オトメンと指を差されて(45)

大久保ゆう

ただいま湖畔のカフェにてこれを書いております。そうなんです、湖のほとりの喫茶店にてものしておるのであります(とりたてて意味のない繰り返しアピール)。

窓の外では遊覧船が停泊し、強い風とともに雪が降っており、そしてわたくしのご友人の方々はみな忙しくなったりあるいは遠方へと散り散り(そこへ来ておのれは地元へ帰り)、ひとりお茶をしながらぼんやりしているところで、そういえばそういえばこの原稿を書かねば、と思い出して今に至るわけですが、たとえばそんなことをしていなければ何をしていたかというと、やはり翻訳なのでしょう。

そもそもどなたかとお茶をしても、基本的にはわたくし、相手のお話を聞くばかりでほとんど自分からしゃべらないものですから、カフェで翻訳をするとしても、それも同じく相手のお話を聞くということであって、そこには相手が生きているか死んでいるかといった違いしかございません。

いやむしろわたくしの場合、死んでいるお方との方が積極的に活発に、対話なるものを致している場合があり、そう考えてから思い起こしてみるに、生きている人とお話するときでさえ、その基本には死んでいるお人とおしゃべりをする技術が元にあるわけでして、言うなればそれは〈おうかがいの技〉みたいなものなのですが、生きている人を死んでいる人のごとく扱うという一見失礼なものでありながら、説明すればその人のしゃべる言葉の意味はご本人が口にした瞬間のその方の頭にしかないのだからわたくしの耳に言葉が届く頃にはそれはすでに死んでしまっているのだという至極まっとうな背景があり、ゆえにそれをわたくしの頭のなかで蘇生するということであるのです。

しかしながら世知辛いことに昨今は、死んだ人との対話よりも生きている人とのおしゃべりを大事にするという風潮がございまして。いわゆるコミュニカシオンであります、こいつがわたくし大の苦手でして、どうしようもないのでございますが、そうしてみるとわたくしは今の今までひとりとして生きた人としゃべったことがないのではないかという疑念も起こってきてしまうわけで。もちろんこれは比喩にすぎないわけですが、そういう見方をしてしまえば、わたくしにはこれまでただひとりも生きた友人や仲間や先生や恋人などがいなかったという想定すら成り立ちえて、そうすると我ながら非常に哀れな生き物としてもはや憐憫を禁じ得ません(いっそのこと禁じてしまってもいいかもしれません)。

つまりわたくしの友人・恋人・先生はずっと翻訳なる〈死んだ者との対話〉であったわけで、その奇妙さは某サッカー少年の〈ボールは友だち〉に追随してしまうかもしれないのですが、それでもなおわたくしにとって〈死んだもの〉とは常に愛おしくもつらく忘れがたいものとして、生きている者よりも上にあるのでしょう。

死んだ人のことを考えるということは、自らを開くということでもあり、無防備にならざるをえず、したがって保身とは無縁のところにあります。傷つき続けることを運命づけられるわけでありますが、むろん生き延びるということとは真逆の行為で、生き物としては拙劣としたものでありますから、普通に考えれば、始終やるわけにも参りますまい。

ただ、こうも思うのです。

一年のなかで一日だけでも、あるいは一分、一秒だけでも、そういった死んだ人とのおしゃべりができない人、なさらない人――そんな御仁がいるとしましたら。

やはりそういう方を信用することは、わたくしには致しかねます。