バロックの鍵盤音楽をピアノで弾いていると チェンバロの音とちがって 余韻が短く 音がすぐ消えることはないが 長い音をそのまま弾いていると 間がぬけて聞こえるから 装飾を付けて音を揺らしてみる 音が一瞬波立ってすぐ静まる それだけで音に表情が現れ まわりの音に影を落とす 装飾は型通りのはずだが なかば偶然の不安定な乱れが 時間の流れにリズムをあたえる 規則的なようでどこか不規則な領域に入り込んでいる 複雑にすることなしに 単純なまま かえってなにかが欠けている それも粗雑な省略でなく 意識のとどかないほどの わずかなためらいから起こる「ずれ」
それとは別に 「崩し」の技法もある 同時に幾つかの音を打つ和音では どれかの音に重みをかけることで さまざまなニュアンスがあるが 指や手や腕だけでなく 前に傾けた上半身の重みをそれぞれの指にふぞろいに振り分けるピアノの奏法ではなく 和音を分散して それぞれの指の重みではなく 音の入り時間の差をまちまちにして リズムというよりは躓きのひっかかりを不器用なままにしておくと 一回限りの偏りから生まれるきらめきが 音楽のあちこちをまだらに彩るだろう
装飾はその前の音から切れて際立つことが多いが 時には前の音が伸びた尾が揺れ動くこともある するとリズムの歩みが急におそくなる
時代楽器の奏法を現代の楽器に使うのは 時代様式の正統性を装っているが ちがう楽器には必要がない演奏法を移すと 楽器の響きをあいまいにして どこにもない音色の印象をつくりだすこともある 演奏の実験から バロックの装飾法や演奏習慣を使わなくても 揺れ動く響きや 一見単純な楽譜から 何もつけたさず 逆に微細な脱落による 見えない音楽の波を立ち上げることができるかもしれない 詩人たちは 言えないことを言わないままに 時代を記録し表現することばの技法をみがいてきた 音楽にも 音にならない臨界領域に近づく技法はありうるし それを必要とする時代もあるだろう