません。自発的にやりはじめた最初のボランティアでもありますし。

けれども以後に関わった他のボランティアがわりあい切実なものであることが多くて、比喩的に表現してもよければ、少なくとも+1が絶大な力を持つ世界でした。もう始まりの時点が0でしかなくて、たとえどんなものであろうとも、ないよりはある方が格段にまし、というようなところです。

そこでは奉仕対象がはっきりしているとともに、もめてる暇なんかない、というような状況でもありました。そんなことをしているくらいなら、さっさと+1を増やそうよ、で全員がうなずきあえるような場所だったと言えるかもしれません。

そういうところを経てきたあとで、あらためて自分のボランティアと向き合ってみると、その向こうにはどうしても〈始まりが0である人〉という存在が透けて見えてきます。そうならざるをえないというか、私の奉仕対象は圧倒的にそういう人であり続けるでしょう。

まず+1することが何よりも大事で、その上で自分の+1が奉仕対象に対して最も効果的になることを考える、というのが行動原理になるわけで、それ以外のことはどうでもよくなってしまって。

もめごとの外側に立つと、いったい何と何が対立しているのか、という本質的なことが見えてくることがあります。でも個人的には、もはやそれさえもどうでもいいと思えてしまって。ただ心に浮かぶのは、こんなことばかり。

――ボランティアの作業が停滞している、人的リソースが低下している、+1が消えていく、非効果的なものになってしまう――

0が見えたあとは、もめごとの世界がとても遠く高いもののように思えます。ハイチ地震のことも、本当に、そうなんだろうな、と。