懸解

高橋悠治

「懸」は吊るされている 「解」は縄が解ける しばられていたのが急に自由になることだが 『荘子』の二箇所に昔のことばとして出てくるから かなり古いことらしいが 昔もいまも 自由は一瞬のこと すぐまたしばられ 束縛も自由も その間の変化も意識しないままにすぎていく

「明け方の雲が色を変えていくように 黄昏の空気が冷えていくように 音楽はことばにならない時代の変化を映す」

浜離宮朝日ホールで3月2日ピアノ・リサイタル「余韻と手移り」の準備をしている 知らなかった曲を集めて 弾けないところから練習の手立てを考える フレーズが くりかえされるごとにすこし変る 自分の作曲では芭蕉連句の「付けと転じ」になぞらえてやっていることも 他の作曲家のやりかたはそれぞれちがうので 音になじめないし すぐにはできない 練習のしかたもわからないから いろいろ試してみる 指だけでなく 身体全体のかかわりが記憶され 意識しないで動いていくまでには ただの反復練習ではなく 音を出さないで手の動きや位置の変化を感じることや 手の位置をたしかめながら 変化をおくらせるなど いくつかのやりかたで 変化を意識し 手が記憶するにつれて 意識では忘れることになるか じっさいは そこまではいかないし 確信ありげに音を操る名人芸になってはつまらない ことばにならない感触 共有できても一般化できない経験

練習をかさね 何回も演奏した曲でも 舗装されて足元の安全を意識することもなく走りすぎる大通りにならない音楽もある 溶けない雪が凍りついて 足の拇指でたしかめながらでないと 次の一歩を踏み出せない なめらかな見かけだが 足先の感触で 毎回ちがうところに段差や裂け目が隠れているのがわかる 最近では サティの『ジムノペディ』やシューベルトの『冬の旅』がそうだった。

作曲していても そういうことがよく起こる 経験をかさねて 身についたはずの技術が役に立たない まず全体を設計してから 細部を埋めていくような方法を捨てて 音が来るのを待つようにして以来 次の音が現れないときは 音楽がそこで停まってしまう 「壁にぶつかったらひきかえす 曲り角には別な道がある さらにもどれば またちがう道もみつかる」というやりかたで切り抜けて来たが そうでないやりかたもあるかもしれない 待っていると 行手の壁にも隙間が浮かんでくる それが細い道に見えてきたら 壁の間の狭い隙間を 身をかわしながら ゆっくりすりぬける 通り抜けると 風景もそれを見る角度も変わっている 音楽は続いていても 一貫したものではなくなり ばらばらのかけらになって散っていく