青空の大人たち(7)

大久保ゆう

「まだ子どもやからね、わからへんやろ」とおだやかに言われてもたいていのことは子どもにもわかるものであってむしろそういったことの方が大きな痕跡を残すものでもある。

先の言葉は本家の曾祖母が亡くなったあと、葬儀の際、棺のまわりをちょこまかと歩いていた自分に向けられたものなのだが、当地ではさる無形文化財の夫人として知られた人であれ、子どもにとってはただ自分を溺愛してくれた数少ない大人であり、その人物が動かないことは幼児自身を当惑させるにはじゅうぶんだった。

車に乗せられ山を越え、そしてさらに進んで丘の上にその居宅があり、曾孫であった自分は、亡き配偶者お気に入りの義理の息子の孫ということもあってか、何かと目を掛けられ、そのかわいがられ方から曾祖母が守護霊として憑くとしたらこの子だろうと親戚一同に言わしめたほどであった。

そうした愛護者をなくすということは子どもの生活にとってはまさしく大変化であって何も感じないわけがあるまいし、自分に注がれる愛情の総量が減るということによる心境の変化もやはりまたあるものだ。たとえ概念が分からなくとも状況というものには敏感であるし、定義が理解できなくとも感じることはできる。

一九九五年一月十七日にしてもそうだ。朝早く、おそらくP波のために目を覚ましたところへ、さらに下から突き上げるような振動。ベッドのなかで布団にくるまりながらじっとこらえるが、しばらくおさまる気配はない。家の壁にひびが入るがやがて落ち着き、TVで地震速報を見ながらも家族はひとまず身支度を始めるが、自分と言えばどうにも気分がすぐれず、体温計には三八度の数字。

その日は小学校を休むことにして、ひとり自分は居間に座り毛布を身体に巻き付けてブラウン管と向き合っていたのだが、目の前に映るのは一面の焔だ。一日じゅう、延々と火を見つめていただろう。自分の住んでいたところはまだ震度五の強震で幸いにも周囲に甚大な被害はなかったものの、それでも風邪を引いてしまっていたことで、運悪くも赤という色をじっと見ることになってしまったのである。燃え始めから徐々に広がっていき、延焼していくそのさまの空撮を、とりあえず家人のでかけてしまった家のなかで心細くも見つめていた。

とはいえ炎の赤をどこまで認識できていたかというと高熱の頭では相当にあやしく、それによって多大な人命が失われた事実をどれほど理解できたかは心許ない。しかし少なくとも小学六年の少年にとって実感として訪れた恐怖として揺れのほかに強烈だったのは、〈路線図の空白〉である。多くの子どもの例にももれず少年はそれなりに鉄道も好んでいたわけであるが、そのぶんかえって自分のよく知る路線図において突如として現れた空虚は果てしない恐れをもって受け止められた。地元の駅から目をずらして路線をたどっていくと、そこから一続きになっているところが、あるところから赤く塗りつぶされ消されていく。

JRでは芦屋から向こう、阪急では西宮北口から先は不通であり、少年にはそこからがまるで異界になってしまったようなイメージすら抱かれた。経験のない子どもにとっては、鉄道で行けるところが世界のすべてであり、それまで行けたはずの世界に入れなくなってしまったことが、言いようのない衝撃として心を襲ったのである。それは今の自分にも、〈電車〉という言葉を極端に避けてしまうところに名残としてある。そのときまでは頻繁に口にしていたはずのものが、どうしても使用に抵抗を感じるようになってしまい、現在ではできる限り〈列車〉や〈鉄道〉という用語へと換えている。

全国へ張り巡らされた鉄道の万能感は、少年には将来の希望然としたものでもあった。ゆえに世界の喪失により、同時に未来の可能性までもが失われたようにも思われた。線路のつながったところには――つまり自分のゆける場所には――自分がこれから先に、もしかしたら友だちになる人が住んでいるのかもしれないし、近い遠い未来に何かを教えてくれたりする大人がいることもあれば、たとえばそのあたりにおのれの将来の恋人や伴侶がいた確率もゼロではなかったはずだ。

その場所が真っ赤に染められ、そのあと黒く塗りつぶされる。何の前触れもなく、昨日と今日と明日のあいだで、世界はいきなり変わってしまう。盤石に思っていた生活空間は、自分の日頃の行いとは無関係に崩壊しうる。輝かしいと信じているはずの未来も消えてなくなる。自分にとってそうした実感を象徴するものが〈路線図〉だったわけだ。当時の本人とってはまだ言いしれぬその感覚は、かなり後を引いた。高校生の時分にもやはり心の奥底にあっただろうし、大学生に入っても脱け出せたかどうかあやしいものだ。

人は生まれてから、どこかで一度は大規模災害や戦争、大事件に出会う。歴史を学べば学ぶほど、生涯の平和というものは希少であることを知り、初めての遭遇が実感を生み、そしてまたいつか再び訪われることも心のどこかで自覚せざるを得なくなる。

そうした不安から、少年はどういうふうに日々の生活を過ごすようになったかというと、非常に素朴な回答である――「楽しい方がいいな」。つまり毎日が明日にも崩れうる脆いものであれば、今日一日はつらいよりも楽しめるものであった方がいい、ということだ。そもそも体調からして芳しくないのが少年の常であったから、何もしなければ日常は不快しか待っておらず、してみれば〈楽しい〉とはむろん〈努力〉が求められることになる。

できるだけ笑おう。うきうきするようなことをしよう。読んで面白い物語のように、そして自分がその主人公となれるように。お手本は、マンガやアニメのなかの学園生活である。変人たちと付き合おう。突拍子のないこともやってみよう。大人らしくない大人について行こう。いやな自分から、少しでも好きな自分になれるよう改造していこう。ひとつずつ、ひとつずつ。

これはもちろん、同時に〈(必要最低限以外は)いやなことは絶対にしない〉という拒絶もその裏にあるものだから、大人にとっては厄介この上なかったに違いないが、こちらは自分の世界が懸かっているから抵抗も真剣である。〈面白くなる対案が出せなければ〉そちらの要求など絶対に飲むものかというわけだが、ただ強情であっただけはけしてでなく、〈目の前のできごとを面白く思えるようにしよう(あるいは力づくで面白くねじ曲げていこう)〉というように、物の見方・やり方を工夫していくことだって少年はしていたのであって、それでもにっちもさっちも行かないときは、突っぱねることで周囲から解決策を出してくれるよう助けを求めていたふしもある。

それにしても、楽しそうなこと、面白そうなことに対して躊躇しない、と意識的に動いていけるようになったことは、また別の変化へとつながっていくことになる。そして舞台は、部屋のなかから青空へと転ずる。