梅雨の日々

高橋悠治

人間が地球の隅々まで入り込んで そこにいた動物たちを追い出し 草木を切り倒しているうちに バクテリアやウィルスをお返しにもらうことは これからもなくならないだろう だからといって 閉じこもって暮らすのは 長続きしない 人間はじっといてはいられない動物で さまよい歩くほうが向いている と言いたくもなる

6月は毎日のように出歩いていた 小さな店がならぶ通りや 裏の小径 大通りは人気がなく 大きな店は閉まっていた

録音が二つ 声とピアノのために書いた曲を波多野睦美と フローラン・シュミットの連弾やダリウス・ミヨーの朗読とピアノの曲を青柳いづみこと 知らない音楽で 自分では選ばないような曲に出会うと それが自然にできる他人の手がふしぎに見える

それが終わって 7月のリサイタルの練習にもどると 手が まるでちがう動きかたに とまどってしまう 1966年にはじめてアメリカに行った時に出会い それから何年かつきあっていたポール千原の音楽 近藤譲を通じて知ったリンダ・カトリン・スミスの曲(井上郷子が2013年日本初演している)

ポールの『サヨナラ』という ベートーヴェンの『告別』ソナタと美空ひばりの『リンゴ追分』が聞こえる曲で終わるので プログラムの最初に『告別』を置いてみた 引退公演だと思うひともいて それもいいかもしれないが 生活のためには まだピアノを弾いているだろう それでも 大きなホールではもうリサイタルはできないだろうし しない感じがする リサイタルというかたちよりは その前からある 何人かの合奏やソロの入り混じったかたちのほうがおもしろいだろうし まだ知られていない可能性があるかもしれない

小さな曲を作る機会はまだある 長い曲は 他人の時間を使って作られる オーケストラや合唱は それぞれちがう人たちをひとつにまとめようとする 反対に まとまろうとするものを散らし 続こうとするフレーズを邪魔して 隙間をいれる サティやモンポウのように短い曲 ヴェーベルンの結晶のようにまとまって閉じていない 言いさしのように 先が見通せない曲がった道のように 断片のように 途切れとぎれて いつか聞こえなくなる音楽 そう思っていても 終わったところで 終わった感じができてしまう これをどうしたらよいのか